2020年5月29日金曜日

暑いけど…

カラッとした暑さだと木陰に入れば涼しいです。
飛び廻っていてなかなか休憩してくれないコシアキトンボが一休みしていました。

29日も晴れて 汗ばむ陽気に」(えりの気象日記 5月28日)
植木雅俊さんのTwitter

またか! この政権は、どこまでとぼけているのだろうか?
コロナ専門家会議、議事録「作成せず」 | 2020/5/28 - 共同通信

中島岳志さんのTwitterにも

議事録未作成の専門家会議によって、多くの国民のいのちに関わる政策が進められているというのは、大変恐ろしいことです。
近未来の歴史家・ジャーナリストからの厳しいまなざしを感じながら、政策は立案・遂行されなければなりません。
抑制が効かなくなります。
朝日新聞に載っていた記事(全文読めます)

高校生がマスクホルダーの贈り物 罵声浴びる区職員、涙」(5月28日)
「この状況でも全力で仕事をしてくれる人に、僕たちも何かしたいと思った」と2人。
贈り先をコールセンターにしたのは、「電話で、突き上げを受けているんじゃないかと思って」。



歩けぬ父を自転車に乗せ…インド少女、故郷まで1千キロ」(5月29日)
ジョティさんは「お金がなくて学校を退学せざるをえなかった。
自転車はやむを得ず苦しさからやったこと。
本当は勉強がしたい」と話した。
日本の聖と賤 中世篇』より「日本仏教史における聖の系譜(1)」の続きを転記しますφ(..)
沖浦 常行三昧の念仏は、どちからといえばゆるやかな旋回型です。
それに対して、この念仏踊は激しい踊り……。
これはさきに見た、アメノウズメノミコト流の激しいオドリ。
シャーマニズム流にいえば、踊り狂うことによって日常意識の変異状態をひき起こし、一種の脱魂作用で、他界飛翔(ひしょう)の感覚にひたる。
この場合の他界は、もちろん阿弥陀如来のいます浄土なんですが……。
(『日本の聖と賤 中世篇』野間宏 沖浦和光 人文書院 1985年)
野間 そこらあたりも舞踊史として掘り下げてみると興味深い。
ところで一遍は、親鸞より70年ほどあとに生れている。
栗田勇氏の『一遍上人』(新潮社)が、一遍を現代に甦(よみがえ)らせたが、先祖は祝(はふり)部・遊部から出ているようで、愛憎のもつれに取りつかれ、一生を旅に過ごした。
 一遍が創始者になった時宗は、貴族仏教であった平安仏教のあり方に正面から挑戦した鎌倉革新仏教につらなるんだけど、彼は生きている時は教団組織をつくらなかったので、時宗教団の結成は室町期なんですネ。

沖浦 一遍は法然の弟子であった証空の門弟の聖達に師事してますから、法然の孫弟子になるわけです。
野間 それから一遍は、伊予の豪族、河野道広の子供ですネ。
もっとも、その頃は、河野家も没落していたが。

沖浦 ええ、伊予水軍を率いていた河野氏の出です。
まア、いうならば海賊の頭領(とうりょう)の血をひいてる(笑)。

野間 あなたのところも水軍の出だから、遠い親類筋にあたるわけで……(笑)。
沖浦 一遍は16年にわたって遊行生活をしたのですが、すべての衆生の浄土往生を確信したのは、阿弥陀の浄土にもっとも近いといわれていた熊野本宮に百日参籠(さんろう)した時です。
すべての衆生は、どんなに穢れていようと、いかなる不信心者であろうと、阿弥陀如来の名号(みょうごう)の力によってかならず救われるのであるから、ただひたする<南無阿弥陀仏・決定往生六十万人>と記した札を諸国を回ってくばるようにという夢告(むこく)をうけた。
野間 それで名号の札をくばる賦算(ふさん)の旅を続け、空也上人にならって各地で念仏踊を催した。
こういう布教のやり方は、大寺院が相手にしなかった当時の民衆からも広く迎えられた。
<一切衆生・平等往生>を説いた法然の思想も、この一遍によって民衆の間に土着化されたといえる。
教義がわかりやすいということもあるが、なによりも一遍みずからが札をくばり、民衆の先頭に立って踊るんだから、大寺に籠って民衆の中へまったく出ない高僧とは全然ちがったわけです。
それから、平安末期から鎌倉・室町時代にかけてたくさんの聖が出てますが、彼らはやはり、空也・一遍の教えをひきついだ者が多かった。
沖浦 (ひじり)というのは、もともとは徳の高い僧のことを意味したのですが、それがしだいに、寺院に所属しないで別所などに隠遁(いんとん)しながら、独自の修行をやっている僧をさすようになる。
それからさらに、寺院を離れて庶民の間に教えを説いて回るえらい僧侶を意味するようになります。
つまり、空也や一遍のことですネ。
さらに転じて、阿弥陀聖、念仏聖、高野聖というように、戒を持たず俗世の中で法を説いて生きていく民間僧をさすようになった。

