雨降る前の湿気かな?
あまり風が吹いていなくて蒸し暑かったです(^-^;
タイサンボクの蕾が「咲くのにはまだ早いかな?」と思案しているみたいでした(*´▽`*)
ヒナキキョウソウが咲いているなと写していると、
後ろに見えたのも同じヒナキキョウソウ(キキョウ科)のはず。
花冠が七つに分れているような…
日刊ゲンダイ ニュース記者のTwitterに
#山口那津男 公明党代表の他人事のようなツイートに対する厳しい反応も、あすの紙面で取り上げております。
せっかく、一律10万円給付で低迷する支持率を盛り返したのに、オジャンのようです
与党として審議に加わっているのに、他人事のようなツイートにビックリしました。
町中に貼られている「小さな声を聴く力」とあるのは、「首相のささやきを聞く魅力」という意味なんだろうか。
祖母も去年亡くなった叔父も熱心な学会員で、叔父は選挙のたびに投票の依頼に来ていました。
祖母や叔父があの世でどんな思いでいるのか…
〝「検察権行使に政治的な影響を懸念」元特捜部長ら意見書提出〟(NHK)
「厳格なNZのコロナ対策、首相一行もカフェ入店断られる」(AFP)
このニュースを見て、日本の店員ならどうしただろうと思った。
まあ、日本の首相は、庶民的なカフェでなくて高級ホテルや料亭なんだろうけど…
昨日、大阪は「感染確認0」になって嬉しいのですが、「感染者0」ではないことに注意したいです。
COVID-19 は、進化?していて感染しても気がつかない(無症状)人がいる。
大阪府の報告を見ていると、検査人数が364人となっている。
「WHO総会 国際社会が一致した対応とれるか不透明 新型コロナ」(NHK)
今夜、WHO総会が開催されるのだけど、米中の対立で政治の舞台になりそうですね。
アメリカは、大統領選挙を控えているので大統領の不手際を胡麻化したい。
中国は、隠蔽により初動が遅れ、感染拡大を招いたことを認めたくない。
『感染症の世界史』よりスペインかぜについて転記しますφ(..)
なお、洋泉社は、宝島社に吸収合併されています。
文庫本は角川ソフィア文庫から出たようですが、品切れみたいです。
スペインかぜのゼロ号患者
感染症の歴史のなかで最大の悲劇になったのは、20世紀初頭の第一次世界大戦の末期に発生した「スペインかぜ」だ。
人類史上、1回の流行として最大の死者・感染者を出し、世界史を大きく変えるほどの影響をおよぼした。
(『感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』石弘之 洋泉社 2014年)
大規模な流行は「ゼロ号患者」、つまり最初の感染者を探すのが対策の基本だ。
米国の医学史家アルフレッド・クロスビーは、カンザス州ファンストン吉(現・ライリー基地)が震源地とみる。
1918年3月4日に基地内の診療所に、発熱や頭痛を訴える兵士が殺到した(写真-8 省略)。
1000人以上が感染し48人が死亡したが、通常の肺炎として片づけられた。
発病した兵士は、豚舎の清掃担当だった。
この一帯はカナダガンの大群が飛来する越冬地としても知られる。
ガンが豚にウイルスを移し、それが豚の体内で変異して人に感染するようになったとする説が有力だ。
一方、英国のレトロスクリーン・ウイルス研究所長のジョン・オクスフォードは、フランス起源説をとっている。
第一次世界大戦中に北フランスのエタープルという小村にイギリス軍の軍事基地があり、連合軍の将兵が常時10万人前後出入りしていた。
1916年12月にインフルエンザに酷似した症状の兵隊が入院したにつづいて、多くの兵士が入院し「死亡率が戦闘の2倍も高い」といほうど死者を出した。
しかし、中国起源説が登場した。
カナダ・ニューファンドランド大学のマーク・ハンフリー教授は2013年、第一次世界大戦中に、英仏軍が西部戦線で9万6000人の中国人労働者を使っていた史実を発掘した。
さらに、米国の基地で流行する以前から、スペインかぜとみられる呼吸器病が中国国内ではやっていた記録もあった。
中国労働者は1917年に、カナダ経由でヨーロッパ戦線に送られた。
そのなかに感染者がいて兵士にうつし、彼らが帰国するときに米国に流行を持ち帰ったという説明だ。
当時、中国人労働者の動員は秘密にされ、また感染したものも「怠け病」としてまともな治療や隔離はなされなかったという。
世界を巻き込む大流行
ファンストン基地の発生から1週間後に、ニューヨーク市で患者が報告された。
1918年8月までには、マサチューセッツ州など各地の基地、学校、自動車工場などでも集団発生が報告された。
