公園を歩いているときも青空、白い雲、黒い雲と刻々と変化して
いつ降りだしてもおかしくないなと思うほど不安定な天気でした。
昨日、紹介した「胸に迫る愛する人との別離の歌」の
前にある文章も紹介したいと思います。
歌に詠まれたさまざまな「銃後」(菅 紘 かんひろし)
一方、はるかな前線のこちら側には銃後がある。
すでに巻五「大陸の戦火」から銃後は始まっている。
七軒の隣組にて鮭一つ
分けんと女等きほひつつをり (末岡惣一)
買い溜めを防ぐと家毎(やごと)役人が
米櫃調ぶ何のことぞも (柚木次郎)
この二首では、物資の不足がじわじわ庶民の生活を圧迫し始めた様子を表している。
一尾の鮭を隣組で手に入れて分けましょうと気勢をあげている主婦たちのにぎやかな声。
暗い世相が支配的になりつつあるなかで、久しぶりに昂揚したはずんだ思いが伝わる。
また「米櫃」の歌は、各家ごとの立ち入り検査という異様で馬鹿げたお役所仕事が痛撃されている。
やがて戦局は悪化、学童たちの疎開も始まる。
大根粥(がゆ)に巴旦杏(はたんきやう)ひとつ疎開食
どの児も瘦(や)せて黙(もだ)し食(は)みおり (永山嘉之)
[巴旦杏(はたんきょう)
①アーモンドの別称。②スモモの一品種トガリスモモのこと。
『広辞苑 六版』より引用者注]
さらに戦が長引くとともに食糧難が日常となり、配給制の開始、自給への試みも始まる。
一食を乳出ぬ妻に与(あた)へむと
雑炊(ざふすゐ)の列にわれもゐならぶ (大江徹)
百坪の我が家の畑に何播(ま)かん
夕餉(ゆうげ)の卓に区画図をかく (渡辺滋子)
こうした中で飢餓状況はますます進んでいった。
それを詠ったのが次の一首だ。
食ふ草よ草よと誰も皆 花見にと来て草を摘むなり (山田尚子) 『万葉集』でいえば「摘菜」にあたる題材だが、ここではそんな雅な趣ではなく、 花見に来てまで食べられる野草を探し求める哀しい姿が詠われている。 |
この歌の投稿者が、選考されたという知らせを受けたあと、講談社の編纂室を訪ねてきた。
じつはこの歌は亡くなった娘が昭和18年に13歳で詠んだもので、
それを母親が自分の名前で投稿したのだった。
作者を詐称したという自責の念黙しがたく、悩みに悩んで編纂室を訪れたのだが、
そこには亡き娘の歌を残したいという母の哀切な想いがあったのだ。
ところで銃後は国内のみにとどまらない。
遠く異国の地で、それも対戦相手の国で戦時下を過ごした日本人、日系二世もいた。
彼らは敵性国人として強制収容所に拘束された。
月かげに浮く鉄柵のさま見れば
あはれ流人(るにん)の思ひさびしき (山本保)
排日の声うとましも国のため
二世ら数多(あまた)散華(さんげ)する時 (阿部秋野)
その強制収容所の一つで発行された短歌雑誌「ハートマウンテン文芸」に収録された作品である。
(『NHK日めくり万葉集vol.8』中村勝行編 講談社 2009年)
菅さんの文章には取り上げられていませんでしたが『昭和萬葉集』にはこんな歌もあります。
食ふものの絶えしと聞きて焦土(やけつち)の上より摘みぬすべりひゆを吾は 松村英一
すべりひゆ=温・熱帯地方に広く分布する一年草。
茎は枝分かれして地面を這い、くさび形の厚い葉をつける。
茎や葉が食用となる。
(『昭和萬葉集 巻六 太平洋戦争の記録
16年12月8日~20年8月14日』講談社 昭和54年)
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が12月に上映されるそうです(o^^o)
NHKで放送された「ノモンハン 責任なき戦い」、
「祖父が見た戦場 ~ルソン島の戦い 20万人の最期~」が、
18日深夜に再放送されます。
(8月19日午前0時05分~1時18分と午前1時20分~2時09分)
今朝の父の一枚です。
不安定な天気で雲が刻々と変化していました。
父も雲が面白い形をしていたと話していました。
こんにちは~=^_^=
返信削除色々なお花さん綺麗で可愛いすね
お父様が撮られたお写真 雲の変化が想像できます
雲って以外と面白いですよね=^_^=
蘭☆☆さんこんばんは(*^O^*)/
削除公園を歩く楽しみは草花を楽しめることです(o^^o)
昨日は、雲がいろいろ姿を変えて見飽きませんでした。
雲を見ながら想像を膨らませると楽しいですね(^。^)