朝から20度を超えている(^-^;
急激な気温上昇と、外出自粛が続いていたので熱中症への対策が必要です。
「“外出自粛で体力低下 暑さに不慣れも” 運動再開時は対策を」(NHK)
5月24日
松平定信が昌平坂学問所での異学を禁じた。 1790(寛政2)年
この日定信(さだのぶ)は、昌平坂(しょうへいざか)学問所の責任者林述斎(はやしじゅつさい)に次のように命じた。
「徳川家の正学は朱子学であり、これをきちんと教えるのがおまえたち林家(りんけ)のつとめだ。ところがこのごろ、徂徠(そらい)学とか折衷(せっちゅう)学などという異学が流行し、学問所の学生にもこれにひかれるのがいるという。けしからんことだ。今後、正学だけを教え、異学を教えてはならぬ。」
述斎は無用の長物(ちょうぶつ)などといわれていた学問所をもりかえそうと考えてこれに従った。
幕府の直営として生れかわった昌平坂学問所のりっぱな建物が完成したのは10年後のことであった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
〝武士の学校の最高峰「昌平坂学問所」〟(東京都立図書館)
公園でスズメバチをよく見かけるのですが、自然が少ない都市部で増えているのは…
〝「スズメバチの生態を知ろう」(視点・論点)玉川大学教授小野正人〟
より一部抜粋しますφ(..)
人がつくった環境のさまざまな場所に柔軟に適応して、巣をつくっています。
自然の山の中より、営巣可能な場所が多様で、しかも治水なども行き届いているので自然災害からもまもれるなど、スズメバチの住環境は好転しているようです。
最後にスズメバチから身を守るための工夫について、お話ししましょう。
スズメバチに刺された事故のほとんどが巣の近くで起きています。
歩いていて身の回りをまとわりつくようにスズメバチが飛び始めたら、近くに巣がありその方向に近づいていると思って下さい。
決して、その蜂を手で払いのけてはいけません。
万が一、誰かが巣を刺激してしまった時には、黒など色の濃いところに攻撃が集中するので、頭髪を淡い色の帽子などで隠し、着衣も白系のものを着ていると被害を受けるリスクを減らすことができます。
また、スズメバチは香りにとても敏感に反応します。
警報フェロモンの成分やそれに近い香りを身につけていると攻撃を受けてしまう可能性があるので、それにも留意するのが賢明です。
emilさんのTwitterに
内閣府、これから4年かけて感染研含む厚労省の職員数をあと3394人減らす目標を立てているらしい
コロナ禍から何も学んでなくて戦慄…
田村智子さん(共産党)の質問を紹介しています。
フルは「国立感染研の質問をした理由」(YouTube)
サヘルさんのTwitterに
言葉ひとつで愛情を生む事もできる
言葉ひとつで命を奪う事もできる
言葉で傷つかれた心は、
外傷の傷よりも癒えない。
私もアナタも
みんな同じ人間。
弱いひと
強いひと
そんなの関係ない。
人間。
SONGS「AI~スペシャルエディション~」
東京の築地本願寺でのコンサート
見ているうちに目が霞んでいました。
見逃し配信:5月30日(土)午後11時29分まで
なお、築地本願寺は
新美の巨人たち
「日本の建築美を堪能!旧開智学校校舎&築地本願寺&東京タワー」
で紹介されていました。
歴史秘話ヒストリア「福沢諭吉センセイのすすめ」
再放送の予定は?なんですが、
番組のブログを見ると
進行役渡邊佐和子アナウンサーさんのお父さんは慶応卒なんですね。
番組の中で、咸臨丸(かんりんまる)でアメリカを訪問したときのエピソードが紹介されていました。
『福翁(ふくおう)自伝』より幾つか転記しますφ(..)
