2020年5月15日金曜日

曇り空で…

曇り空で蒸し暑かったです…
夜になると雨が降り出し、気温が下がってきました…

16日にかけて天気下り坂 夜は雨が降り出す」(えりの気象日記 5月14日)
ドバトは、人がいても平気なんだけど、キジバトは近づくと逃げる。
猫に襲われたリュウキュウキジバトを35年ほど前に助けて以来
ほぼ毎年、大城學さんの庭にあるリュウキュウコクタンの木に巣を作っているそうです。

キジバトの恩返し? 猫に襲われた傷だらけのハトを助けたら…」(琉球新報)
今朝のNHKのニュースに養老孟司さんへのインタビューがありました。

「おはよう日本」(「見逃し配信」<23分頃>5月22日(金)午前7時45分まで

養老孟司さん
いまの人は先が読めないとか、コントロールできない状況が起こるとパニックを起こしやすい。
体のことはしょうがない
自分の体に何が起きているか、実は分からない。

ニュースでコロナウイルスの写真が出る。
どのくらいの倍率か分かりますか?
あれ(倍率が)100万の桁
ウイルスが見えたらウイルスが分かったか?
問題はウイルスじゃない。ウイルスがとりつく人。
ヒューマンゲノム(遺伝情報)が読めたときに、
分かったのは3~4割がウイルス由来ということ
人類は古くからつきあっているウイルスと
ウイルス由来のものが遺伝子に入っていて
何をしているのかよく分っていない。

(Q.勝たなければならないとよく言いますが、土台闘う相手ではないと)
(ウイルスを)どう手なずけるかという話
一緒にやっていくしかない
これは自然の出来事。
ジタバタしてもしょうがない。
(「気持ちがいいように過ごす大切さ」)
僕は手作業をやっている。
虫の標本をつくったり。
針を刺したり、払った筆で。
手作業は、非常に気持ちが落ち着くもの

(Q.手を動かす、没入することで、どんなことに気が付けるのでしょうか?)
体の調子
自分が気持ちがいいように
気分がいいように過ごすというのが大事
体のことが典型的で
どういう状況だと自分の体の具合がいいか
意外に気がつかない人が多い。
そういう微妙な体のことを割合に今は考えない
(「社会が大人になる機会」)
(社会は)変わるし、変わらざるを得ないじゃないか
昔は結核があった。
若い人が結核になると、1年くらい休学させないといけない。
休学が済んで帰ってきた子は大人になっていた。
もうちょっと長い目で物を見るようになる。

(今の人たちは)
ゆっくり物を考える機会がない。
昔は「人生とはなんだ」とか、人生の意味を聞くと
それは若い者。暇な学生が考えることだって大人に言われた。
今は、みんなが暇な学生状態になっちゃったわけで
改めてそういうことを考えてもいいんじゃないか
(この時間)

無意味なはずがない
何かが起こったときに
起こったことが無意味にならないように生きることが大事なことだ

(明日、記事がアップされるかなと思っていたけど、記事が載っていました。
「今こそ体の感覚を大事に」 解剖学者 養老孟司さん〟)
5月15日は沖縄本土復帰の日です。
ニュースハイライト 「沖縄返還」(NHK 戦争証言アーカイブス)に映し出されているのは沖縄施政権返還の式典です。
佐藤栄作氏は涙を流されていますが、当時の沖縄県・屋良朝苗(やらちょうびょう)知事は

沖縄復帰の日は、疑いもなく、ここに到来いたしました。
しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容を見ますと、
必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えないことも事実であります。
そこには米軍基地の貸与の問題を初め、内蔵するいろいろの問題があり、
これらを持ち込んで復帰したわけであります。


と沖縄の人々の思いを代弁してくれています。

佐藤栄作氏は非核三原則でノーベル平和賞を受賞するのですが
それは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」(Wikipedia)と批判されています。
岸信介、佐藤栄作、安倍晋三と続く流れは、
安倍寛、安倍晋太郎の系譜とまったく違うなと思う。

安倍晋三のルーツをたどる、青木理著『安倍三代』(朝日文庫)を読んで〟(江川紹子 note)

屋良朝苗日誌」(沖縄県公文書館)

琉球政府初の公選主席選挙」(NHKアーカイブス 1968年)
5月15日
 犬養首相が暗殺された(五・一五事件)。 1932(昭和7)年
 
 さわやかな初夏の日曜日は暮れかけていた。
首相犬養毅(いぬかいつよし)が官邸で夕食前のくつろいだひとときをすごしていたとき、突然警備の巡査がかけこんで来た。
「総理、大変です。暴漢が侵入しました。」
その言葉も終らぬうち、軍服姿の拳銃を持った数人の若者が土足のままあらわれた。
「撃つのはいつでも撃てる。話を聞こう」と首相は毅然(きぜん)として言った。
軍人たちは一瞬気をのまれて、案内されるままに日本間について行ったが、「問答無用、撃て」の号令で、九梃(ちょう)の拳銃が火を吹いた。
この惨劇とともに、14年間続いた政党内閣は断絶、日本の政治はファシズムに旋回していった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
犬養毅について保阪正康さんの『近代日本人の精神史』より転記しますφ(..)
なお、
第2回 政治家の原像を求めて――犬養毅、尾崎幸雄、斎藤隆夫 政治屋と政治家
は、3月3日に転記していますので、よかったらアクセスしてください。

犬養毅(1855~1932)」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)
  犬養毅――大アジア主義に向かって

