2020年5月10日日曜日

母の日

今朝は、時々、雨が降ってきました。
今日は、「母の日」だけど、会いにゆけない人たちが多いのだろうな…

新型コロナ影響の母の日 生花店大忙し 感染拡大防止対策も」(NHK)
10日は、母の月命日。

新川和江さんの「あめのあしおと
河野進さんの「いたわり」、「」を転記したいと思いますφ(..)
  あめのあしおと

あめが
ふっているね おかあさん
こんなまよなかなのに
いっしょうけんめい ふっているね
とおくの とおくの とおくのほうから
ひたひたひたひた
はだしで はしってきて
ひたひたひたひた
まどしたをとおりすぎていく
あめにも
びょうきのこどもが いるんだろうか
おいしゃさんをむかえに
あめのおかあさんは
ひたひたひたひた
くらいよみちを はしっていくんだろうか
しんけんなかおをして
ひとやすみもしないで……
ぼく もう
ねつさがったよ おかあさん
こんどは おかあさんがおねむり
ぼくがばんしていてあげる

(『お母さんのきもち』新川和江 小学館 2001年)
  いたわり

あなたの詩を読んで
お母さんはずいぶんやさしい人でしたね
いいえ わたしたちこどものころ
お母さんはみなそうでした
ほしいものは何でも買ってくれる
今の時代とちがって
母と子がいたわりあうだけが
よろこびだったのです
(『河野進詩集』 櫂歌書房 2016年)
  旅

みどりごは
ほっぺを真っ赤にして
母のひざをしたい
もどかしそうに
小さい手と足で
這って行く
純真なうれしい長旅よ
(『河野進詩集』 櫂歌書房 2016年) 
昨日、ボヤいたのですが
羽海野チカさん

#検察庁法改正案に抗議します

と発信されている。

「#検察庁法改正案に抗議します」投稿広がる 380万超に〟(NHK)
与党に加わるK党は結党の精神を忘れるほど
権力の座は魅力的なんだろうか!

牧口先生、戸田先生は、厳しい尋問にも屈せず、信念を貫く獄中闘争を続け、牧口先生は1944(同19)年11月18日、創価教育学会創立から14年後のその日、老衰と極度の栄養失調のため、拘置所内の病監で逝去しました。満73歳でした。

と、「初代会長 牧口常三郎先生」(創価学会HP)にあるのだけど、
別の支持基盤があるのでしょうかね…
名前だけは知っていた「日蓮」について、その思想を知ったのは内村鑑三の『代表的日本人』でした。
代表的日本人として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の5人をあげています。
最初、この本を読んだ時に内村鑑三が日蓮を取り上げているのにビックリした覚えがあります。
最初に読んだ訳は1941年9月20日に出た鈴木俊郎訳なのですが、同年12月8日に真珠湾攻撃が行われました。
戦時色の濃い時期に、1891(明治24)年の「不敬事件」の当事者の本を出版することは大変なことだったと思います。
また、この本で初めて上杉鷹山を知りました。

思想家紹介 内村鑑三」(京都大学 文学部)
鈴木範久さんの解説には

「日蓮」は、経歴において共通点が少なくなく、みずから日本における「キリスト教の日蓮」たらんとの志が窺われる。
この意味では本書を書くことにより、キリスト教を受容した日本人である内村自身の、アイデンティティの確立がはかられたものといえる。

(『代表的日本人』内村鑑三著 鈴木範久訳 岩波文庫 1995年)

訳文は鈴木範久さんの訳が読みやすいのですが、
鈴木俊郎訳の「日蓮上人――仏教僧侶――」より「八 性格の評価」を転記しますφ(..)
本文は、旧漢字ですが、新漢字に改めています。
また、リンク先は、鈴木範久さんの新版になっています。
 八 性格の評価
 
