2020年5月27日水曜日

雨があがって

雨が上がったけど、すっきり青空とはいえない曇り空でした。
モミジの翼果(よくか)は2枚なんだけど、3枚の翼果に出会いました。
2年前に初めて出会った(2018年4月22日の記事)。
情熱大陸で坂本史衣さんを知ってからファンになりました(*´▽`*)

坂本さんのTwitterを読んでいると参考になるし、元気をもらえますp(^^)q

病院では(人がいるところで)消毒薬の噴霧はやらない。
理由は二つ。
①人体に対する吸入毒性
②微生物に対する効果が不確実
子供の学校でやったら全力で止める笑

5月27日午前11時46分

紛れ込んだ誹謗中傷いやがらせツイを見つけたらうっとうしいので庭の草むしりとして全ブロックします。
匿名だと思ってのびのびやってるんだろうけど、本当の匿名って無いから。

5月27日 午後3時14分
岩波書店のTwitter

【今日の名言】
人間のすべての性質のなかで、嫉妬は一番みにくいもの、虚栄心は一番危険なものである。
心の中のこの二匹の蛇からのがれることは、素晴しくこころよいものである。
――ヒルティ『
眠られぬ夜のために』(第二部)
 「米 ツイッター社 トランプ大統領投稿に注意喚起のラベル」(NHK)
大統領は、ヘビ使いだなと思う。
SNSを頻繁に発信することで人びとの嫉妬や虚栄心をうまく利用している。

SNS事業者団体が緊急声明“禁止事項の違反 利用停止など徹底”」(NHK)
匿名でなんでも言えると勘違いしている人たちがいるけど
プロバイダ責任制限法」をもっと被害者の救済のために強化すべきだと思う。

SNSの匿名アカウントによる誹謗中傷を撲滅するために、プロバイダ責任制限法の改正と刑事罰化を求めます!」(change.org)
神谷美恵子コレクション 生きがいについて』より転記したいと思いますφ(..)
パソコンやスマホなどで小説などを読むことができるけど、
本は、ページをめくりながら書かれていることを反芻したり
そこから思いをひろげたりすることができるように思う。
パソコンの画面だけからは、思いつかないことが浮かんでくる。
紙の手触りを楽しんだりもしている。
7 新しい生きがいを求めて
 生きがいをうしない、絶望と虚無の暗い谷底へおとこんでしまったひとの多くは自殺を考える。
これはどこの国でも大体同じらしく、アメリカのクレインズは、「非常に悲しい事件に遭遇したとき、正常人の50%は自殺を考える」といっている。
日本ではもっと高い数字が出るかも知れない。
らいにかかったひとびとも幼少の頃に発病した者をのぞいては、大部分が少なくとも一度は自殺を思い、自殺企図を二回や三回くりかえしたという例はめずらしくない。

(「らい」に脇点「、、」)
(『神谷美恵子コレクション 生きがいについて』みすず書房 2004年)
 すでにのべたように、生きがいをうしなった人間が死にたいと思うとき、一ばん邪魔に感じるのは自己の肉体であった。
しかし実際はこの肉体こと本人の知らぬ間にはたらいて、彼を支えてくれるものなのである。
さらにいうならば、その生命力の展開を可能ならしめている時間こそ恩人というべきであろう。
自殺未遂者の大多数(80%)はあとで「死ななくてよかった」といい、大部分が(75%)がその理由として「心がまえが変った」とのべた調べがある(*)。
自殺行為により必ずしも生活環境が変ったり、願望が達せられたりしたのではないのである。

