雨が降っていたけどリハビリ散歩に出かけましたp(^^)q
〝全国約2万7000人「発熱続く」 厚労省とLINE調査〟(NHK 4月10日)
今日も私のガラホにも届くのだけど、開こうとするとすぐに画面が閉じられます。
ガラホは相手にしてくれないようです(^-^;
昨日は、ブラタモリ「法隆寺~なぜ法隆寺は1400年愛され続けるのか?~」
と
今朝は日曜美術館「法隆寺の至宝~金堂壁画をよみがえらせた人々~」
そして
3月21日には、新美の巨人たち「奈良『法隆寺』」がありました(*´▽`*)
法隆寺は何度か訪ねていて、百済観音さまにお会いしてから
中宮寺の菩薩さま(伝如意輪観音)にお会いするのを楽しみにしていました。
5月18日まで「法隆寺の救世観音像 春の公開」(奈良NHK)なのですが、拝めないな…
発病前に奈良を訪ねる時に参考にしていた
直木孝次郎氏の『奈良―古代史への旅―』より転記しますφ(..)
この本は、重版にむけて作業中のようです。
第6章 国家興隆のかげに
斑鳩の政治地理
奈良市の中心から西南へ約15キロ、緑の矢田丘陵を背にして、法隆寺がある。
奈良からバスが開業する以前、国鉄関西線と、近鉄(当時は大軌といった)平端からの軽便鉄道とが利用できる交通機関だった。
どちらの駅からも法隆寺へ約1.5キロ、歩くにしたがって、さわやかに力強い五重塔がだんだん近づいてくる、あの期待にみちた20分間ほどの充実した時間を、私はほかにあまり知らない。
いまは騒音にみちた国道25号線の法隆寺前でバスを降りて、ほこりにまみれた松並木の参道をぬけてゆく。
文明の発達に疑いをいだくのは、いつもこの時である。
(『奈良―古代史への旅―』直木孝次郎 岩波新書 1971年)
しかし文明論をしている場合ではない。
私のいいたいのは、法隆寺を中心とする斑鳩(いかるが)の地の地理的環境である。
奈良盆地の西やや北よりにあって、古代の政治の中心地である飛鳥から遠く、政治地理的にめぐまれない土地のようであるが、いま法隆寺の門前を大阪への国道が走っていることからも察せられるように、難波津との関係は古代においても不便ではなかった。
むかしの道は、法隆寺の西の竜田川をわたったところで国道とわかれ、王寺の町の北、大和川の北岸を通り、竜田神社本宮(竜田神社は斑鳩町にもある)の前あたりから山にかかり、大和川の亀が瀬を下にみながら峠・雁多尾畑(かりんどおばた)をへて、高井田へ下り、難波へむかったらしい。
竜田道といい、奈良遷都以後は、平城と難波の連絡には、この道がもっとも頻繁に利用された。
竜田道は、法隆寺の約6キロを南北に走る下津道につづいており、平城京羅城門に至るのである。
その下津道との接続は、飛鳥時代以来のことと考えてよかろう。
斑鳩の地にとってもう一つみおとせないのは、水運の問題である。
大和川の本流が法隆寺から2キロあまりしかはなれていないだけでなく、富雄川・竜田川・葛城川などの大きな支流も、その付近で合流する。
交通上、古代の河川がはたす役割の大きさは、現代と比較にならない。
推古16年に来朝した隋の使者が、海石榴市(つばいち)まで初瀬川を船でさかのぼったと考えられることはさきに述べたが、藤原から平城への遷都に際して、佐保川の水運が利用されたことは、『万葉集』の歌であきらかである(79番)。
水運にかぎっていえば、斑鳩は奈良盆地の扇の要(かなめ)に当るところである。
このようにみてくると、聖徳太子が推古13年ごろ、飛鳥の地を去って斑鳩宮に居を定めたということは、単に政治の中心から身をひいたというだけでなく、深い考えがあってのことと思われる。
蘇我氏の勢力が根を張っている飛鳥とはべつの、もう一つの重要地点に、独自の勢力をきずこうとしたのではあるまいか。
蘇我馬子にとって、斑鳩における聖徳太子の存在は、気味のわるいものであったにちがいない。
馬子だけではない。
飛鳥小墾田(おはりだ)宮の推古天皇も甥(おい)の太子をけむたく思っていただろう。
推古には聖徳太子とほぼ同年の実子、竹田皇子があり、推古が死ぬときに「竹田皇子と同じ墓に葬ってほしい」と遺言しているところから考えて、この皇子を深く愛していたと思われる。
推古天皇と聖徳太子の関係は、ふつうに信じられているほど親密なものではなく、天皇の本心からすれば、聖徳太子よりは竹田皇子に位をゆずりたかったのであろう。
それが実現しなかったのは、おそらく竹田皇子のわか死にによる。
推古天皇と蘇我馬子を中心とする飛鳥の朝廷と、聖徳太子のいる斑鳩宮とは、暗黙のうちに対立していたのである。
山背大兄王(やましろのおおえのおう)の悲劇
それでは斑鳩宮はどこにあったか。
法隆寺東院の夢殿(ゆめどの)は、聖徳太子の三経義疏(さんぎょうぎしょ)の執筆につかれたとき、仮眠をとって休養したところという言い伝えをもっている。
現在の夢殿は奈良時代の建築だから、聖徳太子とは時代がちがう。
しかし、太子の斑鳩宮は法隆寺の東にあり、それが荒廃したあとに夢殿を中心とする東院伽藍が建てられた、といことは、むかしらかの法隆寺の伝承であった。
平安時代の著作である『聖徳太子伝暦』や『伊呂波(いろは)字類抄』に、寺(法隆寺)は宮の西にありと記しており、鎌倉時代になった『古今目録抄裏書』には、夢殿の北にある舎利殿を修造するとき、土中から門の柱根2本を掘りだし、時の人は昔の宮の門の柱と思って、恋慕の心をいだいたとある。