 本文の主人公より以上に謎の人物は、嘗て我が国の歴史に現れなかつた。
敵にとりては、彼は冒涜者、偽善者、己が腹に仕へる者、山師の親方、といふが如き者であつた。
彼の如何物師(いかものし)たるを証明するために、幾つもの書物が書かれた、中には非常に巧妙に工夫されたものがある。
彼は、仏教がその敵に攻撃せらるる時の、好個の攻撃目標である。
彼自身の宗派〔日蓮宗〕以外の同じ仏教徒により、仏教の受くる一切の誹謗を担ふ贖罪の羊(スケープ・ゴート)とされた。
如何なる人も日本に於てこれ以上の讒謗(ざんぼう)を積み重ねられた者はない。
そして基督教が此の国に現れた時、基督教も亦この問題に参加し、多くの意思が更に此の方面からもまた彼に向つて投ぜられたのである。
嘗て基督教の有名なる牧師の一人がその全注意を斯かる方向に向けてゐたことを余は知つてゐる。
実際、日本に於ける基督信徒にとりては、此の人に称賛の辞を呈することは、イスカリオテのユダに好意ある言葉を語るだけ不敬虔に響くのである。
(『代表的日本人』内村鑑三著 鈴木俊郎訳 岩波文庫 1941年)
 併し余としては、もし必要とあらば、此の人のために我が名誉を賭する。
彼の教義は概ね今日の批評学の試験に堪へ得ないことは余も認める。
彼の論争は上品でない、全体の調子は狂気の如くである。
彼は確かに不均衡の性格であつた、たゞ一方向にのみ余りに尖鋭であつた。
併し乍ら彼よりその知識上の誤謬、遺伝されし気質、時代と環境が彼の上に印したる多くのものを剝ぎ取れば、然らば諸君はその骨髄まで真実なる一個の霊魂、人間として最も正直なる人間、日本人として最も勇敢なる日本人を有するのである。
偽善者は二十五年以上もその偽善を保つことはできない。
また偽善者は彼のために何時でも生命を投出さんとする幾千の隋身者を有つこともできない。
『不信実なる人間が宗教を発見したといふか』と、カーライルは叫ぶ、『不信実なる人間には煉瓦の家を建てることもできないのではないか。』
余は余の周囲を眺め、此の人の死後七百年の今日、四千の僧侶と八千の教師を擁する五千の寺院と、此の人の定めた方式に則り其の中にて礼拝しつゝある百五十万乃至二百万の信徒を見る、而かも余は此等は凡て恥知らずの山師の仕事を考ふべしと聞かされるのである!
斯かる事を信ずるには、余の人間性に対する信仰は余りに強くある。
もしも虚偽が此の地上にて斯くも永続的なるものなりとすれば、他の如何なる手段によりて我我は正直を虚偽と区別すべきであらうか。
 人間として最も不敵なる人間、この彼の勇気は全く此の地上への仏陀の特別な死者〔上行菩薩〕であるといふ確信に基づけるものであつた。
彼自身は何者でもない、――『海辺の旃陀羅が子』である、――併し法華経の伝道者たる資格にありては、彼の身は天地一切の重要さを有つものであつた。
『我はかひなき凡僧なれども』彼は嘗て或る権門の人〔本間重遠〕に言うた、『法華経を弘むれば釈尊の御使なり、梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく)も我が左右に事へ、日天月天も我が前後を守り、我が国すべての神神も頭を垂れて我を敬ふべし』と。
自己の生命は彼には何ら価値なきものであつた、併し国民が斯かる法の把持者たる彼を迫害するは、彼には言ふべからざる悲嘆であつた。
もし彼にして狂せしならば、彼の狂気は高貴なる狂気であつた、それはかの最も高貴な形態の自尊心と区別し難きものであつた、即ち果すべく遺された使命の価値によつて己自身の価値を知るといふ自尊心である。
自己自身について斯かる評価をいだきたる者は、「歴史」上、日蓮がたゞ一人ではなかつたのである。
 それゆゑに経典、殊に彼自身の法華経は、烈しき迫害の歳月の間、彼の不断の慰籍の源泉であつた。
日蓮、謫流の地に舟出せんとする時、師の小舟に追ひ縋らんとせし愛弟子日朗が舟夫の怒りて打下ろす櫂に痛ましく腕を折られたるに向ひて、左の慰藉を与えた、『今、末法に法華経を弘むれば、杖をもつて打たれ、或は又遠く流罪に成るべしと、法華経勧持品に説き置かれたる其の明文が、二千余年の今日唯今、汝と我との上に臨んだのである。されば喜べよ、法華経勝利の日は近くがゆゑに』と。
彼の弟子達に宛てた謫流書翰は、諸経典よりの博引傍証に満ちてゐる。
彼はその一つに書いて曰うた、『涅槃経に転重軽受(てんぢゆうきやうじゆ<重きを軽きに変へる>)と申す法門あり。……今生に斯かる重苦に値(あ)ひ候へば、地獄の苦みはんと消えて、死に候へば、人天三乗一乗の益を得る事候(我等此の重きを此の生にて受く、それと共に来らんとする生に於ける軽きが保証されている)。……提婆菩薩は外道に殺され、史子尊者は頸を刎ねられ、其の外、仏陀密多、龍樹菩薩なんども多くの難に値へり。……正・像、猶かくの如し、中国又しかなり。これは辺土なり、末法の始めなり、かかる事あるべしとは、先に思ひ定めぬ。期をこそ待ち候ひつれ』と。
聖書がルーテルに貴かりしだけ、法華経は此の人に貴くあつた。
『我不愛身命(がふあいしんみやう)、但借無上道(たんじやくむじやうだう)』(我は身命を愛<を>しまず、たゞ無上道を惜しむ)は、幾多の危機に臨んで彼の用ひし言葉であつた。
ルーテルが或る意味にて然りし如く、彼は経典崇拝者( bibliolator )であつたかも知れない、併し書物はあらゆる種類の偶像や権力よりより高貴なる崇拝の対象である、そして一書のために死に得たる人は、英雄の名を以てよばるる大概の人人よりより高貴なる英雄である。
現代基督信徒の日蓮誹謗者をして、自分の「書」は塵に蔽われをらざるや否や、或はもし其が日日口にのぼり、その霊感は熱烈に擁護せられつゝありとならば、彼は己の遣はされたる国民に其れの受けられんがために、十五年間、剣難と謫流に堪へ、身命と霊魂をそのために賭し得るや否や、顧みる所あらしめよ。
日蓮こそは、他の凡ての書にまさりて人類の諸問題を善き方に導きたるかの「書」〔聖書〕の所持者によりて、石打たるべき最後の人であらねばならぬ。

