これから気温が上がるようですが
朝のうちは涼しい風が吹いていました。ヒョウタンのような形をした赤い実、つやつやして美味しそうですが
「ドクブツ」とか「ヨメコロシ」という別名がある猛毒のヒョウタンボクです。
身の回りには有毒の植物が意外と多いです。
「ギョウジャニンニクとよく似た有毒な植物食べ2人死亡 札幌」(NHK 5月17日)
日曜美術館「極楽浄土をイメージする~紫式部から法然へ~」
発病した日に訪ねていたのが当麻寺でした。
番組で国宝「當麻曼陀羅」が紹介されていました。
先日、定子の鳥戸野陵を訪ねましたが、藤原彰子の墓もいつか訪ねたいと思っています。
あれだけ繁栄を誇っていた藤原道長の墓などは長い間謎だったようです。
「道長はどこに眠るのか~宇治陵に藤原氏の謎をさぐる」(宇治市)
歴史探偵「清少納言と枕草子」で
「春はあけぼの」の描写も定子を表したものではないかと指摘されているそうです。
「紫だちたる雲」の紫雲(しうん)は天皇家とか中宮のことを表わしている。
この紫雲というのは定子を暗示していて
定子が表れてくることで世の中が明るく照らし出されていく
そういう比喩、描写じゃないかというふうに考えられているそうです。むらさきのくも【紫の雲】
①《「紫雲(しうん)」の訓読語》紫色の雲。歌では紫に藤波を雲に見立てることが多く、仏教関係では聖衆(しょうじゅ)来迎の雲をいう。
②皇后の別称。
(『岩波古語辞典(旧版)』大野晋他編 岩波書店 1974年) 第七 賀
陽明門院(やうめいもんゐん)、はじめて后(きさき)たゝせ給(たまひ)けるを聞きて 江侍従(がうのじじゆう)
460 紫(むらさき)の雲(くも)のよそなる身なれども立(た)つと聞(き)くこそうれしかりけれ
めでたい立后のお祝いと直接かかわる身ではありませんが、紫雲が立つように、后に立つと聞くのはうれしいことです。
○陽明門院 三条天皇皇女、禎子(ていし)内親王。長元10年(1037)3月1日立后。
○紫の雲 ここは、立后を知らせる慶雲。
「紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらん」(拾遺・雑春・藤原公任)。
「帝后の出で来給ふべき所には紫の雲の立つなり」(奥義抄)。
○立つ 后の立つ意に雲が立つ意を響かす。
(『後拾遺和歌集』久保田淳、平田喜信校柱 岩波文庫 2019年)以前、清少納言にはあまりいい印象を持っていませんでした。
ところが、島内裕子さんの『枕草子』の訳や解説を読んだり
前回紹介した田辺聖子さんの解説を読んだりしていると中宮定子への思いが伝わってきて好きになりました。
男性の研究者などの本を読むよりも女性の研究者や作家の本を読む方が
清少納言の人となりを理解できるような気がします(^_-) 62 清少納言
夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるとも
よに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ
前の六人が、すべて上東門院の女房であるのに対して、清少納言は中宮定子(ていし)に仕えたので、最後においたのであろう。
時代は清少納言の方が少し前で、年も上であったと思われる。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年) 清原深養父(ふかやぶ)の曾孫(そうそん)であり、元輔(もとすけ)の子であるところから、父祖の名をとって清少納言と呼ばれた。
この歌は、「後拾遺集」からひいてあるが、長い詞書(ことばがき)をともなっている。 大納言行成(ゆきなり)物語などし侍(はべり)けるに、内の御物忌(おんものいみ)にこもればとて、いそぎ帰(かへり)てつとめて、鳥のこゑにもよほされてといひおこせて侍ければ、夜ふかかりける鳥のこゑは函谷関(かんこくくわん)のことにやといひつかはしたりけるを、立ちかへりこれは相坂(あふさか)の関に侍(はべる)とあれば、よみ侍りける。 清少納言は、歌人というより、散文に巧みだったので、物語の形になったのも止(や)むを得まい。
