2024年5月1日水曜日

朝の雨だけど…

 

今朝は雨が降り続いています。
朝の雨はすぐに止むそうだけど
歩いているうちに小雨から本降りになり
風も吹いてきたので早めに帰ってきました。

朝の雨 あさのあめ
 朝方降り始める雨。
「あさあめ」「あささめ」「ちょうう」とも。
同意の語に「暁雨(ぎょうう)」。
朝の雨は小雨で、長雨とはならず、昼ごろには晴れ上がることが多い。
「朝雨に傘いらず」「朝雨、馬に鞍置け」などと言い伝えられている。
すぐにやむので、傘をもたずに出かけてもよい、外出の支度をして差し支えないというのである。

 早春の門すこしぬれ朝の雨 及川貞
(『雨のことば辞典』倉嶋厚・原田稔編著 講談社学術文庫 2014年)
朝ドラ「虎に翼」第5週のタイトルは「朝雨は女の腕まくり?

4月25日に今回の事件とよく似た名前の疑獄事件が起きている呟きましたが
史実通りならかなり長い裁判になるけど
「朝の雨」のことわざのように早く無罪で結審すればいいですね。
ドラマでは穂高重親が寅子の父直言の弁護を引き受けますが
史実では穂積重遠は友人である大久保偵次の弁護を行いました。
そのことについてはドラマが進んでから紹介したいと思います。
また「朝雨は女の腕まくり」に「」が付いていますが(^_-)
こんな諺もありますね

女の一念、岩をも徹(とお)
 女性の執念深さは岩を貫き通すほどすさまじいというたとえ。
【英語例】A woman will have her way.(女の望むどおりになる)
(『用例でわかる故事ことわざ辞典』学研辞典編集部 2005年)

ロッキード事件のときに政界を揺るがした言葉に
ハチの一刺し」がありますね。
針はメスの蜂にしかありません(産卵管が変化したもの)。
5月1日は「メーデー」(連合)なんですが、日本で第一回メーデーは

1920(大正9)年 5月2日
 日本最初のメーデー、上野公園で1万人余参加、治安警察法第17条撤廃・失業防止・最低賃金法制定を決議。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)

この第一回メーデーに山川菊栄が関係しています。
大正にはいってから
 米騒動のバイキン


 …前略…

 『朝日新聞』の記者として名のあった大庭氏は熱情をもって社会主義陣営に近づき、福田徳三博士を主筆として雑誌『解放』を出し、堺、山川にも入社するようにすすめましたが、二人は辞退して社外で寄稿するにとどめました。
大正9年の春、私は大庭氏から『解放』五月号(*1)にメーデーの解説を書けといわれて書きましたが、たぶんこれが市販の雑誌にメーデーの解説ののった最初のものかと思います。
その反響は意外に大きく、その年行われた第一回メーデー(*2)には大いに役に立ったと、喜ばれました。
ついで筆を加えて水曜会パンフレット第一冊として出版し、連年たくさん刷りましたが、その初めは大庭氏の思いつきから出たことで、私は年を追ってさかんになるメーデーを見るごとに、いつも大庭氏を思わずにはいられないのです。
(『おんな二代の記』山川菊栄 岩波文庫 2014年)
*1)『解放』1919年6月創刊号に掲載された「五月祭(メーデー)と八時間労働の話」。
『解放』5月号は著者の記憶間違いである。
なお大庭柯公(おおば かこう <本名景秋。1872年山口県生まれ>)は、日本きってのロシア通で、1921年革命ロシアに渡ったものの、スパイ容疑で投獄され、24年ソ連政府より死去が報じられた。
*2)日本での第一回メーデーは、1920年5月2日に挙行。
(『おんな二代の記』山川菊栄 岩波文庫 2014年)
寅子は日本で初めて弁護士となる三淵嘉子をモデルにしていますが
日本の女性で初めて法律の世界に飛び込んだ女性が大阪にいます。
1931(大正6)年に27歳という若さで亡くなった北村兼子
兼子のことを知ったときには、兼子のことが書かれた本が絶版になっていて読めなかった。
ところが朝ドラ「虎に翼」で「毒饅頭事件」が放送されたときの投稿に
兼子のことが書かれた本が出たことが知らされていました。
さっそく、予約して、昨日、書店に届いたので受け取りにゆきました。
◎はじめに
 ●生きづらさを突き破って、未来へ

 兼子と菊栄をつなぐ接点、視点は?