(* 大原健士郎「自殺未遂者の予後」精神医学、10号、713頁、1959年)
 時間というものは人間の心の思い如何にかかわりなく、人間の内側のありかたを変えて行く。
たえがたい苦しみ、悲しみ、病、老、死をも時間がのりこえやすくしてくれる。
からだの傷は時の経過だけで、自然にはんこん化し、組織が再生されて行く。
これと同じような現象が精神の領域にも行われる。
そこに関与する大きな要素はあのふしぎな忘却という作用である。
この底なしの深淵(ふち)にはどれだけのものがすいこまれて行くことであろう。
 すべて自分のものと感じられるものに執着するのが人間の性質であるから、過去のなやみがいまわしいものでないかぎり、これを忘れたくない、悲しみから癒されたくない、と願う心もある。
しかし時の力は容赦なくはたらく。
その癒しの過程が何よりもまず肉体にそなわっている生命力によるものであることに、パール・バックも気づいている。
  「私の持って生まれた健康も、また私の魂の転換には多少の関係がありました。私は太陽が昇り、そして沈んで行くのも、四季がめぐって来て、また過ぎて行くのも、家の庭に花が咲き、通りを人が過ぎて行くのも、また町から笑い声が聞えてくるのも感じるようになりました。とにかく悲しみと融和の道程がはじまったのでした。」(『母よ嘆くなかれ』)
 時の経過はまた外側の生活状況をも変え、新しい環境、新しい対人関係、新しい事態をもたらす。
人間は否応なしにそれらの新しい刺激に対応しなければならなくなる。
そのために、古い感情や欲求や夢は次第に意識の外に追いやられることになる。
しかし、これは必ずしも存在しなくなることを意味しない。
フロイトのいうように、自分にとって都合のわるいことは抑圧され、無意識の世界におしやられるということもたしかにある。
しかし生きがいをうばわれたというような状況は、多くの場合、そう簡単に無意識のなかに封じこめられてしまいうるものではなく、単に意識の周辺におしやられ、そこで存在しつづけるのではなかろうか。
それが意識の中心を占めるものの背景となって、これに影響をおよぼすものと思われる。
それは虚無と暗黒の背景であるから、ちょうど暗視野装置の顕微鏡でものをみているように、対象の存在が浮かびあがってみえるのではないかと思われる。
  自殺をふみとどまらせるもの

 さて、自らの生命を断ちたいと願う心を抑えるものは何であろうか。
それはうつ病のひど状態にあるひとのように、その考えを実行に移すだけの勇気や元気がないという消極的な場合もあろうし、また肉親に与える悲しみを思って実行できない場合も多い。
 ウィリアム・ジェイムズは「人生は生くるに値するか」という文書のなかで、たとえ宗教や哲学を持っていないひとでも、自殺一歩手前というところで、次の三つのものによって踏みとどまることができるはずだといっている。
第一は動物ですら持っている単純な好奇心で、人生にまったく生きる意欲を失った人間でも明日の新聞に何が載るだろうかとか、次の郵便で何が来るかを知るためだけでも(自殺を)あと二四時間のばすことができる。
第二は憎しみや攻撃心であって、たとえ心のなかで愛や尊敬のような感情が死んでいても、自分をこんなひどい目にあわせるものに対して戦おうという感情に支えられることもできる。
第三は名誉心で、自分というものの存在を可能ならしめるために、どれほどの犠牲が払われたか、たとえばどれほどたくさんの動物が自分を養うために屠殺されて来たかを考えれば、自分もまた自分の分を果し、これくらいの悩みを耐え忍ぼうという気をおこすのがふつである、といっている。
 動物の屠殺の項はいかにも西洋人の意見らしくおもしろいが、この名誉心というのを自尊心ということにふりかえてみるなら私たちにもうなずける。
日本の大学生たちに自殺についての意見を書かせてみると、自殺は卑怯であると記す者が多い。
自尊心と生への責任感が自殺をふみとどまらせるのに役立っていることはたしかである。
 第一の明日への好奇心は、前にのべた時間の問題につながる。
絶望しているひとには、未来が存在しないのであったから、たとえ一日でも待つという心を持つことができれば、それはすでに前むきの姿勢ということができる。
自分はいつまでもこのみじめなままの自分でしかなく、事態はいつまでもこの絶望的なものでしかないときめこんでいるのが自殺志望者の通有性なのであるから、このひとたちにとって時間の持つ可能性を信頼するということは一大事業といえる。
「ただ立ちて待つ」(ミルトン)こと自身が絶望への屈服を拒否する第一歩なのである。
 自殺をふみとどまらせる上に一ばん大きな原動力となるのは、なんといっても第二の攻撃心かも知れない。
打たれれば打ちかえす、というのが人間にそなわっている原始的、本能的な反応のしかたであるから、運命の打撃をうけた人間がまず最初に発するうめき声は「なぜ自分だけがこんな目にあわなくてはならないのだろう」という、あのパール・バックのうらみにみちたことばである。
このうらみと攻撃心が自分にむけられてしまえば自殺となり、どこにもこれを持って行きようのないとき、それはいつまでも心のなかでくすぶりつづけ、マックス・シェーラーのいう「怨恨の人」(『価値の転倒』)をつくり出す。
それが自分よりも運のいい人たちにむかって発散され、しっとや憎悪やあの嫁いびりなどにみられる「シャーデンフロイデ」の形をとることも稀ではない。
またそれが過度にきびしく他人をとりしまる道徳家をつくり出すこともある。
犯罪のなかにもこのようなうらみの心からおこるものがかなりあることはよく知られている。
 しかしこのうらみの念も、報復の念も、適当な方向とはけ口さえあたえられれば、一たび足場を失って倒れた人間を再びおきあがらせるバネの役目を果たしうる。
長い絶望の期間の後にパール・バックを再びしゃんとさせたのは、この事を無駄に終らせてはならない、娘の不幸を社会的に意味あらしめようという烈しい意欲であった。
羽仁五郎は愛児を一歳半でうしない、その深い悲しみを契機として次のような心境に至ったという。(*)
  「世界に比なき日本の乳幼児の死亡率の高さに対して、すなわちその原因である日本帝国主義の残酷に対して、あくまでたたかうことを決意するようになった。」

