2024年5月16日木曜日

黒い雲に風

朝起きた時は青空が広がっていたけど
公園に向かう途中で急に黒い雲が広がり大粒の雨
車を出ると車のドアが風で動くほどでした。
歩いている間は、傘をさすほどの雨は降らなかったのだけど
天気予報で雷と強風の注意報が出ていたので早めに帰りました。

西・東日本 大気非常に不安定 落雷や突風などに十分注意を」(NHK)
朝ドラ「虎に翼」のタイトルが第7週「女の心は猫の目?」

 女の心は猫の目

 女心は変りやすくて気まぐれだというたとえ。
注釈】女性の心は、猫の目が光って大きくなったり、小さくなったりめまぐるしく変化するように変わりやすい意から。
類句】女心と秋の空
(『用例でわかる故事ことわざ辞典』学研辞典編集部 2005年)

」がついているので【類句】を調べると
 女心と秋の空

 男に対する女の愛情は、秋の空のように変りやすいというたとえ。
 男の側から女心の変りやすさを秋空になぞらえた語句だが、古くは「男心と秋の空」と、「女心」ではなく「男心」が主だった。
古い用例を見てみると、「夫」「男」、「川の瀬」「秋の空」が組み換えて用いられていた。
「夫の心と川の瀬は一夜に変はる」(御伽草子『あきみち』、幸若舞『伏見常槃(ときわ)』)、「男の心と秋の空は一夜に七度変る」(狂言『墨塗』)、「男の心と河の瀬は一夜にかはる」(『毛吹草』江戸前期)などで、江戸時代には「夫」形はなくなり、「男と川の瀬」形と「男と秋の空」形が主となる。
ところで「女心」を「男心」の誤用とする辞典もあるが、「女心」はすでに『尾張俗諺』(1749年)に筆録されている。
明治時代の辞典にも収載されており、古くからあったものである。
数の上では「男心」形が圧倒的に優位だったので、もともとは妻(女)から夫(男)への非難だったと思われる。
男側からの言葉に変化したのは、男女の力関係の変化によるのであろうか。
(『岩波ことわざ辞典』時田昌瑞 岩波書店 2000年)
落合教授のモデルかも知れない河合栄治郎の裁判をもう少しみたいと思います。
と言うのも、現在も国家によって大学の自治が脅かされています。

国立大学法人法改正案 廃案求め4万人余の署名提出「自治侵害」〟(NHK 2023年12月1日)

第4章 戦時体制下の闘争
 4 裁判闘争
  二人の弁護人


 休職直後の1939年2月28日、東京刑事地方裁判所検事局が河合の発禁四著を出版法第27条の「安寧秩序ヲ紊ルモノ」に該当するとして、執筆者の河合と発行人の鈴木利貞日本評論社社長を起訴した。
当初、河合は弁護士に依頼することなく、たった一人で巨大な敵に立ち向かおうとしていた。
大河内一男や安井琢磨という信頼する二人の弟子に裏切られたショックははかりしれぬほど大きく、多少自暴自棄になっていたのかもしれない。
しかし、大河内や安井のように去る者がいる一方、自己の信念を貫いた河合の行動を評価し支援しようとする人々が河合のもとに結集した。
河合と進退をともにした山田文雄や木村健康をはじめとする門下、そして、南原繁、高木八尺、蠟山政道らの友人が裁判準備のために奔走したのである。
こうした周囲の好意に感動した河合は、それを喜んで受け容れ、生涯における最大の闘いといえる裁判闘争に立ち向かっていったのである。
(『河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実』松井慎一郎 中公新書 2013年)
 弁護人には、三・一五事件や人民戦線事件を担当し、人権擁護の弁護士として知られる海野晋吉(うんのしんきち)が選ばれた。
海野は、河合とはまったく面識がなかったが、周囲の河合を思う姿に感動、「裁判所にご案内するという程度の弁護人」として引き受けた。
海野は、裁判をともに戦うなかで河合の学殖と人物に敬服、「五十にして結ばれた心の友」として深く結びつき、利害を越えた献身的な弁護を行った。
海野は河合の死後も、社会思想研究会の顧問、社会思想社の監査役として河合思想の普及に尽力した。
 そして、海野を補佐する特別弁護人には、門下として河合思想を知り尽くしている木村健康が選ばれた。
平賀粛学のさい、平賀総長の再三の慰留工作に対して「飢えても此の信念は曲げたくない」と言って応じなかった木村の態度は、師の河合をして「立派であった」「之で吾々の同志は救われた」とさえ言わしめた。
大河内・安井といった飛車・角クラスの脱落という最悪の状況のなかで、河合門下が一つとなって河合擁護の狼煙(のろし)をあげることができたのは、木村の師への純粋な思いに触発されたからである。
「あれ程日本を愛し、あれ程肝胆を砕いてゐられる先生を、社会が遇する途がこれなのかと思ふと腸(はらわた)が沸く思ひです」と、恩師の起訴処分に激しく憤った木村は、勉強盛りの三十代前半にあって、自分の研究生活を犠牲にして恩師の弁護に全力を注いだ。
この裁判を「我が国に於ける純思想問題の嚆矢(こうし)」と捉えた木村は、厖大な分量の『弁論要旨』を作成して河合思想の説明をするなど献身的な行動で師を擁護した。
それは、第一審の裁判長であった石坂修一をして、「木村は立派な人物だ」と言わしめるほどのものであった。
そういう意味では、この裁判闘争は河合一個人の戦いではなく、河合・木村師弟の戦いであり、河合の教育者としての真価をも問われる戦いであったといえる。
  南原繁の尽力

