2018年12月1日土曜日

今日から…

今日からもう12月ですね…
リハビリ散歩をしている公園でも
今日から山のエリアの開園区域が広がりました。
離れた所から姿が見えないなと思っていた柳
枝は風になびいて受け流すのに
幹はまともに受けとめたのだろうな…
こちら側はそんなに倒木がないなと思っていたら…
スタッフの方に話を聞くと
向こう側の斜面を駆け上がってきた風が、
ダウンバーストのように吹き下ろしたようで軒並み倒れていたそうです…
『日本の聖地』を読んでいて大来皇女(おおくのひめみこ 大伯皇女)は、
斎王の制度が整えられてから最初の斎王だと知りました。
万葉集の中で一番好きな歌人は大来皇女です。
二上山を好きになったのは大来皇女の歌の影響が大きいです。

巻二 165
  大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)
  移し葬(はふ)りし時に、
  大来皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて作りませる御歌

うつそみの人にあるわれや明日(あす)よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む

斎王大伯皇女と弟大津皇子」(「歴史の情報蔵」三重県)

斎王紹介その2」(三重県 明和町)
(「天照大神の聖巡行」の続きです)
 いったい天照大神とはどのような存在なのか。
なぜ伊勢という地において、天照大神は顕在化するのか。
さらに天武天皇は、このことになぜ深く関わることになるのか。
 天武天皇と天照大神との関わりを『書紀』で追うかぎり、
天武天皇元年(672)の6月26日、そのときすでに潜竜(せんりゅう)していた
吉野を発っていた天武(大海人皇子 おおあまのおうじ)は、
いまの三重県三重郡を流れる朝明(あさけ)川(迹太 とほ 川と『書紀』にある)の川岸から、
「天照太神(あまてらすおおみかみ)を望拝(たよせにおが)みたもう」とあり、
翌年4月14日、皇女の大来皇女(おおくのひめみこ)
天照太神宮に斎王(さいおう)として奉仕させるめに、
いまの桜井市初瀬の「斎宮(いつきのみや)」へ送っている。
精進潔斎のためであった。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
『書紀』にはこのあと、十市(といち)皇女や
草壁皇子妃の阿閉(あへ)皇女などによる伊勢神宮参詣などが記録され、
伊勢神宮の国家神的成立を、そこにうかがうことができる。
だがここで、天武天皇が内乱のさなかに遥拝した天照大神が、
伊勢の地へ鎮座するまでのながい巡行のあったことを忘れてはならないだろう。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
日本神話は、宇宙の初めに天と地が分かれ、
天地を主宰する天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や、
万物を生成する霊力をもった高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
神産巣日神(かみむすびのかみ)などの造化神が天上の世界に成り出、
そして神世七代(かみよななよ)の最後に
イザナギノ命とイザナミノ命の二神が登場することになる。
『記』は、このイザナギ・イザナミ二神の結婚によって、
淡路島・四国にはじまる日本列島(大八島 おおやしま 国)を生むことになるが、
二神はこのあとも自然を形づくるあらゆる要素を生み、
女神のイザナミは火の神を生んだことから亡くなる。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
 ところが、亡くなったイザナミノ命のいる
死の国・黄泉国(よみのくに)を訪ねたことから、
イザナギノ命は穢れた身体を清めるために、
筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)に着き、
お祓いをするのだが、この禊祓(みそぎはらえ)のときにも多くの神が生まれ、
禊祓の最後に、イザナギノ命が左の目を洗ったとき天照大御神が、
右の目を洗ったときに月読(つくよみ)命が、
鼻を洗ったときに健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が生まれることになる。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)

 この『記』にたいして、『書紀』は大八洲国(おおやしまのくに)・山川草木を生み、
さらに二神は「日の神」を生んだと記し、
この「日の神」を「大日孁貴(おおひるめのむち)と号す」といっている。
『記』にあるようなイザナギノ命の禊祓はなく、
「日の神」は二神が共に生んだことになっており、
「一書に云わく、天照大神という。一書に云わく、天照大日孁尊(おおひるめのみこと)という」
という注が添えられている。
また『書紀』には、イザナギノ尊(みこと)が左の手をもって白銅鏡を持ったときに
「化(な)り出(い)ずる神」が大日孁尊で、
右の手に白銅鏡を持ったときに「化り出ずる神」が月弓(読)尊とも記されている。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
『記』と『書紀』では禊祓と白銅鏡の違いはあるが、
いずれも左目と左手とが天照大神の誕生に関わっている。
天照大神が「日の神」であるという存在感から考えれば、
日本の古代は左を尊いものと受けとめていたことがわるか。
インドにおいても左手を穢れとし、タブー視することはよく知られている。
だが、この左右の受けとめかたは、その地によってさまざまである。
南方中国では左を尊ぶが、北方中国では右が尊ばれ、
インドネシアやポリネシア・アイヌ・台湾(高山族、アミ族)など、
世界的には右は左よりも優越の観念で受けとめられている。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
『記』の上巻は、その多くを須佐之男命による、
スーパー歌舞伎の主役ででもあるかのような荒々しい行動と出雲神話に割(さ)くが、
『書紀』は垂仁天皇25年(紀元前)のこととして、伊勢神宮の起源について記している。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
 それは従来、天皇の大殿の内に天照大神と
倭大国魂(やまとおおくにたま)の二神を並べて祀っていたのを、
天照大神を豊鍬(とよすき 耜)入姫命(いりひめのみこと)に託し、
倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀っていたのだが、それをさらに豊鍬入姫命から離し、
今度は倭姫(やまとひめ)命に託すことになったというのである。
天照大神の巡行はここにはじまり、倭姫命は天照大神を鎮め祀るその地を求めて、
倭の宇多から近江・美濃をめぐって伊勢へと落ち着くことになる。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)

後日、続きを転記します。

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