この問題は、舎利殿のさらに北にある伝法堂(奈良時代)の解体修理にともなう地下遺構の調査によって、ほぼ解決した。
それは昭和14年前後に行なわれたのであるが、伝法堂が建てられる以前、同じ場所にこれと約9度方位をことにする数棟の建物があったことが、浅野清氏の精密周到な発掘の結果、明らかにされ、それこそが斑鳩宮の一部にちがいないと考えられたのである。
なぜかというと、その建物の建築年代が奈良時代以前であること、礎石を用いず、日本在来の建築様式である掘立柱(ほったてばしら)の方式による建築であることを、おもな理由とするが、それをより決定的にしたのは、焼けた壁土や灰が相当多量に建物の遺跡にとともに出土したことである。
つまりこの建物は火事にあっている。
『日本書紀』によると、斑鳩宮は聖徳太子の没後、長子の山背大兄(やましろのおおえ)王が伝領して住まっていたが、皇極(こうぎょく)2年11月朔日(ついたち)、蘇我入鹿の指令による不意の襲撃をうけて宮は焼け、山背大兄王は従者数名とともにからくも脱出して、生駒山にのがれた。
伝法堂の地下遺構に火災のあとのあることは、斑鳩宮が皇極2年に焼かれた不幸な歴史と一致する。
浅野氏らの努力によって地下からみいだされた遺構は、斑鳩宮と判断されるのである。
斑鳩宮の所在を追っているうちに、皇極2年の焼打ち事件にまで話が進んでしまったが、この惨劇の原因は、さきにのべた飛鳥と斑鳩の対立関係のうちにすでに胚胎(はいたい)していたといえるだろう。
聖徳太子は、『書紀』によれば太子の地位に29年もありながら、皇位につかないまま、49歳で世を去る。
私は実際には『書紀』のいうように推古天皇即位とともに皇太子となったのではなく、推古10年ごろから約20年間太子であったと思うが、天皇になれなかったことに変りはない。
竹田皇子は太子よりさきに死んだらしく、太子の即位を妨げた最大の原因は、やはり飛鳥との対立であろう。
その数年後の628年、推古天皇が75歳の老齢でなくなるときには、山背大兄王と、かつては太子となったこともある押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)皇子の子、田村皇子とのあいだで、激しく皇位が争われた。
前者は用明天皇の孫、後者は敏達天皇の孫、血統・名望ともに甲乙をつけがたい。
問題は紛糾(ふんきゅう)し、蘇我馬子の弟境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)は山背大兄王をおしたために、争いの渦中にまきこまれ、子息とともに殺されるという事件もおこり、政界は内乱寸前の状態を呈するにいたった。
しかし結局田村皇子が位につき、舒明(じょめい)天皇となるのは、さまざまな事情があったにせよ、舒明のほうが飛鳥勢力と親しい関係があったことが大きいのではないかと思われる。
したがって、舒明が13年の治世ののち、641年に死んでも、皇位の順は山背大兄王にはまわらない。
飛鳥方(がた)は舒明の皇后宝皇女を天皇(皇極)にたて、舒明天皇とのあいだに生れた皇子を即位させる機会を待つのである。
隠然たる勢力を擁して斑鳩宮に閑居する山背大兄王は、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)の皇極天皇とその皇子たちにとっても、甘樫丘の邸に権勢を輝かせる蘇我蝦夷(えみし)・入鹿父子にとっても、共通の敵である。
入鹿による斑鳩宮の攻撃は、おそらく皇極天皇や皇子たちの暗黙の了解のもとに行なわれたのであろう。
飛鳥を中心とする統一国家形成のためには、飛鳥のだれかによって早晩決行されねばならないことであった。
この攻撃軍に皇極天皇の弟の軽皇子(のちの孝徳天皇となる)が加わっていることを、平安時代初期に書かれた『聖徳太子伝補闕記(ほけつき)』が伝えているのは事実であろう。
そしてそのことが、この事件の背景を何よりも明瞭に語っている。
(『奈良―古代史への旅―』直木孝次郎 岩波新書 1971年)
今朝の父の一枚です(^^)v
実は、雨が降っているのでリハビリ散歩を止めようと思ったのですが、
雨だったら人が少ないので行きたいと父がいったのです(*´▽`*)
昨日、来園者が多かったのでコロナの感染を心配していました。
どちらかと言えば、雨の日に歩くのは好きですσ(^^)
雨に濡れた木々の葉の匂いや草の匂いなどが好きです。
今日ぐらいは首相へのボヤキをしないでおこうと思ったけど…
首相のFacebookへの投稿に呆れ果てています。
支持者の方は絶賛しておられますが。
先日、紹介したニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相の国民に向けたメッセージとの落差に品性の違いを見せつけられました。
格差社会で住む家がないのにネットカフェを追い出された人たちがいます。
雨の中を野宿したくてもする場所がない人がいます。
家でゆっくりしたくても働きに出なければならない人もいます。
医療現場で、食品売り場で、薬局で、交通機関で働く人たちへの言葉かけがない。
首相は、今日の食べ物さえ困っている人への温かい言葉がない…