2018年8月10日金曜日

曇っていたけど…

曇っていて助かったと思ったけど蒸し暑くて汗をいっぱいかきました(^0^;)

生きて再び逢(あ)ふ日のありや召されゆく君の手をにぎる離さじとにぎる
                         下田基洋子(きよこ)
(『昭和萬葉集 巻六 太平洋戦争の記録
      16年12月8日~20年8月14日』講談社 昭和54年)
(…略…)
防人の歌は、兵の出征の歌といいながら悲しみにみちている。
この悲しみを一言でいえば、個人として放り出された集団脱落の悲しみであった。
 だから歌も全く個人の歌になっている。
作者名も記されているが、この記名されることが、悲しみの元凶だったのである。

  父母(ちちはは)が頭(かしら)かき撫(な)
    幸(さ)くあれていひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる
              (20巻4346) 丈部稲麿(はせつかべいなまろ)
(『万葉のことばと四季(書籍版)』中西進 角川選書 昭和61年)
駿河の国も防人である。
「あれて」は「あれと」、「けとばぜ」は「ことばぞ」の訛りで、
こんなお国ことばまる出しの農民が兵として個人とならなければならないところに悲しみがあった。
実はこの頭をなでることは今日にも伝えられるわが国の習慣だが、
本来呪的なものではなかったかと思う。
植物などを髪に挿して生命力を感染させるように、
今も父や母の生命の感染を意図したものであろう。
そしてまた「しあわせであれ」とことばによって祝福する、
その言霊(ことだま)の実現をいのる行為でもあったと思われる。
(『万葉のことばと四季(書籍版)』中西進 角川選書 昭和61年)
だから、これらは十分に東国の社会にふさわしい、いわばその暗示ともいうべきものであろう。
右にしきりに集団からの脱落といった。
その集団を象徴するものが「頭かき撫で」という行為だったが、
さて右の防人は、それを「忘れかねつる」――忘れられないという。
つまりどこまでも、彼の母郷はついて来て離れないのであろう。
そして、これを切断することが命ぜられた任務だった。
(『万葉のことばと四季(書籍版)』中西進 角川選書 昭和61年)
ハシボソガラスが何かをくわえていました。
朝ご飯にしてはくわえたままで食べる様子は見られなかったです。
キボシアシナガバチかな?
なんか幼虫を捕まえたみたいです。
ハチは怖がられる虫ですが、益虫でもあるのです。
ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あがれ故郷の庭
             小池 光(ひかる)『廃駅(はいえき)』(昭57、中積舎)

 久しぶりの帰郷である。
故郷の古家では、ひとり暮らしの母がいそいそと迎えてくれる。
めったに帰ってこない息子、その息子に取りとめもなく話しかける母の話は、いつまでもいつまでも続く。
めっきり老けた母を労(いたわ)るように、息子もその話にいつまでもつきあっている。
そんな情景を思い浮かべることができるだろう。
 そんななかで、なにかのことで母を叱ってしまったのである。
愚痴っぽくなった母の繰り言に対してだっただろうか。
あるいは誰かの悪口を言う母に苛立ったのであっただろうか。
老いて気弱くなった母を励ますようなつもりで叱ったのかもしれない。
その原因はわからない。
しかし、いまは立場が逆転してしまったかのように、母を叱らなければならない息子は、
その母の老いを思い、また母とともに過ごしたこの家のさまざまな時間を思ったのであろう。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)
真夏の田舎家の庭である。
鶏頭(けいとう)の紅、ダリアの黄、などなど夏の庭には原色の花々が無秩序にけばけばしい色を見せている。
思わず叱ってしまった視線が捉えたその「極彩」の花々が、なんともかなしく思われたのである。
「あはれ」は「哀れ」ではない。
ああ、といった嘆きの言葉と取っておきたい。
 誰にも覚えのありそうな歌である。
故郷も、そこにひとり暮らす母も、たまにしか帰れない自分も、すべて悲しい。
しかし、この歌の悲しさは、内容の悲しさであるとともに、張りつめた歌の律から来る悲しさでもあろう。
第三句の「ゐたりけり」、第四句の「あはれ」、そして初句と結句に繰りかえされる「ふるさと(故郷)」、
それらが読者を普遍的な悲しみへと誘(いざな)うかのようである。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)
精霊蜻蛉(ウスバキトンボ
ワタ(アオイ科)

