昨日、父が梅田の阪急百貨店の「沖縄展」に行きたいというのでついてきました。
σ(^^)の目的は「八重山そば」を食べたかった。
そばを食べた後は別行動で、父は、展示会場を見て歩き、
Kazeは、百貨店を後にして…
この「なで石」をなでにきました(^。^)
町中の小さな「歯神社」
歯神社由緒
当社は綱敷天神社末社であり
もとは農耕神として祀られ
淀川の決壊をこの付近で歯止めされたことから「歯神社」として崇拝され
近世に至っては歯の神と呼ばれ歯痛によく効く神様として厚い信仰がある
次に太融寺を訪ねました。
淀殿之墓
元和元年5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、
大阪城外鴨野郷、弁天島に一祠を作って埋められた。
これが淀姫神社である。
明治10年11月城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることになり、
豊臣に縁りの深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。
(「太融寺縁起」HPより)
向かいに書き下し文がありました。
読み間違えていると思いますので、太融寺を訪ねてご覧ください。
太融寺淀殿の墓を弔う
作 藤見東陽
大坂の城樓碧涯(じょうろうへきがい)を壓(あつ)す
姉(いろね)は豊公(ほうこう)の寵(ちょう)珠帷(しゅい)を縦(ほしいまま)にす
春花秋月(しゅんかしゅうげつ)君に依(よ)りて麗(うるは)し
窈窕(ようちょう)嬋妍(せんけん)嗣(し)抱(いだ)いて期(き)す
方廣(ほうこう)の鑄銘(ちゅうめい)姦智(かんち)の將(しょう)
紅蓮(ぐれん)の劫火(ごうか)憫憐(びんれん)の姫
今聞く鐘(かね)は愴(かな)し太融寺
墓石(ぼせき)香煙(こうえん)菊を供うるは誰(たれ)ぞや
白菊の目にたてゝ見る塵もなし
(元禄7年)9月27日、園女(そのめ)亭での歌仙の発句。
『追善之日記』に「廿七日、園女が方にひさしくまねきおもふよし聞へければ、此日とゝのへえ其家に会す」とある。
園女の脇句は「紅葉(もみぢ)に水を流すあさ月」で、
他に之道・一有・支考・惟然・酒堂・舎羅・荷中が同席している。
この句は主の園女に対しての挨拶で、「白菊」は俳席での嘱目である。
白菊の清浄さを言うことが園女への挨拶になる。
山家集の「曇りなき鏡の上にゐる塵を目に立てゝみる世と思はばや」の歌に拠る。
原歌の「鏡」、句中の「白菊」、実在する園女を、
一体として踏まえたところがこの句の手のこんだ技巧である。
「目にたてゝ見る」とは、格別注意を払って見ることで、
一点の塵もとどめぬ白菊の純白の美の強調である。
この俳席は朝の間のもので、朝寒の身の引緊まるような冷えびえとした空気まで想像させる。
句の姿も、黄金を延べたような一本に通った表現で、少しも滞るところがない。
白菊の清さそのものがずばりと竹を割ったように明快に表現され、
更に「塵もなし」の否定形がかえって強い響きをもたらしている。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
またこの寺は、近代日本政党政治発祥の地として知られている。
明治時代の自由民権運動の先駆者板垣退助を始め、全国の有志が大阪に集まり、
1880(明治13)年当寺で第4回愛国社(あいこくしゃ<のちの自由党>)大会が開催され、4年後にも会場として使われた。
(『大阪府の歴史散歩 上 』大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年)
綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)にやってきました。
先程お参りした歯神社の本社になります。
浪速(なにわ)の梅
昌泰4年(901)2月2日(現在の2月下旬)。
無実の罪を着せられた菅原道真公が、太宰府まで左遷の途次に、
淀の川尻と呼ばれていた当地にお立寄りになられました。
その時、当地にあった一樹の紅梅が今を盛りと、満開に咲き誇っており、
梅の花がお好きであらされた道真公は、
船の艫綱を解きたぐり、即席の円座にして敷かれ、
その上に坐られてしばし紅梅をご賞翫あそばしました。
これが当宮が綱敷天神社と称せられる由縁です。
道真公がご賞翫あそばした紅梅は、
当宮の御旅社にあった「梅塚」という紅梅の事を指しますが、
道真公がお立寄りになられる以前から、
仁徳天皇の「咲くやこの花」の故事など、この地は梅咲き薫る土地であったようです。
現在の「梅田」という地名の、室町時代には「埋田」と書かれていましたが、
語義が悪い事から、これら当宮の梅の故事から、
「梅田」と書かれるようになったともいわれています。
現在、当宮にあります紅梅は、これら浪速の梅の遺風を継ぐ梅として、
御神木であるという事は言うまでもなく、
また梅田という土地を語る上での大切な存在ともいえます。