 犬養、尾崎、斎藤と並べてみて、もっとも年長なのは犬養で、安政2年(1855)4月に備中国川入(かわいり)村(現在の岡山市北区川入)で生れています。
幼少時から漢籍に親しみ、禁欲的な生活を送っています。
環境が勉強に適した空間だったのでしょう。
やがて東京に出て、慶應義塾で学んでいます。
西南戦争のときは「郵便報知新聞」の特派員として現地から連載原稿を送っています。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)
 その原稿は読者に好評だったといいます。
記事の末尾は、「英雄の末路遂(つい)に方向を錯(あやま)り」と書きつつも、屍(しかばね)を原野にさらす状態になったにせよ、その功績は誰も忘れることはないと、西郷隆盛を讃えています。
福澤諭吉は、その犬養に、ときに自らの稿を口述筆記させることもあったといいます。
 犬養は文を書くだけでなく、行政の仕事などにも対応する能力があり、統計院の統計官などの業務にも携わっています。
そのかたわら雑誌を発行するなど、二十代のときから一端(いっぱし)の仕事をやってのけるというタイプであったようです。
しかし自らの意に反する出来事に出合うとすぐに辞めています。
再び新聞記者に戻り論説を書くのですが、明治23年帝国議会には故郷の岡山県から立候補して当選しています。
このとき犬養は35歳でした。
 明治31年に大隈重信首相、板垣退助副総理という、いわゆる隈板(わいはん)内閣ができます。
日本で初めての政党内閣でした。
犬養はこのとき文部大臣のポストを射止めています。
しかし犬養は19世紀の終わりからは、対中国政策に強い関心をもちます。
この関心が母体となって東亜同文会ができあがったのです。
 中国への支援を具体化することになったのは、孫文と知りあい、孫文の唱える「三民主義(三民=民族、民権、民生)・五権憲法(五権=立法、行政、司法、考試、監察の治権)」に共鳴したからです。
犬養の心中には、西欧列強の帝国主義政策への反発があり、それには日本と中国が手を結んで大アジア主義の目的を完遂しようとの考えがあったと見ていいでしょう。
 明治44年(1911)10月の辛亥(しんがい)革命の成功により、犬養は孫文と互いにときに交渉しながら、日中友好の関係を築こうとしています。
それは中国への進出を目ざし、満州(中国東北部)へ領土を拡大しようとする軍部との間に対立を起こすことになります。
そして犬養にはもうひとつの顔があります。
それは護憲運動のリード役というものでした。
こうした運動が実っていき、加藤高明(たかあき)内閣が誕生するわけですが、犬養は逓信(ていしん)大臣として入閣し、普通選挙法を通過させています。
 日本の政党政治はしだいに政友会と民政党の二大政党に絞れていきますが、小政党をつくり、政界の監視役に徹してきた自らの役目は終わりに近いと潔く政界を引退します。
昭和の初めでした。
しかし政友会総裁のポストを引き受けるように懇願され、政界に戻ってきました。
それが昭和4年でした。
そして昭和6年12月、つまり満州事変から三カ月後の政局で、首相に推されたのです。
犬養ならば暴れ馬の軍部を抑えることができるのでは……と元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)らには期待があったといいます。
 しかし昭和7年5月の、いわゆる五・一五事件によって、犬養は海軍の士官、陸軍士官学校の候補生らにより暗殺されてしまいます。
実は犬養は満州事変を政治的に解決するために、盟友の萱野長知(かやのながとも)を密かに上海に送り、蒋介石政府との間で和平の交渉を始めようとしていました。
それが軍部に漏れたのも一因といっていいでしょう。
 犬養は暗殺される直前に、陸海軍のテロリストたちに、お前たちの行動は理解できない、私の政策に疑問があるならしかるべく話をしてあげよう、つまり「話して聞かせてあげよう」と言ったといいます。
テロリストたちは、「問答無用」と叫んで、犬養を暗殺したというのです。
官邸にテロリストが襲ってきたとき、犬養は護衛の警官から逃げるように促されたそうです。
「いや逃げない」と彼らを説得するつもりでいたのです。
 犬養の人生の軌跡をスケッチしてみますと、すぐにわかることがあります。
犬養の政治家生活には前述の三条件が網羅されているということです。
もっとも犬養の政治活動がすべて円滑にいったわけではありません。
昭和5年ごろには民政党攻撃のために、統帥権干犯(かんぱん)をもちだして軍部を利するような質問をしたこともあります。
しかしその政治上の目標は、この国に議会政治を定着させたいとの思いが強かったことがわかります。
 犬養の死は、昭和の時代に入ってわずかに命脈をつないでいた議会制民主政治が、根こそぎ崩れていくことを意味しました。
つまり明治期に芽をだし、大正期に育て、そして昭和に花開くはずの議会政治が、昭和という時代にすべて徒労と化したのです。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)
犬養毅は、緒方貞子さんの曾祖父にあたります。
安倍首相が祖父、大叔父の流れを受けているのとは大きな違いだと思います。
安倍首相によって日本の民主政治、言論は腐敗してしまいました。

【意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿〟(朝日新聞)

「身長5フィートの巨人」、緒方貞子さんが死去 92歳 〟(BBC 2019.10.29)
今朝の父の一枚です(^^)v
ボタンに葛が絡みついていました。
公園内で葛が繁茂しているのすが、ここで見るのは初めて。
このままにしていると来年、ボタンが咲かないかもしれないので取り除きました。
気がついた時に処置をしないと、日本の政治のようになる。
COVID-19 のように拡大している。

#検察庁法改正の強行採決に反対します