バージニア州などの基地では兵士が次々に倒れていった。
さらに、ヨーロッパ戦線の各地に送られた兵士らのなかに感染者が交じっていたことから、5~6月にはヨーロッパ全域に流行がはじまった。
その兵士の移動とともにウイルスも広がっていき、四ヵ月で世界中がインフルエンザに巻き込まれた。
一時は収まりかけたかにみえたが、1918年8月にはフランスのブレスト、米国のボストン、西アフリカの英国植民地シエラレオネの首都フリータウンの三カ所の港で、同時に感染爆発が起きた。
ウイルスは、初期のものとは比較にならないほどに強い毒性を獲得していた。
こころから「第二波」の流行とよばれることになる。
第一次世界大戦の戦場はヨーロッパから、植民地だったアフリカ大陸に飛び火した。
フリータウンは、ヨーロッパと南アフリカを結ぶ西アフリカ航路の石炭の補給基地として重要な港だった。
1918年8月、約200人の患者を乗せた軍艦が入港、数百人の現地の労働者が石炭を積み込んだ。
その直後から労働者たちの間にインフルエンザの症状が出はじめ、シエラレオネの人口の5%が、短期間にインフルエンザで死亡した。
ウイルスは港から港へと運ばれ、そこから鉄道と河川に沿ってアフリカ内陸部へと広がっていった。
大戦終結を早めたインフルエンザ
中立国のスペインでは、5~6月に約800万人が感染し、国王をはじめ閣僚も倒れて政府だけでなく国の機能もマヒした。
大戦中は多くの国が情報を統制していたが、中立国だったスペインだけは統制がなく流行が大きく報じられた。
このために、「スペインかぜ」とよばれることになった。
スペイン政府はこの名称に抗議したが、あとの祭りだった。
とくに、ドイツ軍と英仏米の連合軍が膠着(こうちゃく)状態に陥った西部戦線は、異常事態が起きていた。
ウィルスはこの最強の防衛線をいとも簡単に乗り越えてきた。
兵士が塹壕(ざんごう)にすし詰めになった過密な戦いが三年半もつづいているところに、インフルエンザウィルスが侵入した。
両軍ともに兵士の半数以上が感染し、戦闘どころではなくなった。
ベルリンでは、毎週平均500人が死亡していた。
米国軍の戦死者は5万3500人だったのに対して、インフルエンザで死んだ将兵はそれを上回る5万7000人もあった。
ドイツ軍の受けた打撃も大きかった。
インフルエンザで約20人の将兵を失った。
最高司令官エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍は、1918年7月にパリ東方80キロのマルヌ川にまで迫った。
ところが、英仏米連合軍が反撃すると、いとも簡単に敗走した。
後に将軍は、「マルヌの攻防戦での敗走は、けっして新しく参戦して来た米国軍によるものではない。兵士がことごとくインフルエンザにやられ、弱り果てて武器を運ぶこともできなかったのだ」と語った。
両陣営とも戦争継続が困難になり、大戦の終結が早まった。
だが、各国から参戦した兵士は、ヨーロッパ戦線で感染して本国にウィルスを持ち帰ったために、一挙にインフルエンザのグローバル化が起きた。
(『感染症の世界史 人類と病気の果てしない戦い』石弘之 洋泉社 2014年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父もタイサンボクの蕾を写していました。
もうじき、母が好きだった花が咲く!
池江璃花子さんのTwitterに
池江 今日、初めてこの姿をお見せします。
今のありのままの自分を見てもらいたいという私の気持ちを大切にしてくださりありがとうございます。
このメッセージがひとりでも多くの方の希望になればうれしいです。
みんな池江さんがウィッグを付けているのは分っていたと思う。
ありのままの姿を見せることで、どれだけ多くの人に勇気を与えたかと思うと目がかすみます。
記事をアップしようとしたら
「政府・与党 検察庁法改正案 今国会での成立見送り決定」(NHK)
これもStayHomeのおかげかな?
これまでは、国民が政治のことを考える余裕がなかった。
ただ、廃案になっていません「見送る」なんですから。
#検察庁法改正案を廃案に
さあ、次は「#赤木さんを忘れない」
真相を究明しないと赤木俊夫さんが浮ばれない。
「私の夫、赤木俊夫がなぜ自死に追い込まれたのか。有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立な調査を実施して下さい!」(change.org)