2024年5月30日木曜日

サラッとした風

日ざしが強くて暑かったのですが
木陰では風がサラッとしていて涼しかったです。
天気予報をみていると今夜から雨が降り出し
しだいに蒸し蒸ししてくるとか…(^_^;
今朝のニュースで紹介されていたのが
朝ドラ「虎に翼」 寅子の同級生!? 中田正子〟(鳥取NHK 4月17日)
久米愛は、大阪の出身で夕陽丘高等女学校を卒業しているので
NHK大阪局も特集記事を制作したらいいのに…
寅子の先輩、久保田聡子と中山千春の再登場はあるかな?

朝ドラ「虎に翼」第9週「男は度胸、女は愛嬌?」 (44)の冒頭、
ラジオから流れてきたのは復員船で帰国した人の名前。

吉田恵里香さんの投稿に

試験の発表もそうだけど、名前を読み上げるのが「あいうえお順」ではなく「いろはに~順」なのだと知った時驚いた(よくよく考えればそうなんだけど)考証の先生方に感謝です。
5月28日の朝日新聞「天声人語」

 …前略…

▼大きな理由は、情報を公開することで国際社会にアピールし、ガザの悲惨な状況を一刻も早く止めたいからだろう。
ネタニヤフ氏らについては、戦争に「市民の飢餓」を利用したともし、特に懸念を示した。
▼公表後にカーン氏は、民主国家のある指導者から「アフリカやプーチンのような凶悪犯を裁くための裁判所のくせに」と言われたとも明かした。
分断の時代に、国際的な法廷への風当たりは強い。
激しい反発や脅しも絶えないそうだ。
▼「最後のよりどころ」とも称されるICCは、人類の良心に反する重大な犯罪を裁く場所だ。
歩兵も指導者も、国際法の下では平等である。
当然なのに、いかに困難であることか。
  2024・5・28
高い壁で囲まれ、イスラエル兵によって出入りを厳しく監視されているガザ。
ハマスは、どうやって大量の武器などを持ち込むことができたのか疑問でした。

第2章 ガザとハマス

 ハマスを育てたイスラエル


 ハマスを支援してきたイランに注目が集まっている。
しかし実際には、ガザは封鎖されているので、イランの武器がそのまま入ることはない。
ハマスの幹部のコメントを聞いていると、同じくイランが支援しているレバノンのヒズボラという組織の方が、ハマスよりずっと大きな支援を受けていることに不満を抱いていたようだ。
実際には、イランよりハマスを憎んでいるはずのイスラエルの方が、ハマスを育ててきた面があるという考え方もできる。
(『なぜガザは戦場になるのか イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』高橋和夫 ワニブックス 2024年)
 と言うのは、第1章でも触れたが、イスラエル政府はこれまで、ハマスを殲滅しようとはしてこなかった。
むしろハマスを飼ってきた、あるいは育ててきたという面がある。
なぜなら、アラファト率いるPLOが強くなりすぎないように、対抗勢力を育てパレスチナ人同士を争わせることは、イスラエル政府にとって有利となるからだ。
イスラエル側は、パレスチナ国家の樹立を前提とした和平交渉を行いたくない。
占領地から撤退や入植地の撤去についての議論もしたくない。
そのため、イスラエル側にとって、少なくともこれまでは、ハマスが存在することは都合がよかった。
パレスチナの政治勢力が2つに分かれていて、交渉主体がいないために、イスラエルとしては交渉したくてもできない、という言い訳ができるからだ。
 イスラエルのタカ派にとって、ハマスは生かさず殺さずにしておけば良いという立場が続いていた。
特に、2009年から長い間、首相の座についていたネタニヤフは、その匙加減をよく心得ていたはずだ。
 ガザは、何度も言及したように2007年からイスラエルにより封鎖された。
金も物も人も移動が厳しく制限されてきた。
それでも、ガザでハマスは16年にわたって権力を維持してきた。
その理由は、ハマスにある程度のお金が渡っていたからだ。
現在のハマスの政治指導部は、ガザではなくカタールにある。
この点も指摘したきた通りである。
そのカタールからの使者が、荷物に100ドル札を山ほど入れてイスラエル経由でガザに入りハマスに渡してきた。
ハマス支配下のガザの経済がなんとか回ってきたのには、その力もある。
 もちろんイスラエルの検問所を経由するから、ある程度の金と物がガザに流れていることは、イスラエルの首脳が知らないはずがない。
それを黙認してきた。
ネタニヤフは、ある程度のお金がハマスに渡れば、文句を言わずにじっとしているのではないかと考えていたのかもしれない。
ところがハマスは水面下で今回の作戦を計画していた。
そのため、イスラエル国内では、政府のこれまでの対ハマス政策に批判が集まっている。
(『なぜガザは戦場になるのか イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』高橋和夫 ワニブックス 2024年)
Ⅰ 死を想う日