(* 羽仁五郎『生と死について』新潮社、1948年〔大和書房、1970年〕)
 伝道者藤井武が愛妻をうしなって悲嘆のどん底にあったときにも、彼を再び立ちあがらせたもののなかには、この復讐心ともいうべきものがみられる。
次は当時彼があるひとにあてた手紙の一節である。
  「私はこのようなことをする人生に対して憤らずにはおられません。私は最も美しいものを生み出すことによって人生に復讐しないではいられません。」
 こうして彼は妻の死後七年間、自らの死に至るまで、子どもたちをかかえた独身生活の不自由と淋しさに耐え、さらに高く深い信仰生活に飛躍し、長詩「羔(こひつじ)の婚姻」をはじめ多くの文章によってみごとな形而上的世界を創りあげたのであった。
 がんや結核などでもはや治る見込みのないことを自覚している人間の場合には、それでうちのめされ切ってしまわないだけの攻撃心の強いひとならば、その攻撃心が時間というものにむけられることもある。
自分の余命はもうあと何年、何ヵ月しかない、という認識は一種の終末論的な意識と緊迫感をうみ、それがすべての思考や行動の背景となる。
許されたわずかな時間を最大限に生かし、そこに質的な永遠を打ちたてようとする烈しい意欲である。
その際には肉体的な苦痛も精神的な苦悩もかえっててこの役割を果たす。
英国の作家キャサリン・マンスフィールドは肺病のため孤独な転地療養をつづけ、健康にあこがれ、夫とともに明るい家庭を築ける日を夢みつつ、ついにかなわなかったが、その苦悩のゆえにあの水晶のような短編の数々をうみ出した。
彼女の死の二年前の日記から引用してみよう。
  「人間の苦しみには際限がない。「もうこれで海の底へとどいた――これ以上深みに落ちることはない。」と考えていると、また更に深みに落ちて行く。こうして永遠に続くのだ。……
   苦しみも克服できるものだという私の信条の記録を残さないで私は死にたくない。私はそれを確信しているのだから。……
   生は一つの神秘だ。恐ろしい苦痛もやがて衰える。私は仕事に向わねばならない。私は自分の苦悩を何ものかに投げ込まねばならぬ。それを変化せいめねばならぬ。「悲しみも喜びに変えらるべし。」」
(『神谷美恵子コレクション 生きがいについて』みすず書房 2004年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ザクロにスズメが止まっていました。
蒸し暑さに汗がでてきましたが、父はがんばって歩いていましたp(^^)q
熱中症対策の一つは、汗をかくことだと思います!

27日の日中は晴れ この夏はいつも以上に暑い!?」(えりの気象日記 5月26日)
顔見知りの方が、公園で自殺者がでたようだと教えてくれました。
7年前にも自殺された方がいました(2013年10月22日の記事)。

新型コロナウイルスで875名の方が亡くなっています(5月27日午前0時時点)。
一方、日本の自殺者は年間2万人を超えています。
休業補償や生活困窮者などへの対策を見ていると
今年は、例年になく自殺者が増えるのではないかと危惧しています。

日本国内の感染者数(NHKまとめ)

自殺者数」(警察庁)