今朝は、薄雲が広がり蒸し暑かったです。
数日前にマクロレンズで写そうとしたら除草されていた。
その場所を歩いていると、数は少ないですがキランソウが復活していました!(^^)! 「中国でスパイ容疑の元北海道教育大教授 懲役6年の実刑判決」(NHK 5月14日)
中国外務省の報道官が
「具体的な状況は主管部門に問い合わせてほしい」
と、回答を拒否していました。
このニュースを見ながら
朝ドラ「虎に翼」第7週「女の心は猫の目?」 (31)
寅子の父を拷問して嘘の自白をさせた特高を思い出していました。
落合帝大教授は1審で無罪になったのですが
落合教授に名前の似ている河合栄治郎教授は、1審無罪、2審有罪になっています。
1審で無罪を言い渡した裁判官は左遷されました。
「河合栄治郎 理想主義的自由主義者」(国際留学生協会 向学新聞)第3章 戦時から平時へ
1 検察官司法の温存
特高警察
政府は大逆事件の落着後の1911(明治44)年8月、警視庁訓令を改正して警視総監官房高等課から特別高等課を分離独立させた。
特高課は同盟罷業、爆発物、新聞・雑誌その他の出版物および碑文等の検閲を管掌するとされた。
併せて、内務省警保局保安課に社会運動取締りの専任職員が新たに置かれることになった。
翌1912(明治45)年10月には大阪府にも特高課が設置された。
(『治安維持法と共謀罪』内田博文 岩波新書 2017年)特高警察が全国に拡げられたのは治安維持法が改正された1928(昭和3)年で、同年7月、すべての県警察部に特高課が設けられ、その機構も大幅に拡張された。
内務省警保局の専任職員も増員され、新たに司法警察権を有する警務官および警務官補が設けられた。
大がかりな一斉検挙等の場合は警務官などが地方に出張して全国各地の特高課を指揮することができるようにされた。
特高課は1932(昭和7)年には外事課を合併して特高部に昇格した。 一般警察官の中でも特高警察官は超エリートであった。
特高警察官の数は大きい警察署で7、8人、小さな警察署で2、3人、警視庁特高部では多い時は600人、大阪府特高部では150人位といわれている。
警察はもとより中央集権的であったが、特高警察はより中央集権的であった。
各地の情報はこの中央集権機構を通して警保局に集められた。 容疑者をスパイし拷問を用いた取調べを行うのが特高警察の任務であった。
取締り対象者の身柄拘束についても行政執行法(明治33年法律第84号)の定める行政検束制度(翌日の日没までと限られた)や、違警罪即決例(明治18年太政官布告第31号)および警察犯処罰令(明治41年内務省令第16号)の定める短期の拘留制度(最高29日まで)等が濫用された。
2、3か月位の不当拘束は普通のように行われた。
1930年代になると被疑者は虱や南京虫の巣窟である留置場での生活を半年も1年も送らなければならなくなった。
その間、風呂にも入れなかった。
このような濫用は帝国議会でも人権蹂躙として大きく取り上げられた。
しかし、そのような人権蹂躙問題は存在しないというのが政府の公式答弁であった。 1932(昭和7)年10月、特高警察のスパイの手で警視庁特高警察に逮捕された日本共産党幹部の岩田義道は4日後、遺体になって夫人に引き取られた。
岩田の死から3か月あまり後の1933(昭和8)年2月、小林多喜二が築地警察署に留置された。
その7時間後には死体になっていた。
小林の遺体は翌日、自宅に運ばれた。
遺体はひどい状況であった。
しかし、遺体解剖は警視庁の手が回っていてどの大学病院でも断られた。
特高警察官は弔問に小林家を訪れる人たちをかたっぱしから検束した。
公の葬儀を催すことを許さなかった。
(『治安維持法と共謀罪』内田博文 岩波新書 2017年)朝ドラ「虎に翼」第6週「女の一念、岩をも通す?」 (28)で、
(桜川凉子)
「お聞きしそびれていたことがあるの。お国のお言葉での あなたのお名前は?」
(崔 香淑)
「私の名前は…。チェ・ヒャンスク。チェ・ヒャンスクと読みます。」
と語り合った後、チェ・チャンスクさんは朝鮮に帰国しました。第7章 戦時体制と朝鮮
創氏改名