 兼子が死去した折、作家の三宅やす子が追悼文を寄せた(242頁~)。
やす子は兼子の著書に序文を寄せるなど、親しくしていた。
そしてやす子は、小学校から女学校まで菊栄の同級生であった。
菊栄が特別に思い入れのある人たちを描いた「このひとびと」(『山川菊栄集8』)では、才気にあふれていたやす子が家の事情で早々に結婚を決めた悔しさを、「ただのお嫁さんになる気でいるのが、もどかしく、寂しかった」と哀惜を込めて綴っている。
(『未来からきたフェミニスト 北村兼子と山川菊栄』花束書房 2023年)
 兼子と菊栄をつなぐもうひとりの人物が、法学者の滝川幸辰(たきがわゆきとき)である。
滝川は、兼子が刑法について学んだ師匠であった(178頁参照)。
菊栄は、兼子と同様に女性による犯罪を分析する文章をよく書いており、そのなかで滝川を評価していた。
たとえば菊栄は、姦通罪が男子の姦通について刑罰を規定していないからといって、男子の姦通を積極的に奨励し賛美しているわけではないと指摘しているが、兼子も、滝川譲りの見解と現実に即して似たような意見を述べていた。
また、博士号を取るために恋人の女性医師から6年間援助してもらった男が、博士号を取得した途端に恋人を捨てた事件があった。
女性医師は職業上で手に入れたチフス菌で男の毒殺を図るも、ほかの犠牲者を出してしまったのだ。
菊栄はこの女性を非難したうえで、ジェンダーの問題を指摘しながら被害男性も批判し、女性に同情を寄せた。
そして、この難事件を滝川が弁護するとの報道に「一抹の明るさ」を感じたと述べ、こう付け加えた。
「欲には婦人弁護士が開業していて、せめて滝川氏の補助的な任務でも引きうけられるとなおよかったと思う。(中略)追々にこんな事件に進んで起つ女性弁護士の将来に期待せずにはいられない」(『山川菊栄集6』210頁)。
兼子を思い浮かべてしまう言葉だが、兼子はこのときすでに世を去っていた。
 このように、菊栄も女性が法律を学ぶことを重視していた。
ヒトラーが「一人のお偉い婦人法律家よりも、健康な七児を擁する婦人を尊重する」と演説したことを伝え聞いたときは、せっかく健康な子を産んでも「またぞろ世界戦争のやり直しで、大砲の餌食にされては、母親もたまるまい」と皮肉った。
そして、法律を学ぶことと子を産むことを秤にかけられないほど別の値打ちがあり、女性には学んだり考えたりする本能もあるのだとし、「ヒトラーの御厄介にならずにすむ日本では、健康な子を生む母と同時に、偉い婦人法律家も遠慮なく出てもらいたものである」(『山川菊栄集6』139頁)と述べた。
 女性、マイノリティをめぐる法制度上の不備が指摘されるいま、法律を重視したふたりの言葉にも注目してほしい。
(『未来からきたフェミニスト 北村兼子と山川菊栄』花束書房 2023年)

関西大学 大学昇格100年記念特設サイト 「記念映像」で
北村兼子についてYouTubeで紹介しています。
北村兼子SP レコード「怪貞操」

大阪市北区に平成29年に設置されています。
北村兼子ゆかりの地(中之島3-5 中之島第一ビル正面) 」(大阪市北区の顕彰史跡
今朝の父の一枚です(^^)/

英米の婦人運動に比較して、日本に於いては男性の所謂(いわゆる)シンパが少なかった 
 =市川房枝 野中の一本杉

 この人を含む大勢の女達の、三十年に及ぶ苦難の婦人参政権獲得運動が、あっけなく達成せられたのは、敗戦によってである。
それまでは女の地位向上をはばむ者こそ絶大で、協力的な男性など極少だった。
がポツダム宣言の中に「日本政府は民主的傾向を復活強化し…」を読むや彼等は一転。
市川さんらの要請を、時の自由党首脳までが党の政策として受け入れたのだった。
 11月27日
(『おんなの言葉365日』相星雅子 高城書房出版 1991年)

極少の協力的な男性の一人が朝ドラ「虎に翼」のモデルにもなっている方です。
後日、紹介したいと思います。