巻第十四(相聞) 3354
伎倍人(きべひと)の斑衾(まだらぶすま)に綿さはだ、入りなしもの。
   妹(いも)が小(を)床に

伎倍の里人のこしらえる、名物のだんだら染めの蒲団に、綿だくさんに入れてある。
そのように自分も、もぐり入りたいものだ。
可愛(いと)しい人の寝床に。
(『口訳万葉集(下)』折口信夫 岩波現代文庫 2017年)
(「解 説―水になりたかった前衛詩人」夏石番矢)

(…略…)
 振り返れば山頭火の初期俳句は、
山口県周防地方の俳句回覧誌「五句集第四号 夏の蝶」(弥生吟社)に
毛筆書きで記された次の一句。

  夏の蝶勤行の瞼やや重き  明治44(1911)年

 この「蝶」は、山頭火の魂の象徴であり、
とくに山頭火の心に大きな葛藤があった時期に蝶は詠まれる。
(…略…)
(『山頭火俳句集』夏石番矢編 岩波文庫 2018年)
8月7日の記事で、
ETV特集 シリーズ アメリカと被爆者 第1回「シュモーさんを探して」
を紹介したときに、この番組でシュモーさんのことを初めて知ったと書きましたが
『第二楽章 ヒロシマの風』の後書きで吉永小百合さんが紹介してくださっていた。

「語り継ぐもの」吉永小百合
(…略…)
 1997年の夏、7月。
私はアメリカ西部の港町、ポート・タウンゼントで、原爆の詩を読みました。
WPPCという平和団体が開いた朗読会です。
平和を願う人達の温かい拍手につつまれて、日本語で読んだ詩でさえ、
アメリカの人達の心に届いたような気がしました。
 その折、フロイド・シュモー博士にお逢いしました。
博士はWPPCの名誉顧問。
戦後すぐにアメリカで寄付を集め、日本の被爆者のために、
自らの手にカナヅチを持って沢山の家を建てた方です。
(『第二楽章 ヒロシマの風』吉永小百合編 角川文庫 平成12年)
 ヒロシマ・ナガサキに原爆が落ちたとき
 あなたと私の上にも
 未来の子供たちの上にも
 落ちたのです。


 シュモーさんは、百歳を超えられた今も、平和を願い、人々に語りかけています。
 その言葉の深さ、重さを、私は忘れないでいたいと思います。
(『第二楽章 ヒロシマの風』吉永小百合編 角川文庫 平成12年)

・「シュモーハウス
・「広島へ寄よせられた様々な援助 『広島の家』の建設

ETV特集 シリーズ アメリカと被爆者 第2回「“赤い背中”が残したもの」〟が、
11日(土)午後11時から放送されます。
田んぼの番人ですp(^-^)q
大きな鎌で百発必中 カマキリ」(動画)
(2012年 7月28日)
今日は、母の月命日です。
母がルーペで覗いているのはシダレエンジュの花です。
暑い時期でも一緒に公園についてきてくれました。
相当疲れていたのでしょう、帰りの車の中でよく居眠りをしていました。
本当によく頑張ってくれたなと感謝しています。

沖縄県知事の翁長さんが亡くなられました。
岩永直子さんがTwitter
亡くなられたのはとても残念ですが、ギリギリまで仕事を続けられた姿を見て、
がんになっても諦める必要はないのだと勇気づけられました。ご冥福をお祈りします。

と書かれていました。
私も最後まで諦めずに生き抜いたことに勇気をもらいました。

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m