今朝も青空が広がりヒンヤリしていたのですが
日ざしが強くしだいに気温が上がっていきました。
ゴマダラチョウが花ではなく地面にストロー(口吻)を伸ばしていました。
チョウの吸水行動についてはまだ解明されていないようですが
体温調節や栄養補給などの説があるようです。
これから暑くなると水分補給が大切になりますね。昨日の写真です。
黒く尾の長い鳥がせわしなく飛び回っていると思って写したのですが
ピントなどを合わせる間もなく飛んでゆきました。
サンコウチョウのようです…朝ドラ「虎に翼」第5週「朝雨は女の腕まくり?」 (25)
全員無罪になりましたね!
主文の中に
「あたかも 水中に月影をすくい上げようとするかのごとし。」
あたかも憲法記念日を意識して番組を制作したみたいです。
この事件のにモデルになっている「帝人事件」(1934年)ののち軍部や右翼が発言力を強めます。
第5週「朝雨は女の腕まくり?」 (23)で新聞記者の竹中次郎がいった
「この国は どんどん傾いていくぜ。」
「天皇機関説問題」(1935年)、「二・二六事件(「兵に告ぐ」)」(1936年)など戦争の泥沼に突き進んでいきます。
「戦争と国民生活~日中戦争・太平洋戦争~」(10min.ボックス)
現在も……
「朝日新聞阪神支局襲撃事件 記者死亡」(NHKアーカイブス 1987年)
「朝日新聞阪神支局襲撃事件から37年 亡くなった記者を悼む」(関西NHK)弁護人を務めた穂高重親のモデル穂積重遠(ほづみしげとう)は、
四― 婦人参政権の実現と戦後
婦選運動と男のシンパ
4月<昭和24年>中旬の或日、偶然に、穂積重遠博士に御めにかかった。
「やあ、しばらく、どうしていられますか、あなた等は真先に表彰されてよい筈だのに……」
とそれとなく追放の御悔みをいただいたのであった。
それから冗談のように、
「僕も表彰される資格がありますね……」
との事。
「勿論、先生の場合は御座いますよ、随分色々御世話になりました」
と申上げたのであった。
十年程御無沙汰していたが、その間に先生も大分お齢を召したが仲々お元気で、忙しそうであった。
(『市川房枝随想集2 野中の一本杉』新宿書房 昭和56年) 表彰といえば実はこの数日前の4月10日の婦人の日大会で、堺ため、平塚らいてう両氏と共に私も婦人の政治的解放運動に貢献したというので表彰されたということを聞いていたので、そうしてそれは私としては少々面はゆい感じを持っていた時なので、わざと「先生の場合は」に力を入れて申上げたのであった。
尤も先生はこれを御存知なく、従って私の返事の意味もおわかりいただけなかった事と思う。
私達の場合は私達自身の解放の問題として取上げたのであり、それに私達の実力で婦選を闘いとったのではなかったのであるから、私達否私個人が婦人団体から表彰される事は少々くすぐったい感じがあるのである。
然し穂積先生の如く男性として、婦人解放を主張しその運動を支持して下すった方達に対してこそ、私共全女性として感謝すべきだと思うのである。 婦人運動は日本の婦道に背き、家族制度をはかいするものだとして批難攻撃は勿論、時には暴力迄加えられるといった過去の日本に於て、男性がこれを支持し援助するという事は、余程の信念と勇気がなければ出来ない事であった。
然もこうした男性に与えられるものは真面目な攻撃ではなくて、やれ鼻の下が長いとか、眼尻が下っているとかいったやゆと嘲笑であっただけに、男性としては堪えられない事であったろうと思われるのである。
この事が実は英米の婦人運動に比較して、日本に於ては男性の所謂(いわゆる)シンパが少なかった事、又そのシンパの活動が弱く消極的で長続きがしなかった事の原因をなしていたと思うのである。
従って私共は、運動の過程に於て男性の方達からたとえ少しばかりの一時的な御援助に対しても感謝しなければならないと思っている訳である。
いわんや終始一貫長い間御援助下すった方々に対しては、それこそ全女性の名に於て表彰すべきだと思うのである。
…後略…
――昭和24年(1949)・『自由公論』7月号
(『市川房枝随想集2 野中の一本杉』新宿書房 昭和56年)朝ドラ「虎に翼」第1週「女賢しくて牛売り損なう?」 (1)
ドラマの冒頭、日本国憲法第14条の朗読から始まりました。
日本国憲法の「男女平等」の条項に携わったのは当時22歳のベアテ・シロタ・ゴードンさん
