2018年8月11日土曜日

山の日…

今日は「山の日
明日は、御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落した日(1985年)です。
「ひたくれなゐの生」――斎藤 史

 死の側(がは)より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生(せい)ならずやも

 斎藤史(ふみ)の歌集『ひたくれなゐ』(昭和52年)の巻末ちかい一首である。
史はこの時、67歳。
信州長野市に疎開し、やがて永住を覚悟してから30年が過ぎている。
 「死の側」より照らして見れば、
人間の生(生涯といってもいいし、生きていくことそのものといってもいい)は、
ただただまっ赤に燃えあがった色彩を帯びてみえるものであるよ、という嘆声の歌であろう。
わたしはこの歌を以前よんだ時「ひたくれなゐの生」とは、
史自身の生きざを直写した言葉ではなかろうかとおもった。
 そして、たしかに、そういう解釈でひととおりのところはいいのだろうが、
この一首を作った時の史は、脳血栓で寝たきりの夫と、
ほとんど失明同然の90ちかい老母の二人をかかえて看護人生活の毎日だったのである。
麻痺の夫と目の見えぬ老母(はは)を左右(さう)に置きわが老年の秋に入りゆく
とうたっているとおりであった。
(『歌のかけ橋』岡井 隆 六法出版社 昭和58年)
  茣蓙(ござ)敷きて付添人の丸寝するねむりに<短歌>などは来るな

というのも、素直な感慨というべきであったろう。
 家族に身障者をかかえて生きる人ならすぐに理解できるところである。
しかし、だれでもが「ひたくれなゐの生」だと言い切れるわけではない。
「死の側から」照らすとき、はじめて「ひたくれなゐ」だと、ことわっているのである。
この場合「死」とは、万人に例外なくおとずれる終結であると同時に、
死に方(死へ至る過程)をも含む言葉かとおもわれる。
(『歌のかけ橋』岡井 隆 六法出版社 昭和58年)
 斎藤史(ふみ)
明治42年、陸軍軍人斎藤瀏(りゅう)の長女として東京に生まれた。
父の任地の関係で、旭川、津、小倉、旭川、熊本と転任。
いわゆる「済南事件(さいなんじけん)」の責任をとって退役した瀏とともに昭和5年東京に住んだ。
 このあと約15年間の在京生活あいだに、この父娘をまき込む大きな政治闘争が起きた。
昭和11年の二・二六事件である。
 「死の側から」照らして見るとは、死者の側から眺めてみるという意味でもあろう。
二・二六事件は、陸軍の将校を中心とする「失敗した軍事クーデター」と定義するには、
あまりに変則的な要素が多すぎるようであるが、
ともかく、主犯の一人として処刑された栗原安秀中尉は、
史の幼なじみであり「家族のような、兄妹のような」同級生で、
おたがいに「史公」「クリコ」と呼び合っていた間柄だったのである。
 これもやはり死刑死をとげた中橋中尉、坂井中尉も、史の家によう遊びに来た。

  額(ぬか)の真中(まなか)に弾丸(たま)をうけたるおもかげの立居に憑(つ)きて夏のおどろや

という、その当時の史の歌は、悲嘆であるとともに、
精神的な同志をさばいた暗黒裁判に対するせいいっぱいの批判をあらわしていよう。
栗原たちの死刑は7月12日。
夏草のしげり(「おどろ」)と心の乱れをかさねて歌う史の「立居」(起居日常)に、
ついてはなれないのは、若い死者の姿である。
(『歌のかけ橋』岡井 隆 六法出版社 昭和58年)
 このとき、すでに、史の「生」は、強烈に「死の側から」照射されていたはずである。
 それにまた、戦後不遇のうちに疎開先で死んだ父も死者に加わる。
瀏は死の前に「強心剤はいらない、睡眠剤でながうよ」と言っていたという。
この人が二・二六の時果たした役割はよく知られていよう。

 過ぎてゆく日日のゆくへのさびしさやむかしの夏に鳴く法師蟬

と老年の史は「むかしの夏」を想い出して現在の「日日」と重ねあわす。
その時、史の生きざまは、一切の生者のそれと同じように「からくれなゐ」である。
と同時に、次のような散華のイメージをも誘い出すのであった。

 ちりぬるをちりぬるを とぞつぶやけば過ぎにしかげの顕(た)ち揺ぐなり
(『歌のかけ橋』岡井 隆 六法出版社 昭和58年)
クサギ
 花は真夏に咲きにおいます。
蝉時雨(せみしぐれ)のなか、ほんのり紅を帯びた白い花が、枝の先いっぱいに集まり、次々に開きます。
蕾は最初、淡紅色をした5枚の萼に包まれています。
そこから白色の花筒(かとう)が伸び出て、白い花びらを広げ、雄しべと雌しべを差し伸べます。
くさい葉とは裏腹に、花はジャスミンに似たすばらしい芳香を放ちます。
 細くて長い花筒には蜜がたっぷり。
香りに誘われて、昼にはアゲハ類、夜には蛾が訪れます。
夢中で蜜を吸うチョウや蛾の翅が、しべに触れて受粉しまう。
花びらが枯れ落ちたあと、萼はホオズキのように実を包んで残ります。
(『身近な植物に発見! 種子(タネ)たちの知恵』多田多恵子 NHK出版 2008年)
ツチガエル 無尾目アカガエル科 体長♂3~4cm ♀3.5~5cm
土の色をしたイボを背負うカエル
 泥色で背中や足にたくさんのイボを持つカエルで、地方によってはイボガエルとも呼ばれる。
捕まえると青臭い粘液を出し、天敵のヘビなどの攻撃を防ぐことに役立てているんだ。
オスは陸でも水中でも「ギュー、ギュー」と鳴く。
卵は水草の茎などに小さな塊(かたまり)として産みつけられるので、ちょっと見つけにくい。
北海道、本州、四国、九州、佐渡島、隠岐(おき)、壱岐(いき)、五島列島などに分布する。

