2020年5月9日土曜日

センダンの花が開き出した

土曜日なので人出は多かったです。
センダンの花が開き出していました。
花言葉は「意見の相違」
これだけ小さな花がいっぱい咲くと
意見の相違もいっぱいあるのかな(*´▽`*)

9日の土曜は雨に 週末は気温高め」(えりの気象日記 5月8日)
センダンの花を見ると、妻を亡くした大伴旅人(おおとものたびと)の気持ちになって、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ歌を思い出します。

巻第五(雑歌) 798 
 妹(いも)が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに
(『万葉集(二)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2013年)
 妻が目にした楝の花は散ってしまうだろう。私が流す涙はまだ乾かないのに。

▽「楝」は俗にセンダンと称する。5月6月に淡紫色の小花が梢に群がり咲く。
(『万葉集(二)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2013年)
嘴の黄色いスズメに出会いました。
巣立ったばかりの子たちです。
新美南吉の「うまれて 来る 雀達」を転記したいと思いますφ(..)
うまれて 来る 雀達
 その 雀は びつこでした。
まだ やつと 飛べるやうに なつたばかりの 頃、いたづらな 少年に とらへられて 片足を ひもで 固く 縛られましたため か弱い 足は きづついて しまつたのでした。
(『校定 新美南吉全集 第四巻』大日本図書株式会社 1980年)
 その びつこの 雀が 麦畑の 黄く なる 頃 或る 家の 軒に 三つの 卵を うみました。
 雀は うれしくて うれしくて、三つの 卵を 胸の 下に ぢつと だきしめて ゐました。
 忙しい 蜜蜂が 飛んで 来ました。
「雀さん 今日は」と 蜜蜂は 軒の 巣を のぞいて いひました。
「わたし 卵を うんだの。」と 雀は いつて 胸の 下から 卵を 押し出して 見せました。
「ほゝう、こいつは すばらしい。卵が かへつたら お祝ひに 蜜柑から とつた 上等の 蜜を あげよかね。」と 蜜蜂は いひました。
それから ふと、
「あなたのやうに びつこの 鶵が 出なきや いゝが。」と 何気なく つぶやきました。
 雀は その 日から 大へん 心配しはじめました。
「わたしのやうな びつこの 子供が 出て 来たら どう しよう。」と 雀は 長い ためいきを つくのでした。
「わたしが びつこ びつこと 雀仲間から のけものに されたやうに、この子供たちも みんなから いぢめられたら どう しよう。」
 雀は あまり 心配したので 体は おとろへて、はげしい 昼の 陽ざしには 眼が くらむやうに なりました。
 或 朝 三つの 卵は 中から 破られて、三匹の 鶵が あらはれました。
けれど まだ 羽も ない、眼も あかない 小さな 赤ん坊なので、びつこか どうかは わかりませんでした。
けれど その うちに 羽が 生え、嘴も かたまつて 子雀たちは 飛べるやうに なりました。
 そこで お母さんの 雀は 子供たちを 一羽づつ 軒から 地べたまで 飛ばしたのでした。
地べたに つくと 子雀たちは びつこを ひかずに ちよこちよこと 歩き廻つて 餌を 拾ひました。
お母さんの 雀は 巣の 中から それを 見て どんなに うれしかつた ことでせう。
 畑の 麦が 刈られた 明るい 昼で ありました。
(自筆原稿 1934年12月24日)
(『校定 新美南吉全集 第四巻』大日本図書株式会社 1980年)
江川紹子さんのTwitter
法相も出席させず、社会にとって「不急」の法案を、与野党協力してコロナ対策が急がれる今、無理矢理通そうというトンデモに、「これはダメです」というまともな与党議員はないんですかね?
 →検察の定年延長、与党が審議強行 法相出席応じず、野党反発


首相退陣のあと、訴追されないための布石だと思ってしまう。
与党と、審議に応じている党は、政治倫理よりも利益になることがあるのだろう。
今朝の父の一枚です。
バラ園では甘い香りが漂っています(*´▽`*)
天津乙女(Amatsu Otome)
検索しているとこんな話がありました。

チェコスロバキアからの10品種のバラ」(広島市)
 原爆ドームの設計者、故ヤン・レツル氏の取り持つ縁で、昭和53年(1978年)12月、チェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長が来広の際、市長との間でバラ苗交換の話がまとまりました。
広島市からは昭和54年(1979年)2月8日、かがやき、天津乙女
(あまつおとめ)など、日本作出のバラ6種類18株をプラハ郊外リディツエバラ園に寄贈しました。
このバラ園は、第二次世界大戦中ドイツ軍により、村全体が地上から抹殺され、戦後イギリスの平和運動家の呼びかけで、村の跡地に友好と平和の象徴として作られたものです。

(以下略)