 プリーモ・レーヴィ


 かつて私は、一度だけイスラエルに行ったことがある。
1996年のことだ。
 その年の正月、イタリアのトリノに行き、プリーモ・レーヴィの墓を訪れた。
墓碑には彼がアウシュヴィッツで刺青された囚人番号174517が刻み込まれていた。
 彼は、ナチの強制収容所を生き延びた証人であり、現代イタリアを代表する作家でもある。
「これが人間か」と題するその代表作は、『アウシュヴィッツは終わらない』という題名で日本語に訳されている(竹山博英訳、朝日新聞社)。
(『ディアスポラ紀行―追放された者のまなざし―』徐京植 岩波新書 2005年)
 私自身、三十代初めからプリーモ・レーヴィに心を惹かれ、彼の思索から多くのものを汲み取ってきた。
それだけに、1987年に彼が自宅の階段から身を投げて自殺したことを知ったとき、深い問いの前に立たされたような思いがした。
彼の著作から苦難からの生還と証言の物語を読み取っていた者たち――私もその一人であった――は、彼の自死によって、おのれの浅薄さとアウシュヴィッツという経験の恐ろしい重さとを、あらためて思い知らされたのである。(拙著『プリーモ・レーヴィへの旅』朝日新聞社、参照)
 レーヴィはアウシュヴィッツからの解放後、家族の住む生まれ故郷トリノに生還することができた。
しかし、東欧や中欧出身のユダヤ人の場合、そうはいかなかった。
故郷のユダヤ人共同体が徹底的に破壊されてしまったからだ。
レーヴィの囚人仲間数人も、イスラエルに居所を見出していた。
そうした経験から、レーヴィは「ユダヤ民族の避難所」としてイスラエル国家が存在する必要性を支持していた。
 しかし1982年6月、イスラエル軍がPLOの拠点を叩くという名目でレバノンに侵攻した時、レーヴィはこれに反対する声明を発表し、「ユダヤ文化のインターナショナリズム的側面」に代わって、「攻撃的意味でのナショナリズム」が強まっていることを憂慮すると述べている。
その2年後に行われたインタビューで、レーヴィは、自分たちディアスポラのユダヤ人は、イスラエルで強まっている攻撃的ナショナリズムに「抵抗する責任」がある、ディアスポラが育んできた「寛容思想の系統」守るべきだと主張した。
彼はさらに、「ユダヤの文化の最も優れた部分は離散状態にあること、多中心的であることと関係している」とも述べている。
 だが、レーヴィはこのインタビューの時点においても、少なくとも言葉の上では、イスラエルの将来について悲観的ではなかった。
サブラ、シャティーラ難民キャンプでの虐殺事件の責任を問われて一時は国防相を辞任したシャロンがすぐに返り咲いたこと、宗教指導者メイヤー・カーンが影響力を強めていることについて意見を求められると、「イスラエルがカーンの狂信的道を歩むとは思えません」と、つとめて楽観的に答えている(『プリーモ・レヴィは語る』多木陽介訳、青土社)。

 …後略…

(『ディアスポラ紀行―追放された者のまなざし―』徐京植 岩波新書 2005年)
 今朝の父の一枚です(^^)/
母が、戦時中、アメリカ軍から逃げているときに町の人は、
ソテツの毒抜きを知らなかったので中毒になった人がいたと話していた。

Ⅴ 異域・異国の食
 2 琉球の食生活
  救荒食と嗜好品


 琉球王国は地理的条件から台風や旱魃の被害を受けやすく、しばしば飢饉に悩まされた。
また多くの離島からなるため、飢饉時には海に閉ざされて食糧難に拍車がかかった。
康熙48(宝永6・1709)年の飢饉では、三千人余、乾隆37(安永元・1772)年および道光5(文政8・1825)年・同12(天保3・1832)年の場合でも、ほぼ同規模の餓死者と病死者を出している。
 近世初頭に移入した甘藷(かんしょ)は、琉球では救荒食物というよりも、むしろ穀物を補うものとして庶民の間で常食されるにいたった。
そうしたなかで琉球王府が、救荒食として栽培を奨励したのが蘇鉄(そてつ)であった。

 …つづく…
(『江戸の食生活』原田信男 岩波現代文庫 2009年)