青空ですが、飛行機雲かな?薄い雲がのびていました。
熱帯低気圧がもうじき台風になるようです。
「台風情報」(NHK)こんなニュースを見るとホッとします(^-^)
「京都市左京区のホテル ムササビ親子が長期滞在」(京都NHK 5月23日)
〝三本木農業恵拓高校 生徒全員が参加する伝統の「全校田植え」〟(青森NHK 5月23日)朝ドラ「虎に翼」第8週「女冥利に尽きる?」 (40)
辛い展開でしたね。
直後のあさイチプレミアムトーク、
鈴木アナは草彅さんに助けてもらっていました。
第8週「女冥利に尽きる?」 (39)
「こうして寅子の地獄の日々は幕を下ろしました」とナレーションが流れました。
でも、これまでの「地獄の日々」は、寅子(ともこ)の力でふんばってきましたが、
来週からの「地獄の日々」は個人の力ではどうすることも出来ない日々が続きそう…
予告を見ると初回の冒頭の川での描写が登場したと思います。第8週「女冥利に尽きる?」 (39)
「こうして寅子の地獄の日々は幕を下ろしました」とナレーションが流れました。
でも、これまでの「地獄の日々」は、寅子(ともこ)の力でふんばってきましたが、
来週からの「地獄の日々」は個人の力ではどうすることも出来ない日々が続きそう…
来週は、戦後になるみたいです。
「虎に翼」新たな出演者発表 第6弾【NHK朝ドラ公式】
に梅子の姑の大庭 常(おおばつね)が登場するようです。
常役の鷲尾真知子さんのコメントに「常さんが登場する昭和24年」とあったのに反応してしまいました(^_-)
というのは、三淵嘉子さんについての本を読んでいて気になっていた人がいます。[第二章]三淵嘉子――初の、女性の裁判所長
第七節 いよいよ裁判官に
<女性の裁判官>
日本の女性裁判官の第一号は、石渡満子である。
石渡は戦後、司法科試験にパス。
そして24年(1949年)の4月に裁判官になった。
和田嘉子は四カ月遅れて、同じ年の8月に裁判官になる。
彼女が裁判官を志して、2年がたっていた。
東京地方裁判所の民事部に配属された。
…後略…
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千惠美 日本評論社 2023年)
石渡満子さんは、もしかしたら梅子さんのモデルになるのか、
婿養子を迎えたが8年後に離婚されているので凉子さんのモデルになるのか
いずれとも違うかも……
吉田恵里香さんの脚本は、凡人の想像を超えているので?
「石渡満子(いしわたみつこ)」(近代日本人の肖像 国立国会図書館)第8週「女冥利に尽きる?」 (39)で
昭和19(1944)年・春に
「家の地所を軍に引き渡すことになりました。空襲に備えて道路を広げるためです」
と描かれていました。
疎 開
「都市疎開実施要綱」というものが発表されたのは、前項で述べたように昭和18年12月21日のことであった。
やがて年があらたまり、昭和19年になると、1月26日に「新防空法」によるはじめての「疎開」命令が発令され、東京・名古屋の23地区が指定を受け、建物が除去されることになる。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年) この「疎開」ということばは、辞典には3種の解を示すものが多く、戦中用語としての「疎開」は、その三番目に、「空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散させること。疎散」(『広辞苑』)、「空襲などの被害を少なくするために都市の住民や建物などを分散すること」(『新潮国語辞典』)などと解かれている例が多い。
これらの<解>を見て感じるのは、どれも「他動詞」の意味合いを含めての名詞であることで、(住民や建物を)「疎開させる」という用法が主に示されていることだ。
たしかに、「疎開」は、ある目的のために「人口や建造物」「住民や建物など」を<分散>させる意味のことばであるが、また一面、「疎開」は、自ら望んで、または他から強制されて、やむなく<分散>する意味の自動詞としてのことばでもあった。 現在でも、この「他から強制され、やむなく分散する」というニュアンスのことばとしての「疎開」を記憶している日本人が、まだ少なくないと思われる。
その「他」とは何であったか。
国であり、自治体であり、おのれの家族であり、また自分の中の一部分であった。
その「自分の中の一部分」とは、要するに<危機感>である。
このままにしていては危い、家族を「疎開」させ、そしてゆくゆくは自分も「疎開」しなければならぬ。
そのような気分に、日本人の多くが否応なく支配された時期であったのである。
たとえ、地区や建物を対象とする「要綱」や「法」や「命令」であろうと、地区も建物も住民の生活の現場である。
人間だけが安閑としているわけにはいかない。 「疎開」は、大都市から軍需工場を疎開させる<生産疎開>、都市密集地の建物を取りこわして空白地帯をつくり、「延焼」を防ぎ消火活動を容易にする<建物疎開>、老人や子供などを移動させ、人的被害を最小限とどめるとともに、都市交通などの混乱を防ぐ<人口疎開>の三種類にわけられたが、そもそも第二次大戦下のソ連での「工業施設疎開」や、ドイツがハンブルグ爆撃の体験から着手したベルリン市の「人口疎開」に学んで実行しはじめたものであった。 昭和19年3月には、一般都市の<人口疎開>もはじまり、防空活動に従事できない老人や病人の疎開が、また8月からは「学童疎開」もはじまる。
次の年20年に入ると、東京の人口はそれまでの三分の一に減少した。
しかし、<縁故疎開>者は、それほどではなかったにしても、つてを頼っての疎開先で、人間関係に悩む疎開者の例は少なくなかったはずである。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)京都を歩いていると道幅が広いなぁと思う通りがあります。
3 建物疎開がおこなわれた
【堀川御池交差点】中京区堀川御池。市バス「堀川御池」下車すぐ。
堀川御池交差点は京都でも大きい交差点の一つです。
この付近では堀川は暗渠(あんきょ)になっていて道路の下を流れているので、堀川通の道幅は50メートル以上あります。
一方、御池通は、堀川通以西は片側一車線しかないのですが、堀川御池から東は急に道幅がひろがり、堀川通と同じ50メートルの幅になります。
この広大な交差点の空間は、現在京都市内の南北交通と東西交通の重要な結節点になっていますが、1945(昭和20)年正月の時点にさかのぼれば、両方とも5~6メートルの道幅しかない堀川通と御池通の交差点はこぢんまりした空間にすぎなかったのです。
(『戦争のなかの京都』中西宏次 岩波ジュニア新書 2009年) ところがその年の3月ごろから、この付近は大変な騒ぎになりました。
堀川・御池通とも「家屋疎開(かおくそかい)」がおこなわれるというのです。
通告から1週間から10日以内に立ち退き、かわりの家を探さなければならないし、あたふたしているあいだに住み慣れたわが家は砂ぼこりをたてて引き倒されていったのです。
(『戦争のなかの京都』中西宏次 岩波ジュニア新書 2009年)
「防空演習」(NHKアーカイブス 1944年)
「疎開地から東京へ」(NHKアーカイブス 1945年)