2020年5月28日木曜日

日ざしが強い…

今朝は、日差しが刺さるような青空…
週末くらいから崩れてくるようです。
カマキリの幼虫に出会いました。
大人になるまでいろんな試練が待ち構えています。

カマキリの育ち方」(小学3年 動画)
加藤登紀子さんのTwitter

友達がマスク付きでドレスを贈ってくれたの。
可愛いでしょ?
ちょっと魔法使い、な感じ。

画像はこちら

テロ対策から「覆面禁止法」で制限されてきたヨーロッパでも
マスクの義務化が行なわれ、街中にはカラフルなマスクが登場している。
デザインや色は帽子や服、肌や目の色にも合せられるようにしているそうです。
マスクで感染防止は難しいけど、
感染拡大をある程度防ぐことができると思います。

マスク“新習慣”となるか!?」(NHKおはよう日本)
岩波書店のTwitter

【今日の名言】
政治家の私利心が第一に追求すべきものは、財産や私生活の楽しみではない。
国民の間にわき上がる信頼であり、名声である。
これこそ、政治家の私利心が、何はさておき追求すべき目標でなければならぬ。

――『石橋湛山評論集
西村宏堂さんが出演していた(本放送、2019年5月)
目撃!にっぽん選「心を変える魔法のメーク」(見逃し配信:5月31日 午前6:44 まで

西村宏堂さんのTwitter

ディズニーのピクサーからゲイの主人公がカミングアウトするショートフィルムが公開されました。

Disney's Pixar has made a short film about a Gay main character coming out. I cried to see this trailer!

小さい頃から好きだったディズニーが応援してくれるなんて、涙が出た。


#LGBTQ  #out

ディズニーのTwitter
沖浦和光(かずてる)さんと野間宏さんの対談『日本の聖と賤 中世篇』に
私の好きな行基、空也、一遍を取り上げています。
この本は、現在「品切れ・重版未定」になっています。
第二章 国家仏教に反逆した聖の群れ
 日本仏教史における聖(ひじり)の系譜(1)

野間宏 日本仏教史における寺院と民衆との関係を考えてみると、一番問題になるのは、大寺院に住んでいた得度(とくど)僧と、民間で布教している私度(しど)僧との生き方の相違です。
得度僧は、積極的に民衆の間に入って仏の道を説くことを禁じられていた。
それに対して、民衆の間をかけめぐっていたのが私度僧です。
私度僧というのは、官の認可をうけないで勝手に僧侶になっている者、いわゆる聖(ひじり)ですネ。
日本の仏教史の深層をよく見てみると、この聖たちが汗水流して民衆の間をかけ回っている。
庶民の願いや苦しみを本当の意味で理解し、その力になっていたのは彼らです。
(『日本の聖と賤 中世篇』野間宏 沖浦和光 人文書院 1985年)
沖浦和光 日本文化史における《貴》と《賤》の構造に対応したものとして、寺院の権門(けんもん)に守られた官許の僧と、その体制から疎外されハミ出していた聖との関係がある。
もちろん、聖にも、いくつかのレベルがあって、すべての聖を同一には論じられないのですが。
野間 そういうように民衆とともに生きてきた聖たちに眼を向けるとき、厚い層があったと思う。
いちばん上の聖は、出身は貴族でありながら、権門勢家によって独占された仏法の本義を見失って堕落してしまった僧侶世界に見切りをつけて、静寂の別天地に隠遁(いんとん)した人たちでしょう。
そしていちばん下には、食べるために僧形しているモグリの聖たちがいた。
 数からいっても、時代が下るにつれて聖がだんだん増えてくる。
その点をはずして、日本の大衆が呼吸している、あるいは生きて死んでいくリズムをとられえられないのではないか。
沖浦 聖集団の先駆(さきが)けといえば、やはり行基集団ですか。