(総督府学務局長)塩原時三郎が推進した皇民化政策の中で、最も悪名高いものが創氏改名である。
これは、1939年11月10日、改正朝鮮民事令として公布された。
創氏改名とは、朝鮮の原則慣行である夫婦別姓を否定して家の称号として氏を付け、婿養子や異性養子を認めるとともに、それに付随して名も改められるとした姓名変更のことである。
40年2月11日から届け出なければ、従来の朝鮮姓がそのまま氏とされ、妻の姓も夫の姓に変わった。
届け出た場合を「設定創氏」、届け出ない場合を「法定創氏」といった。
届け出る場合には、皇族の追号や宮号、皇族ゆかりの家門の氏は避けなければならず、また自己以外の朝鮮姓をもって創始することも禁じた。
したがって、設定創氏の場合は日本風の姓となることが必定であった。
いずれにせよ、創氏は義務=強制であった。
改名は「任意」とされたが、日本風にすることが推奨された。
(『植民地朝鮮と日本』趙 景達(チョ キョンダル) 岩波新書 2013年) 創氏改名の意図は、血統至上主義の朝鮮的な家制度を壊して日本的な家制度を移入し、天皇制国家観によって朝鮮人を包摂しようとするところにあった。
すでに始まっていた志願兵制や施行予定の徴兵制によって朝鮮人は皇軍の一員になるが、皇軍は文字通り天皇の赤子である。
日本語を話すのはもちろん、姓名も日本風でなければならない。
そして何よりも、朝鮮人の家制度を天皇制家族国家観に適合させる必要があった。
(朝鮮総督)南次郎は「内鮮結婚」にも熱心で、それまで以上に喧伝(けんでん)し、国民総力朝鮮連盟を通じて表彰も行っている。 だが、創氏改名に自発的に応ずる者は少なく、不評であった。
親日的な有力者の間でさえ反対の意見が圧倒的であった。
それでも、中枢院参議や地方議員を始め、官公吏・学校教員・警察官、その他あらゆる公職者に「率先垂範」を求め、成果を上げようとした。
役所の執拗さに押され、訳も分らずに届け出を行った朝鮮人は多い。
面長や巡査などが勝手に創氏手続きを行った例もある。
学校教員は生徒を通じてその親を説得した。
そして、強要されて「設定創氏」を行ったと訴えることも罪人扱いにした。
せめて朝鮮姓や本貫(氏族発祥の地)などを残すような形で創氏に応じる者が多かった。
やむなく「設定創氏」をした知名人士も少なくない。
親日派にはなったが、なお民族にこだわった往年の大物民族主義者の尹致昊(ユンチホ)は「伊東致昊」と名乗った。
名だけは変えなかったのは、せめてもの抵抗であった。
また、かつて義兵であった全羅北道淳昌(スンチャン)郡の薛鎮永(ソルジニョン)という老人は、「誓不改姓」という遺書を残して自殺した。
だが、当局は葬儀に際して弔問を許さなかった。
そして、遺族に圧力をかけ、「玉川」と創氏させている。 こうして半年が過ぎた。
結局、「設定創氏」をした朝鮮人は80%に上った。
創氏騒動といいほどの嵐のような喧噪びりであったが、20%の朝鮮人は圧力をはねのけたのである。
また、総督府は創氏改名を強要したとはいえ、朝鮮戸籍を廃止して日本戸籍に編入しようとはしなかった。
その必要性を認めながらも、民族の境界を維持することに戸惑いはなかった。
(『植民地朝鮮と日本』趙 景達 岩波新書 2013年)
「面長」について
朝鮮には、県や市町村にあたる道、府・郡、面という単位がありますが、首長である道長官、府尹・郡守、面長は任命制が採られていました。
(「植民地朝鮮における選挙と参政権」 国立公文書館 アジア歴史資料センター)
自民党などが選択制夫婦別姓への根強い抵抗があるのは、朝鮮の人たちに創氏改名を強制した歴史を踏まえるとわかるような気がします。
よく伝統的家族制度とか言われますが、それは明治民法になってからです。
日本の長い歴史では夫婦別姓でした。
一方で、
〝「選択的夫婦別姓」賛成が62% 反対は27%に NHK世論調査〟(NHK 5月1日)
「選択的夫婦別姓制度の早期実現に向けた要望」(経済同友会 2024年3月8日)
一方で、
〝「選択的夫婦別姓」賛成が62% 反対は27%に NHK世論調査〟(NHK 5月1日)
「選択的夫婦別姓制度の早期実現に向けた要望」(経済同友会 2024年3月8日)