戦後史証言プロジェクト:
日本人は何をめざしてきたのか:2015年度「未来への選択」
第2回 男女共同参画社会~女たちは平等をめざす~(2015年07月11日 放送)
チャプター「[3]日本国憲法にうたわれた男女平等」をクリックしてください。 ジョン・ダワーから
ベアテ・シロタ・ゴードンを偲ぶ会へ送られたメッセージ
私はベアテ・シロタ・ゴードンとは面識がなく、歴史学者として彼女を知るのみです。
しかし彼女は、歴史に大きく貢献したその短い時期に、稀にみる瑞々しさで輝いて見えるので、私は彼女に格別な親しみを感じています。
もちろん私は、1946年に草稿が書かれた日本国憲法の、14条と24条に男女同権をうたった彼女の役割のことを、語っているのです。
(『1945年のクリスマス』ベアテ・シロタ・ゴードン 著 、平岡 磨紀子 構成・文 朝日文庫) 当時のベアテ・シロタなしでは、これらの人権の平等を保障する条項は誕生しなかったでしょう。
長い年月がたった今でも、その光景を想像すると息をのむような気がします。
それは、壊滅状態にあった国土の新しい憲法草稿を、全力をあげて準備していた男性ばかりの部屋のなかに、ただ一人、エネルギッシュな22歳の女性がいた、というだけではありません。 焦土と化した東京で、ベアテ・シロタが世界中の憲法について参考になる本を集めようと、焼け残った図書館を探しジープを走らせているところから、この話は始まります。
そのあと、アメリカ憲法にも書かれていない男女同権を、日本の憲法が保障することをどう正当化するのか、と上司たちが彼女に問いただすという緊張感に満ちたドラマとなります。
そして英語の草稿を日本語にしていくというデリケートな作業の最初の段階において、ベアテ・シロタが二つの言語に堪能な、その稀にみる語学力を駆使して日米両サイドの交渉を助ける、という決定的なシーンにつながっていきます。 しかし、そのシーン以前にも同じように強く、私の心に響くことがあります。
まずなぜこの若い女性は、憲法で男女同権を認めることが、日本にとって大きな進歩になると信じていたのでしょうか?
さらにもっと興味深いことに、なぜ彼女はこの条項が日本の人々に支持される、と確信していたのでしょうか?
その答えの鍵は、6歳だった1929年から1939年まで、東京で人々の暮らしを身近に観察した彼女の非凡な知性と思いやりにあるのです。 幼い彼女はもちろん、男性優位、そして軍国主義の高まりと人権の抑圧を、実際に目撃していました。
しかし彼女は、家族がもてなすリベラルな日本人の客や、両親が雇っているお手伝いさんたちに触れることで、全く違う日本も知っていました。
こうして日本で育った年月が、ベアテ・シロタを日本の女性の権利の熱心な提唱者にしたのです。
しかしこれはまだ、答えの半分にすぎません。
彼女は日本の女性の能力と志に敬意をもっていただけでなく、真の民主主義が日本にもたらすであろう幅広い成果について、大きな期待をもっていました。 あの過酷な戦争のあとで、ベアテが現実を見据える力と偏見のない理想主義を併せ持っていたことは、稀有(けう)で貴重なことでした。
それは現代にとっても同じように大切なことなのです。
何年もたって彼女の憲法への貢献が知られてからは、ベアテ・シロタ・ゴードンは自分の考えをしっかり述べる機会を、決して逃しませんでした。
日本の女性のなかで彼女を敬愛する人が今も多いのは、彼女の考えが長い間大事にされてきたことの感動的な証(あかし)です。
2013年2月
John W.Dower (日本語訳・尾竹永子)
(『1945年のクリスマス』ベアテ・シロタ・ゴードン 著 、平岡 磨紀子 構成・文 朝日文庫)今朝の父の一枚です(^^)/
まず日本国憲法をわが家の茶の間の棚に置くべきではないでしょうか。
=小山内美江子 茶の間に憲法を
これは、憲法学者宮沢俊義・児童文学者国分一太郎共著「わたくしたちの憲法」の帯に書かれた文章である。
この本は子どもにも誰にもわかりやすいように、多彩な方法で憲法の精神と内容を説いている。
憲法が茶の間で折々に読まれるなら、これほどすばらしい人間教育はないと思われる。
君が代を強制せずとも、子ども達は、この憲法を持つ国を愛するであろう。
5月3日
(『おんなの言葉365日』相星雅子 高城書房出版 1991年)