冬の水場でオタマジャクシが育つ
 田んぼや平地、山地の沼や川、流れのゆるやかな沢などの
水辺からあまり離れることなく暮らしている。
 5~8月が繁殖期で、沼や湿原、渓流のそばのよどみや水のある休耕田、
そして都会でも人工池などで産卵する。
年内には変態しないこともあり、その場合はオタマジャクシのまま冬を越す。
田んぼの乾田化などによって冬に育つ場所が少なくなり、それに加えて、
強い農薬を使ったりしたので、ツチガエルの生息数がずいぶん減ってしまった。
(『田んぼの生きもの おもしろ図鑑』湊秋作編著 農山漁村文化協会 2006年)
蒸し暑さに汗をダラダラ流しながら見上げるとコナラのドングリ(^。^)
アブラゼミの模様を見ているといつも歌舞伎の隈取りを思い出す(*´∀`*)
昨日の記事で中西進さんの『万葉のことばと四季』から転記しましたが

父母(ちちはは) 
頭搔(かしらか)き撫(な) 
(さ)くあれて
(い)ひし言葉(けとば) 
(わす)れかねつる  
 巻二十・4346 丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ)

別れのときに、父と母とが
私の頭を両手で撫でまわしながら
「幸くあれ」
くれぐれも無事で過ごせ
と言ったことばが
脳裏から離れない
(『NHK 日めくり万葉集 vol.6』中村勝行編 講談社 2009年)
[選者 山口晃(画家)]
「頭搔き撫で 幸くあれて」とか「言ひし言葉ぜ」といった響き。
普通は「ことばぞ」となるんでしょうけど、それを「けとばぜ」と詠んだ響きが、
万葉ぶりというか、時の向こうから風が吹きわたってくるような、心地よさです。

――防人(さきもり)になった若者が、
ふるさと駿河を旅立つときの父母との別れを思い出して詠んだ歌です。
現代と過去が同居する不思議な絵を描く山口さんは、
この防人の歌から「表現」することの意味を考えさせられるといいます。

[山口]
難しいことは何も言っていない。
父ちゃん、母ちゃんが頭を撫でて、「いっといで」と送ってくれたのが忘れられない、と。
これは千年以上昔のことですが、この心情はいまの人間にもピンとくる。
それゆえに陳腐な内容にも映りますが、陳腐の上っ面を剝いでいくと、
その下にしっかりした芯があるんですね。
陳腐だからそれ自体が取るに足らないということではなく、
言われ継がれて陳腐になるくらいに大事なことだというのが、この歌を読むとわかります。
いろんなものが積もって見えなくなってしまったけれど、
その下にある一番古くて大事なことを言うために工夫を凝らすのが「表現」なんですね。
私は絵描きですから、表現の方法は違いますが、そんなことを思い起こさせてくれます。
(『NHK 日めくり万葉集 vol.6』中村勝行編 講談社 2009年)
――親子の情を詠んだこの歌から、
山口さんは変わることのない人間の本質と表現の関係を読み取ります。

[山口]
新しさとか自分なりの絵とか、ついそういうものを求めたり探したりしがちなところが私にもありますが、
人間は昔から、食べて寝て、やることはだいたい一緒。
大事なことはそんなに変わっていないと思うんです。
ただ、それを言い続けるためには、その大本がスーッと人の心に届くような、
曇りのない表現でなければなりません。
そこに到達するために、表現を磨き込むことが必要です。
私とは違うジャンルの表現であるけれど、この歌は、そんなことも思い起こさせてくれました。
(『NHK 日めくり万葉集 vol.6』中村勝行編 講談社 2009年)

山口晃の見ている風景。」(ほぼ日刊イトイ新聞)
解 説―水になりたかった前衛詩人」より

(…略…)
「光と影」のもつれた「蝶々」は、山口県大道村(当時)での酒造業失敗により、
熊本へ移住するころに詠まれ、山頭火の大きな転機をうかがわせる。

  蝶々もつれつゝ青葉の奥へしづめり  大正4(1915)年
  光と影ともつれて蝶々死んでをり   大正5(1916)年
  大きな蝶を殺したり真夜中      大正7(1918)年
  蝶ひとつ飛べども飛べども石原なり  大正9(1920)年

 山頭火の放浪は、これらの蝶の俳句が作られたのちの大正15(1926)年、
妻子とともに移住した熊本を、一人去るときから始まる。
山頭火本人が「行乞」と呼ぶ、托鉢と句作旅行を兼ねた一人旅である。
(…略…)
(『山頭火俳句集』夏石番矢編 岩波文庫 2018年)

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