2018年8月9日木曜日

四天王寺~愛染坂~口縄坂

父と妹と阿弥陀堂にお参りしました。
祖父母と義弟の供養をしてきました。
母は、今も家にいます(^_-)
亀井堂で経木流しをしたあと、お墓にお参りしました。
父と妹と別れて愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)を訪ねました。
(…略…)
 3月13日の大空襲で、勝鬘院の愛染堂と多宝塔は奇跡的に焼失をまぬがれましたが、
それ以外の建物はすべて燃えてしまいました。
樹齢数百年の「愛染かつら」も焼け焦げてしまい、しばらくは痛々しい姿をさらし、
枯れてしまうのかと心配されましたが、また元気になりました。
現在ではかずらがからみつき、あの空襲の猛火に耐えて生き残った木とは思えませんが、
しかしれっきとして大空襲の生き証人なのです。
(『大阪戦争モノ語り』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
愛染めの霊水
この井戸は常に清浄の霊水が湧き出で、この井水を飲めば
愛染明王の御本誓により愛念を叶え、病癒え運を開き給う。古歌に

ほらぬ井に たまらぬ水の 汲みたてゝ 影も形もなき人ぞ汲む

かくの如き霊水なれば、この井水にて染め物なせば、
色彩よく染まるをもって昔より、
藍商者(あいだまや)の門に信仰が盛んであって、俳句に

賑わしや 愛染詣での紺屋づれ

井戸屋形は豊公の建立であったが、昭和20年3月14日の戦災のため焼失した。
多宝塔
宝塔は推古天皇元年(593年)聖徳太子の創建。
慶長二年(1597年)豊臣秀吉が再建した。
高さ22メートル、建坪32平方メートル、三手先造り、本瓦葺き、極彩色、
様式は桃山時代で、当時の粋を集めて豪華雄大、彫刻壁画亦妙技を尽くしている。
明治35年サンフランシスコで万国博覧会が開催された時、
日本建築の代表として、この塔の模型を出展した。
明治42年国宝建造物に指定された。
御本尊は大日大勝金剛尊。
勝利開運の本尊として民衆の信仰が篤く、毎年愛染まつりに開扉される。
出世白竜明神 (しゅっせはくりゅうみょうじん 写真左)
豊臣秀吉が当寺に日月梅を献植した際、
古くから存在した梅の枯木の中から銀鱗の白蛇が出現しました。
秀吉はここに社宇を建立し、この白蛇を奉安しました。
白竜明神のご神体は、弁財天です。
この明神を信仰し、一心に念ずれば諸運が開け、
立身出世がかなうということから、「出世白竜明神」といいます。

願成稲荷明神 がんじょういなりみょうじん 写真右)
この稲荷明神は、豊臣秀吉が当寺を再建した時、
厄除の鎮守として秀吉の誕生の地である
豊川の稲荷尊を勧請して奉安した蛇袛尼尊です。
古くから、よく衆生の願いを成就し、
福徳財宝を授け給うが故に、「願成稲荷明神」といいます。
大江神社
  御祭神 
 豊受大神(とようけのおおかみ)
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
 欽明天皇(きんめいてんのう)
 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)

  摂末社
 日吉稲荷神社
 羽呉神社
 大江護国神社(山口藩殉難諸士招魂碑)

  由 緒
当神社は、伝うる所によれば、上之宮、小儀(四天王寺東門外、北側)、
土塔(南門外、東側)、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と称し、
四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られしものであると云う。
大江の社號は慶應3年この社地が大江岸(おおえきし)の続きとなるを以て
時の祀官が斯く改称せしなりと云う。
当社は、天王寺北村の産土神(うぶすながみ)にして祭社主神に豊受大神を祀り、
稲荷神と同一神にて五縠豊穣、食糧保持の神であり、
また明治40年神佛分離により本社へ合祀せられた東門外の元村社 小儀神社
及び南門外の元村社 土塔神社の祭神 素戔鳴尊、
元村社 上之宮の祭神 欽明天皇、大己貴命、少彦名命の何れをも祭神とする。
 上町台地の西端に沿う一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれており、
その昔、この台地のすぐそばまで海がせまり、西の海に夕日が沈みゆき、
茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになったと云う。
当境内には俳句碑があり、芭蕉の句としても有名である。