野間 そうでしょう。
彼らは下層の聖の先駆けですねネ。
朝廷と行基との関係のなかに、さきほどの問題が集中的にあらわれています。
行基(668~749)は、結局は律令体制に反する者、僧尼令(そうにりょう)に違反したという理由で朝廷に禁圧される。
彼は千名にもなる行基集団を率いて民衆仏教運動を展開した。
池や堀などの灌漑(かんがい)施設、橋や道などの交通施設、その工事に参加する男女労働者の宿泊・療養の施設を作った。
その工事に参加した集団は21歳から60歳までの正丁(せいてい)で、造都の役民として徴発されてきて、帰るべき故郷を失った人びとが多かった。
その人たちの工事の休憩・療養の施設がそのまま院になり尼院になったわけですネ。
彼ら行基集団が村落を生活の場として托鉢(たくはつ)して民家を回ったが、寺院外での布教を禁じている僧尼令に違反しているということで弾圧された。
沖浦 行基は和泉の生れで、百済(くだら)系の高志(こうし)氏の家系で渡来人の子孫でしょう。
聖神社から十キロばかりのところに彼の生まれた所、今の家原(えばら)寺があります。
行基も葛城(かつらぎ)山の高宮山寺で出家し、二十余年も山岳修行をやった。
さっきもおっしゃったように、行基集団は橋や道路や布施屋(宿泊所)を作って民衆のための社会的作善(さぜん)を始めますが、そのさい土師部(はじべ)の土木工事技術をいろいろ利用したようです。
野間 それほど民衆のために働いたのに、朝廷の命に従わぬ者として罰せられる。
当時の律令体制は、民衆の多大な犠牲のもとに強権的に実行されるますから、民衆の不満分子が組織化されることを極度に恐れた。
そのみせしめとして行基集団を弾圧した。
沖浦 行基が弾圧されたもう一つの理由は、教団は王権から分離独立すべきだと説いた三階教を奉じたからだともいわれています。
行基に対する民衆の支持が大きいと見てとった朝廷は、逆にその力を利用する方に政策を変える。
大仏造営の勧進(かんじん)役に起用し、さらに大僧正に任じます。

野間 そこらあたりは、実に巧妙な政策ですネ。
権力者はなかなか機を見るのは敏だから、大衆の動きを察知して、さっと方針を切り替える。

(「行基」中学・高校 動画)
沖浦 聖の系譜でいえば、なんといっても突出しているのが空也と一遍ですネ。

野間 空也(903~972)は行基よりのちの生れですが、彼もまた、山岳霊窟(れいくつ)で修行したようです。
諸国を遍歴して道路・橋梁・堂宇を修補し、見捨てられた乞食や癩者を救い、常に市井に立って阿弥陀仏の名号(みょうごう)を唱えたので、市聖(いちひじり)とか阿弥陀聖とか呼ばれた。
 彼は醍醐天皇の皇子だとか、貴種の出だとかの説があるが、実際は出自不詳なんです。
自分では郷土や父母のことをまったく語っていない。
それから、念仏踊の創始者は、この空也といわれています。
沖浦 念仏は浄土往生のため、滅罪のために称えられるわけですが、よく知られているのは常行三昧(じょうぎょうざんまい)の念仏で、南無阿弥陀仏に曲調をつけ、これを詠唱しながら常行三昧堂の阿弥陀如来の周りをぐるぐる回る。
そうすると、無念無想の境地に達して悟(さと)りがひらけるというのですが、これはもともと天台宗の延暦寺あたりでやられていたもので……。

野間 親鸞も、法然に続いて延暦寺を降りるまでは、常行三昧堂の念仏僧だった……。
沖浦 空也の念仏踊がどのようなものだったか、史料的にははっきりつかめませんが、この念仏踊が一般民衆に広がっていったのは、一遍上人(1239~89)からです。

野間 『一遍上人絵伝』で見ますと、大勢の信者たちが「南無阿弥陀仏」を唱えながら、鉦(かね)や太鼓に合わせて躍(おど)り上がってやってますネ。
一遍には、念仏の肉体化の考えがある。
沖浦 ええ、まさにこおどりするというか、跳び上がってる感じで、どんどんと大地を踏んで跳躍しています。
まさに乱舞であって、特別の振りはなかったのではないか。
この勇躍歓喜(ゆうやくかんぎ)によって恍惚没我(こうこつぼつが)の状態に入る。

野間 その点では、さきに見たシャーマニズム的な呪術的オドリの系譜に入るわけだ。

<続く…>
(『日本の聖と賤 中世篇』野間宏 沖浦和光 人文書院 1985年)