野間 そういう律令制に定められた僧尼令からハミだした僧侶というか、民衆の中に身を投じた者……。
沖浦 正式に得度していない私度僧というやつです。
半僧半俗の、在俗の優婆塞(うばそく)というか。
さらに彼らの下には、生きていくための方便としての僧形をした下層の民衆もいたわけです。
さきにみた諸国遊行の貧しい芸人なんかは、その多くが僧形をしたとみられています。
だから、たとえば千秋万歳法師というように、彼らがやる芸能の下に法師をつけて呼ばれた。
彼ら芸能者は、散所(さんじょ)に住んで諸芸にたずさわっていた者のみならず、宿や河原に住んで門付け芸や大道芸をやっていた遊芸人までも僧形が多かったので、法師、法師原と呼ばれています。
 たとえば鎌倉時代の辞書『名語記』に、次のように散所の乞食法師のことが出ています。
 「千秋万歳トテ、コノゴロ正月ニハ散所ノ乞食法師ガ、仙人ノ装束ヲマナビテ、小松ヲ手ニササゲテ推参シテ、様々ノ祝言ヲイヒツゞケテ、禄物ニアヅカルモ、コノハツ日ノイハヒナリ。」
野間 僧の恰好をしていると、関所なんかもだいたいフリーパスで、見た目にも、他の服装よりは人びとから畏敬(いけい)の念で見られるかもしれぬ――そういう思惑もあったのでしょうネ。
沖浦 これも有名な文章なんですが、三好良行が延喜14年(914)に朝廷に具申した『意見封事』の「請 レ 禁 二 諸国僧徒濫悪乃宿衛舎人凶暴 一 」の条に、次のように興味深い記述が見られます。
 「諸国百姓、逃……(略)……」
 諸国の百姓が、課役・租庸を逃れるために、髪を落し法服を着て出家しているが、このようなニセ坊主がしだいに増えて天下の人民の三分の二を占めている。
彼らは妻子を持ち、生肉を食い、形は出家した僧に似ているが、その心は獣を屠(はふ)る卑しい人間とおなじであると、断じているのです。
野間 なかなかすごい文章だ。
ただ、「天下之人民、三分之二」というのは誇張された数字でしょう。
人民の三分の二がニセ坊主になったら国家も終わりです(笑)。
それはさておき、こういう意見書が出てるということは、かなり多数の民衆が、課役逃れのために僧形をして諸国を流浪したことは事実なんでしょう。
 さきほど整理されたように、聖といっても、上は貴族出身の隠遁僧から、さらに空也・一遍上人のように社会の前面に出て活躍したえらい僧、下はモグリの俗聖まで、ほぼ四つほどの類型に分かれる。
いずれも日本仏教史、とくに民間信仰史において無視できぬ存在なのですが、民衆生活からいえば、やはり下級の聖の方が、じかに民衆の生きざまとかかわるので大きい意義を持っていたといえる。
(『日本の聖と賤 中世篇』野間宏 沖浦和光 人文書院 1985年)
今朝の父の一枚です(^^)v
マツボックリを見て、母が、鳥が止まっているようだと話していました。
そんな思い出のある木です。

 粘りはない聖なる木
 ヒマラヤスギ(マツ科)
 ヒマラヤ原産のヒマラヤスギは、ヒンドゥー教の聖なる樹木のようです。
スギと名前がついていますがマツの仲間で、針のような葉を出しています。
やや白っぽい青緑の葉で、成長も早く存在感があり、パキスタンの国の木にもなっています。
腐りにくく丈夫なので、現地では建築材に利用されていますが、壊れやすい性質もあります。
(略)
 ヒマラヤスギは日本には明治時代に持ち込まれ、主に公園樹として利用されています。
材としては粘りはあまりなく、台風など強い力がかかると折れたりするものもあります。
聖なる木も打たれ弱い部分もあるのです。
(後略)
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)