 また、二人の弁護人に劣らぬほど河合の裁判闘争に大きく尽力したのが、東京帝大法学部教授の南原繁であった。
河合と南原は、思想的には新渡戸稲造・内村鑑三、学問的には小野塚喜平次の影響を受けた同門であるが、それまで個人的な交流はほとんどなかった。
南原と河合が接近するようになったのは、矢内原事件や人民戦線事件で大学の自治が脅威にさらされるようになってからであり、平賀粛学で河合が休職処分になると、南原は法学部教授会で声を荒げて平賀粛学を批判、また、平賀総長に対して責任をとって辞職するように迫った。
 南原は、大学を「他の組織・機関とは異なり、時の政府または世論とは独立に学問の研究がなされ」る「学者の自由な共同体」として考えており、思想・学問の問題として発生した河合の休職問題を、学部派閥抗争の責任という別次元の問題にすり替えた処理の仕方に納得できなかった。
それを大学の学問の自由を侵害する問題として経済学部教授会の審議に委(ゆだ)ねることこそが大学自治を守る唯一の方法であると考えていたのである。
 このように大学の自治という観点から河合事件を捉えていた南原は、河合の裁判の成り行きについても大きな関心を抱いた。
舞台は大学から法廷に移ったとはいえ、河合に対する圧迫は大学自治の侵害であり、河合を勝利させることが大学自治を守ることに繋がると考えたのであろう。
南原は、弁護士や河合門下とともに法廷対策を考えるなど協力を惜しまず、第一審の公判では、非公開にもかかわらず手続きを取って傍聴し、その後、既知の間柄であった石坂裁判長との面会まで行った。
石坂との面会は、裁判の話題にはまったく触れず昔話に始終したが、「以心伝心」の効果をもたらし、この種の裁判としてきわめて異例の無罪判決に繋がったのである。
 そして、この裁判を通じて南原と海野が懇意となったことが、1940年3月に津田左右吉と岩波茂雄が出版法違反として起訴された事件(津田左右吉事件)の控訴審で海野が弁護を引き受けることに繋がった。
強引に津田を法学部の講師に招き事件の原因を作った責任感から南原は海野に弁護を依頼したのである。
また、津田の裁判には、河合もかつて『学生叢書』の原稿を依頼したという縁もあり、少なからず助力した。
裁判の被告人として先輩格の河合は、進んで津田と岩波に面会して、法定における自らの経験や弁護団の組織などについて語り、学問擁護のためい津田の健闘を切願、懇(ねんご)ろに激励した。
(『河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実』松井慎一郎 中公新書 2013年)

南原繁は、以前紹介したように笠置シヅ子の後援会会長をつとめました。
今朝の父の一枚です(^^)/
キミガヨランを写していました。

 母と私
  「見る目・聴く耳」

 母は、私がまだ三歳くらいのときに、私を負ぶって冬の暗い暁を、讃岐相生の家から三―四里もある遠い所に出かけたことがある。
それは家庭上のことについて、母にとって身を切るような最も辛い事件のあったときで、母はしばしばこの道を往復し、今日は自分でその結末をつけるために出向いたのであった。
道の半ばに来て、湊川に近い白鳥村の広い沃野を貫く国道を行くのである。
冬の夜はまだ明け離れず、幾日かの後(のち)の月は憐れな親子を見送るように照っていた。
背の上の私は「お母さん! お月さんがいっしょに歩いている」と言ったそうである。
母は「そうとも、お月さんも私たちを守っていてくれます。天には『見る目・聴く耳』というのがあって、私どもの為すこと言うことは、誰ひとり知るまいと思うても、ちゃんと知っていて下さる」と言って、まだ西も東もわからぬ幼な児に語るともなく、自らを励まし、行く先において、さしも困難な問題を、その日自ら立派に解決して帰ったとのことである。
 この話は、私が余程大きくなってからしばしば聞かされたことであるが、妙に私は、負ぶさっていた自分があたかも、この問答をそのとき理解し、その光景を自分で記憶していたかのごとき錯覚を今日まで持つことがある。
それほどこの話は少年時代の私をいたく感動せしめたものと見える。
超越的な世界にひとりの絶対者実在するということ、そして彼がわれわれ個々人並びに人類の運命に無関心ではなく、その一つ一つに対して指導と助けを与えつつあるということ、それ故にわれわれはいかなる場合においても常に正直と真実であらねばならぬこと、それは爾来一生の教訓として私の生涯を支配するに至ったところの根本確信である。
天に「見る目・聴く耳」のあるということ、いまに一種の敬虔の心をもって想い起さずにはいられない。
(『人間の記録70 南原繁 ふるさと』日本図書センター 1998年)