女尊男卑の風俗に驚く
ある時にメールアイランドの近所にバレーフォーという所があって、そこにオランダの医者が居る。
オランダ人は如何(どう)しても日本人と縁が近いので、その医者が(咸臨丸)艦長の木村さんを招待したいから来てくれないかというので、その医者の家に行ったところが、田舎(いなか)相応の流行家とみえて、なかなかの御馳走(ごちそう)が出る中、如何(いか)にも不審なことには、お内儀(カミ)さんが出て来て座敷にすわり込んでしきりに客の取り持ちをすると、御亭主が周旋奔走している。
これは可笑(おか)しい。
(『新訂 福翁自伝』福沢諭吉 岩波文庫 2008年改版)
まるで日本とアベコベなことをしている。
御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが当然(アタリマエ)であるのに、さりとはどうも可笑しい。
ソコで御馳走は何かというと、豚の子の丸煮が出た。
これにも胆を潰した。
如何(どう)だ、マアあきれ返ったな、まるで安達(あだち)ガ原(はら)に行ったような訳(わ)けだと、こう思うた。
さんざん馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかと言う。
ソレは面白い、久し振りだから乗ろうと言って、その馬を借りて乗って来た。
艦長木村は江戸の旗本だから、馬に乗ることは上手(じょうず)だ。
江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。
それからその馬に乗ってどんどん駆けて来ると、アメリカ人が驚いて、日本人が馬に乗ることを知っていると言うて不思議な顔をしている。
そういう訳けで、双方共に事情が少しもわからない。
ワシントンの子孫如何と問う
ところで私が不図(ふと)胸に浮んでる或る人に聞いてみたのは外(ほか)でない、今ワシントンの子孫は如何(どう)なっているかと尋ねたところが、その人の言うには、ワシントンの子孫には女がある筈(はず)だ、今如何(どう)しているか知らないが、何(なん)でも誰かの内室になっている様子(ようす)だと如何(いか)にも冷淡な答で、何(なん)とも思って居(お)らぬ。
これは不思議だ。
勿論(もちろん)私もアメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと思うたのは、此方(こっち)の脳中には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答に驚いて、これは不思議と思うたことは今でも能(よ)く覚えている。
理学上のことについては少しも胆を潰すということはなかったが、一方の社会上のことについては全く方角が付かなかった。
或る時にメールアイランドの海軍港に居るカピテンのマッキヅガルという人が、日本の貨幣を見たいと言うので、艦長はかねてそんなことのために用意したものと見え、新古金銀が数々(かずかず)あるから、慶長小判をはじめとして万延年中までの貨幣をそろえてカピテンのところへ送ってやった。
ところが珍しいめずらしいとばかりで、宝を貰ったという考えは一寸(ちょい)とも顔色(かおいろ)に見えない。
昨日(きのう)は誠に有り難うと言って、その翌朝(よくあさ)お内儀(かみ)さんが花を持って来てくれた。
私はその取次ぎをして独りひそかに感服した。
人間というものはアアありたい、如何(いか)にも心の置きどころが高尚だ、金や銀を貰ったからといってキョトキョト喜ぶというのは卑劣な話だ、アアありたいものだと、大きに感心したことがある。
軍艦の修繕に価を求めず
前に言うた通りアメリカ人は誠に能(よ)く世話をしてくれた。
軍艦をドックに入れて修覆してくれたのみならず、乗組員の手元に入用(にゅうよう)な箱を拵(こしら)えてくれるとかいうことまでも親切にしてくれた。
いよいよ船の仕度も出来て帰るという時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと言うと、彼方(あっち)の人は笑っている。
代金などとは何(なん)のことだ、というような調子で一寸(ちょい)とも話にならない。
何(なん)と言うても勘定を取りそうにもしない。
少女の写真
それからハワイで石炭を積み込んで出帆した。
その時に一寸(ちょいと)したことだが奇談がある。
私は、かねて申す通り一体の性質が花柳に戯れるなどということは仮初(かりそめ)にも身を犯したことはないのみならず、口でもそんな如何(いかが)わしい話をしたこともない。
ソレゆえ、同行の人は妙な男だというくらいに思うていたろう。
それからハワイを出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。