  主な御祭事
 1月 1日  元旦祭
 7月16日 夏祭り
10月16日  例祭(秋祭)
12月31日  大祓式

(大己貴命は大国主の別称です)
「俳句碑」文化14年(1817年)建立
 この俳句碑は、松尾芭蕉(1644~1694年)が
元禄7年(1694年)9月9日に大坂入りし、
同月26日、当神社南隣にかつて存在した「料亭浮瀬(うかむせ)」にて
句会を開いたことに因み、建立された。

 あかあかと 日はつれなく 秋の風  芭蕉
 よる夜中 見ても桜は 起きて居る  三津人
 網の子の 名にやあるらん 杜宇(ほととぎす)  千季
 春風の 夜は嵐に 敷れ鳧(けり)  暁臺

 平成25年10月  大江神社氏子総代会
今朝は、曇っていたので野良猫?ちゃんがのんびりと寝ていました(*´∀`*)
料亭「浮瀬(うかむせ)亭」跡の説明板なんですが、
これを転記すると長くなるので
なにわ大坂をつくった100人 足跡を訪ねて 第31話松尾芭蕉
などを参照してください(o_ _)o
急な坂だけど親子連れとすれ違いました。

愛染坂
 その名のとおり、坂の下り口にある愛染堂勝鬘院から名付けられた。
愛染さんの夏祭り(6月30日)は大阪夏祭りの先駆けとて知られ、
境内の多宝塔は市内最古(文禄3年)の建造物で、重要文化財と指定されている。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりから夕焼けは今も美しい。
大阪市顕彰史跡第186号
東儀(とうぎ)一族墓所
(天王寺区下寺町 良運院)
東儀一族は、秦河勝(はたのかわかつ)を祖とする雅楽師の名家で、
天王寺楽所に属していた。
中世後期からは官位を受けて宮中の樂師ともなり、
江戸時代には徳川家光に招かれ少数の庶流が幕府の樂人となった。
明治3年に大部分の樂師が
太政官雅楽局(現在の宮内庁楽部)に召集され東京に移住した。
良運院には江戸前期からの本家歴代の墓所がある。
  大阪市教育委員会

良運院には、千四百年にわたって四天王寺の雅楽演奏に携わってきた天王寺樂人
東儀氏代々の墓所がある。
同氏は、聖徳太子を経済的・軍事的に支えた
秦河勝(はたのかわかつ)の子孫とされる。
墓碑には「太秦宿禰(うずまさのすくね)」の姓が冠され、
秦氏の首長系の子孫であることを示している。
『聖徳太子伝暦』には、推古20年(612)に百済より渡来した
味摩之(みまし)が伎楽を伝えたと伝承される。
太子の命により、味摩之の弟子となったのが河勝の息子や縁者たちであった。
ここに天王寺楽所(がくそ)の歴史が始まる。
応仁の乱(1467~77)により京都の樂人が四散した際には、
天王寺樂人は宮中に登用され舞楽の復興に寄与した。
16世紀以降は、本拠地の天王寺に在住した本家筋の「在天樂人」と
宮中の儀式等を担当した「在京樂人」とに分かれたが、
ここに鎮まるのは「在天」の東儀氏の人々である。
           平成24年2月 設置
正覚寺に「松瀬青々(まつせ せいせい)先生墓所」とあったのですが
門が閉じられていました。
口縄坂
坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、
この名が付けられたという。
付近の浄春寺には暦学者麻田剛立、画家田能村竹田、春陽軒には国学者尾崎雅嘉、
太平寺には医家北山寿安ら、江戸時代に活躍した先人の墓がある。
また、梅旧院には芭蕉の供養碑もみられる。
 口縄坂は寒々と木が枯れて
白い風が走っていた
 私は石段を降りて行きながら
もうこの坂を登り降りすること
も当分あるまいと思った 青春
の回想の甘さは終り 新しい現
実が私に向き直って来たように
思われた
 風は木の梢にはげしく突っ掛っていた

   織田作之助「木の都」より