この詞書だけでは、わかりにいくので、「枕草子」からひくことにするが、その前に、藤原行成とは無二の親友で、常に冗談をいい合っていたことを、知っておいた方がいい。 その行成が蔵人頭(くろうどのとう)であった頃、中宮定子の御座所(おましどころ)で、夜が更(ふ)けるまで女房達と雑談をしていた。
明日は宮中の物忌(ものいみ)に籠(こも)るからといって、二時頃に退出したが、翌朝早く文をよこした。
――昨夜はお名残おしかった。
夜を徹して昔話がしたかったのに、「にはとりの声に催されてなん」と、美しくしたためてある。
そこで清少納言は、「いと夜ふかく侍りける鶏の声は、孟嘗君(まうしやうくん)のにや」と、返事した。
孟嘗君が、鶏の声を真似(まね)て、函谷関から脱出した中国の故事にたとえたのである。
すると、また折返し行成から文が来た。
――孟嘗君の鶏は、中国の話だが、「これは逢坂の関なり」と。
で、清少納言は、にせの鶏声でだまそうとしても、そうたやすくは許しませんよと、やり返したのがこの歌である。
「逢坂」に逢うをかけ、「関」が越えがたい男女の仲を意味したことはいうまでもない。
この話が有名になって、喝采(かっさい)されるままにその後も行成と奇智(きち)の火花を散らしたが、そういう所が紫式部には気に入らなかったのであろう。
「清少納言こそしたり顔にいみじう侍ける人、さばかり賢(さか)しだち、真名(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、またいと堪へぬこと多かり」(紫式部日記)と、きびしく批判している。
たしかに「枕草子」には、つまらぬ自慢話や噂話(うわさばなし)がたくさん出て来るが、もし清少納言がそれだけの人間であったなら、「枕草子」という古典が今まで残ったであろうか。
藤原道隆(みちたか)の息女、定子が中宮になったのは、正暦(しょうりゃく)元年(990)のことで、それから五年後に道隆は亡(な)くなり、弟の道長が関白になると、定子の身辺は一夜にして暗黒の巷(ちまた)と化す。たしかに「枕草子」には、つまらぬ自慢話や噂話(うわさばなし)がたくさん出て来るが、もし清少納言がそれだけの人間であったなら、「枕草子」という古典が今まで残ったであろうか。
兄の伊周(これちか)は太宰府(だざいふ)へ左遷され、道長の長女彰子が入内(じゅだい)して、中宮定子は尼になる。
清少納言はそれをつぶさに見ていた筈(はず)だのに、没落して行く一族については、ひと言もふれてはいない。
そういう意味で、「枕草子」は宮廷生活の記録というよりも、一種の回想録と見るべきだろう。
清少納言はそういう形で、華やかであった中宮定子の姿を後世に伝えたかった。
自分の自慢話も、自己顕示欲も、後宮の生活を浮き立たせる役目しかしていず、その中心に立つ定子を、この世のものならぬ美の象徴に昇華させている。
「枕草子」を読み終えて残るものは、中宮定子の美しい容姿と、優しい思いやりだけで、著者の「したり顔」も「賢しだち」たる表情も、すべてその中に吸収されている。 行成は和歌こそ詠まなかったが、当代一の「手書き」で、百人一首のいわば裏方として、所々に姿をのぞかしている。
実方(さねかた)や公任(きんとう)とはちがって、実直な人間だったので、宮廷では重く用いられた。
女房の間では煙たく思われていたらしいが、清少納言とのやりとりを見ても、真面目(まじめ)一方の朴念仁(ぼくねんじん)ではない。
他の女房には見向きもせず、彼女だけに心を許したのは、中宮定子の唯一(ゆいいつ)の友として、その後宮を支えている姿に感じたのではないだろうか。
(『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫 2005年)