これはどうだ(その写真はここにありとて、福沢先生が筆記者に示されたものを見るに、四十年前の福沢先生のかたわらに立ち居るは十五、六の少女なり。)
――その写真というのはこの通りの写真だろう。*
ソコで、この少女が芸者か女郎か娘か、勿論(もちろん)その時に見さかいのある訳(わ)けはない。
――「お前たちはサンフランシスコに長く逗留(とうりゅう)していたが、婦人と親しく相並んで写真を撮(と)るなぞということは出来なかったろう、サアどうだ、朝夕(あさゆう)口でばかり下らないことを言っているが、実行しなければ話にならないじゃないか」と、大いに冷(ひや)かしてやった。
これは写真屋の娘で、歳は十五とかいった。
その写真屋には前にも行ったことがあるが、丁度雨の降る日だ、そのとき私独(ひと)りで行ったところが娘が居たから「お前さん一緒に取ろうではないか」と言うと、アメリカの娘だから何(なん)とも思いはしない。
「取りましょう」と言うて一緒に取ったのである。
この写真を見せたところが、船中の若い士官たちは大いに驚いたけれども、口惜(くや)しくも出来なかろう、と言うのは、サンフランシスコでこのことを言い出すと、直(すぐ)に真似をする者があるから、黙って隠して置いて、いよいよハワイを離れてもうアメリカにもどこにも縁のないという時に見せてやって、一時の戯れに人を冷かしたことがある。
* 巻頭口絵写真参照。原画はガラス焼付け装飾箱入り。(省略)
(「写真館の少女と福澤諭吉(復製)」 福澤諭吉旧居・福澤記念館)
不在中桜田の事変
帰る時は南の方を通ったと思う。
行くときとは違って至極海上は穏やかで、何(なん)でもその歳(とし)には閏(うるう)があって、閏をこめて五月五日の午前に浦賀に着(ちゃく)した。
浦賀には是非錨(いかり)を卸(おろ)すというのがお極(きま)りで、浦賀に着するや否や、船中数十日のその間は勿論(もちろん)湯に這入(はい)るということの出来る訳(わ)けもない、口嗽(うがい)をする水がヤット出来るというくらいなことで、身体(からだ)はよごれてるし、髪はクシャクシャになっている、何はさておき一番先に月代(さかやき)をして、それから風呂に這入ろうと思うて、小舟に乗って陸(おか)に着くと、木村のお迎えが数十日前から浦賀に詰め掛けていて、木村の家来に島(しま)安太郎という用心がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上がってその島に会(お)うた。
正月の初めにアメリカに出帆して浦賀に着くまでというものは、風の便りもない、郵便もなければ船の交通というものもない。
その間はわずかに六カ月の間であるが、故郷の様子も何も聞かないから、ほとんど六カ年も会(あ)わぬような心地(ココロモチ)。
ヒョイと浦賀の海岸で島に会って「イヤ誠にお久しぶり、時に何か日本に変ったことはないか」と尋ねたところが、島安太郎が顔色を変えて「イヤあったともあったとも大変なことが日本にあった」と言うその時、
私が「一寸(ちょい)と島さん待ってくれ、言うてくれるな、私が中(あ)ててみせよう、大変と言えば何(なん)でもこれは水戸の浪人が掃部様(かもんさま)の屋敷にあばれ込んだというようなことではないか」と言うと、
島は更に驚き「どうしてお前さんはそんなことを知っている、どこで誰に聞いた」
「聞いたって聞かないたってわかるじゃないか、私はマア雲気(うんき)を考えてみるに、そんなことではないかと思う」
「イヤこれはどうも驚いた、屋敷にあばれ込んだどころではない、こうこういう訳けだ」と言って、桜田騒動の話をした。
(井伊掃部頭直弼<いいかもんのかみなおすけ>)
その歳(とし)の三月三日に桜田に大騒動のあった時であるから、そのことを話したので、天下の治安というものはおおよそ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えてみると、どうせ騒動がありそうなことだと思っていたから、偶然にも中(あた)ったので誠に面白かった。
その前年からそろそろ攘夷説が行われるという世の中になって来て、アメリカに逗留(とうりゅう)中、艦長が玩具半分(おもちゃはんぶん)に蝙蝠傘(こうもりがさ)を一本買った。
珍しいものだと言ってみな寄ってひねくって見ながら「如何(どう)だろう、これを日本に持って帰ってさして回ったら」「イヤそれはわかりきっている、新銭座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に、浪人者に斬られてしまうに違いない、まず屋敷の中で折節(おりふし)ひろげてみるより外(ほか)に用のない品物だ」と言ったことがある。
おそらくこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が盛んになって来た。
(『新訂 福翁自伝』福沢諭吉 岩波文庫 2008年改版)