喜多埜稲荷神社(キタのいなりじんじゃ)
御祭神 宇賀御魂大神
「キタのお稲荷さん」として知られる当宮は、
社号に当地の古称である「喜多埜」を冠し、
この梅田キタのお稲荷さんとしては、大変由緒の深いお宮です。
お稲荷さまは、五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満など
生業の神さまとして篤く敬われております。
かつては当宮の横に、室町時代、一夜にして七本の松が生えたという
奇瑞で知られる「七本松」の遺木がありましたが、
戦災で社殿と共に焼けてしまいました。
長らくはそのままとなっていましたが、
昭和37年、キタの商売の神さまをこのままにしてはおけないという氏子崇敬者、
また地域企業の皆さまのご篤志で、社殿が復興され、
それから梅田は行動経済成長に乗り、大きく発展しました。
(…略…)
萬載橋(まんざいばし)
喜多埜稲荷神社の社殿前の両脇にあるこの石は、
安政2年(1855)5月5日に架橋された萬載橋という橋の欄干でした。
架橋されていたのは、当宮の正門を出て北、
現在の神山町と万歳町との間あたりといわれ、
かつてこの地にあった北野青物市場へと続く、天満堀川からの堀割の水路と、
能勢街道(池田街道)との交差点に架橋されていたのではないかと考えられています。
名の由来は、「万の米俵を載せても大丈夫」という説と、かつてお正月などに、
芸人が街々を回って面白おかしく話芸を披露した「萬歳(現代の漫才の元)」を
この橋の上で披露したからという説がありますが、正確なところは不明です。
ただ、現在の万歳町の名の由来はこの橋に依るといわれています。
この橋が架けられた前年、安政南海大地震が発生しており、
それ以前に架橋されていた橋が何らかの被害を受け、
架け替えられた可能性も指摘されています。
橋には寄進された方々のお名前が彫られており、
北前船にゆかりのある北風家と思わしき名前もみられます。
明治以後、梅田が市街化するに従って、水路が不要になり、
橋も破却され、欄干のみが当宮境内に記念として残されました。
ちなみに浪速八百八橋のうち、現在最古の欄干ともいわれています。
「北風…」と読めるような…
従軍記念碑
この石碑は、明治27年(1894)に勃発した日清戦争に当地、
北野村(現在の梅田キタ)から出征した兵士を顕彰する為に、明治30年に建立されたものです。
石碑の裏面には出征した41名の兵士の氏名が刻まれており、
司馬遼太郎の小説、「坂の上の雲」にも描写されているように、当時、まさに日本の命運を賭けた戦いでした。
大東亜戦争以後、処分される事となっていましたが、
後世に梅田キタの歴史の一頁を伝えるべく地中に埋め残し、
昭和52年再び掘り起こして、現在の形に整備しました。
今の日本、そして梅田があるのは、この人々の尽力があった事をこの記念碑は今に伝えています。
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一国の政治を動かす軍部には一兵卒の命は軽し 大津敏子(『昭和萬葉集 巻一 昭和時代の開幕 昭和元年~5年』講談社 昭和55年)
堀川戎神社にやって来ました。
同じ境内にあるのが
ここの地車絵馬は狸が地車を曳いています(^。^)
今日の一番の目的地、成正寺(じょうしょうじ)にやってきました。
大塩中斎先生墓・大塩格之助君墓(門前顕彰碑)がある。
大塩家の菩提寺として9基の墓がある。
江戸時代平八郎の墓は許されなかったので、1897年に田能村直入が建立、
1945年戦災で破損したため1957年に有志が父子の墓を復元させた。
乱150年に当たる1987年に「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が建立された。
(『大阪春秋 平成29年 秋号 No.168』)
大塩平八郎中斎と大塩格之助の墓
大塩の乱に殉じた人びとの碑
境内には大坂大塩家初代六兵衛成一より格之助に至る九代の墓碑が現存しています。(『大阪春秋 平成29年 秋号 No.168』)
戸が閉まっていて入れなかったのですが
大塩清(せい)墓
蓮興寺
清は平八郎の祖父政之丞成餘の後妻、平八郎の父敬高の継母である。
清は両親を早くなくした平八郎を厳しく躾け、気質の形成に影響を与えた一人とされる。
清と政之丞の間に一男・志摩があり、後に吹田の神官宮脇家の養子となった。
志摩は直接乱に参加していないが、自害した。
(『大阪春秋 平成29年 秋号 No.168』)
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昼にそばを食べたけど、蕎麦をいただきました(^^ゞ
父から百貨店の沖縄展に行っての感想等を聞きながら食べました。
百貨店のように大勢の人が集まる場所を好きでない父が
行く気になったのは、母へのお土産を買いたかったのだろうな…
と言うのも、母に「サーターアンダギー」が供えられていました。