(「より」「自分の」に脇点「、、」「、、、」。以下同じ)
 日蓮の私生活は、想像され得る最も簡素なものであつた。
鎌倉に草屋を構へしより後三十年、富裕な在俗の人人が彼の弟子であり、安楽気儘な彼の望みに任せた時に、我我は彼が身延に於て同様の草屋にあるを見出すのである。
彼の所謂『仏敵』には極めて仮借なかつた彼は、貧しきもの悩めるものに接する時、人として最も柔和なる人であつた。
彼の弟子への手紙には、記念すべき『立正安国論』の熱火と大なる対照をなして、極めて穏かな気分が通つてゐる。
弟子達があれほどまでに彼を思慕したは、不思議でない。
 実際、日蓮の生涯は何時も余をして多妻主義を除いたマホメットを想起せしむる。
同じ強烈さ、同じ病的な熱狂、しかしそれにも拘らず目的に対する同じ誠実、哀なる憐愍と柔和との豊かさは、一に於けること他に於けるが如くである。
たゞ余は日本人はアラビア人より、前者が彼の経典に信頼したるは後者がそのコーランに信頼したるにまさつてゐた点に於て、より偉大なりしと信ずる。
斯かる頼るべき書ありて、形而下的勢力は日蓮にとり必要欠くべからざるものではなかつた
其の書は独りにて何ら人間の助けなくして十分に一つの勢力である。
その価値を確立するために如何なる勢力も必要ではない。
マホメットより偽善の非難を取去つた「歴史」は、日蓮の正当なる評価のためにより多くを為すべきであつた。
 それゆゑに彼の第十三世紀の衣裳、彼の批評学上の知識の誤謬、彼のうちに宿つたかも知れなぬ僅かな精神異状の気味(凡ての偉人に宿つてゐる如く、と余は想像する)を剝ぎ取れば、其処には一個の注目すべき人物、全世界に於ける彼の如き人物のうちにて最も偉大なる者の一人が、我我の前に立つのである。
これ以上に独立する人を、余は我が国人の間に考へることはできない。
実際、彼は彼の独創と独立とによつて、仏教を日本の宗教たらしめたのである。
彼の宗派のみ独り純粋に日本的である、しかし他の凡てはその起源を或は印度、或は支那、或は朝鮮の人人に有つたのである。
彼の大望もまた、彼の時代の全世界を抱容せるものであつた。
彼は彼の時までは仏教は印度から日本にまで東方に向つて進み、彼の時より日本から印度へ改善されたる仏教が西方に向つて進むべきであると語つてゐる。
それゆゑ彼は受動的受容的な日本人の間にあつて一つの例外があつた。
――疑ひもなく、甚だ御し易き人間ではなかつた、彼は彼自身の意志を有つてゐたからである。
併し斯くの如き人のみが独り国民の脊椎骨である、しかし温順、謙遜、受容性、嘆願能力などの名を以てよばるる他の多くのものは、国家の恥辱以上の何ものでもない。
 争闘性を差引きし日蓮は、我等の理想的宗教家である。
(『代表的日本人』内村鑑三著 鈴木俊郎訳 岩波文庫 1941年)
テントウムシの仲間だけど、
農家の人からすれば別名テントウムシダマシとも呼ばれる厄介者
ナス科の植物が被害を受ける。
畑の害虫図鑑~テントウムシ編~【畑は小さな大自然vol.33】

中身のない空っぽの対策しかできないことを見抜いているのだろうな
新型コロナ対応のリーダーシップ 多くの国や地域で不満の評価」(NHK)