2024年5月5日日曜日

こどもの日(母に感謝する日)

今朝も青空が広がり気温がぐんぐん上がってきました。
空を見上げると飛行機雲が消えずに延びていたので
これから天気は崩れるみたいです
 自然探検観察園には、なにわの伝統野菜が植えられているのですが
野菜ではないなぁと前から気になっていました
スタッフの方がいたのでお聞きすると
イチゴのように赤く、ロウソクのように見えるのでストロベリーキャンドルというそうです。
刈り取って、レンゲのように緑肥にするそうです。

深紅の花、目にも田にも肥し 福井、すき込み前園児駆ける」(中日新聞 2022年5月7日)
今日は「こどもの日」。
国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)」に

「こどもの日 5月5日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」
5月5日が母の誕生日。
今日が「母の日」(^_^)v
Ⅰ 幼年、そして性格
 両親


 …前略…

 私は危うく有名なウィーンのカフェー、〝ジラー〟でこの世の日の目を見るところであった。
そこで母の陣痛が始まったのである。
1905年3月26日の春らしい日曜の午後のことであった。
私の誕生日はベートーヴェンの命日と同じで、ある同級生はこう悪口をたたいたものである――「悪いことは重なるものだ」。
(『フランクル回想録 20世紀を生きて』V・E・フランクル 山田邦男訳 春秋社 2011年)
 母は心優しい、信心深い女性であった。
だから、子供のころ、なぜ私がみんなにも言われるほどの「ワル」だったのか、自分でも腑に落ちない。
幼いころは、母が「それは、それは昔のこと」という子守歌を歌ってくれないと眠りにつけなかった。
歌詞はどうでもよかったのだが――後に母は、「さあ、だから静かにして、悪い子ね。それは、それは昔のこと、それは、それは昔のこと」と、いつもいつも歌って聞かせたものだ、と話してくれた――メロディだけは同じでないと承知しなかった。
 病院勤めで住み込んでいたころ、実家への思慕があまりに強く、何週間、何ヵ月、いや、何年もホームシックに悩まされた。
最初のころは週に一度は帰るほどだった。
しかし、そのうち月に一度となり、そしてしまいには自分の誕生日にだけ家に帰るようになった。
 テレージエンシュタットで父が亡くなり、母と二人になってからは、いつどこで母と会っても、別れ際にキスをすることにしていた。
そうすれば、何かで二人が別々に暮らさねばならなくなっても、気持ちよく別れたという思いを残すことができるからである。
 そしていよいよ本当にその別離の時が来た。
私と最初の妻ティリーがアウシュヴィッツに移送されることになり、母に別れを告げたその最後に瞬間に、「どうか僕に祝福の言葉を」と母に懇願した。
そして、私は決して忘れない、まさに心の底からの、熱烈としか言いようのない叫び声で「いいとも、いいとも、祝福してあげるよ」と言って、私に祝福の言葉を与えてくれたことを。
それは、母自身も同じくアウシュヴィッツに移送され、そこでただちにガス室に送り込まれる1週間ほど前のことであった。
 アウシュヴィッツでは、私はしきりに母のことを考えていた。
そしてその度に、再び母に会えたなら、文字通り彼女の前にひざまずき、洋服の裾にキスをするのが唯一自分にはふさわしいであろう、という思いがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。

 …後略…
(『フランクル回想録 20世紀を生きて』V・E・フランクル 山田邦男訳 春秋社 2011年)
 Ⅰ 焦土の日本に帰る

 …前略…

 父であることがわかるのに、わずかな時間のずれがあった。
174センチの父は、見覚えのある古い黒いカシミアのコートを着ていたが、頬がそげ落ち、顔全体が繊維の多い野菜のように細く黒ずんでいた。
「ベアテ!」
 声だけは、昔のままだった。
父は私をしっかり抱きしめ、頬にキスをしてくれた。
「ママは?」
「病気でね。でも心配することはないんだ。栄養失調で起き上がれなくてね。大丈夫、お前の顔を見たらすぐ良くなるよ」
 微笑すると、父の顔はさらに皺が深くなって、60歳の実際の年齢より、ずっと老人に見えた。
しかしその眼は、やさしい光をおびて柔和だった。
(『1945年のクリスマス』ベアテ・シロタ・ゴードン 著 、平岡 磨紀子 構成・文 朝日文庫)
 私たちは、手を握りあったまま話をした。
話さないといけないことがあまりにも多すぎた。
お互いに、戦争中の苦労話もあったが、父はヨーロッパにいる自分の姉弟の安否を気づかっていた。
実は、私たちシロタ家は、ロシア系のユダヤ人なのだ。
その運命を気づかうのは私たちの民族の、戦後の挨拶であった。
 父は、フランスやオーストリア、スイスにいる親戚の情報を全くつかんでいなかった。
私は、自分の知っていることを、立て続けに報告することになった。
父は5人姉弟、母の異母兄弟に至っては、16人もいたから、私の報告は大変だった。
 父の弟で、モーリス・シュヴァリエのマネージャーをしていた叔父は、フランスのヴィシーに住んでいたが、突然ナチスの警察に踏み込まれて、アウシュヴィッツ送りになったこと、とっさの機転で裏口から逃げた従姉のティナは助かったこと、父の甥のイゴールは、ノルマンディ作戦で戦死したこと、母の身内でスイスにいた者は無事だったが、オーストリアに住んでいた親戚は、みんなナチの強制収容所送りになったことを話した。
収容所という言葉が出るたびに、父の皺は深くなった。
父と私は、ヒトラーのユダヤ人迫害を、身内の死によって実感し、確認することになった。
…後略…
(『1945年のクリスマス』ベアテ・シロタ・ゴードン 著 、平岡 磨紀子 構成・文 朝日文庫)

パレスチナでは、イスラエル軍の迫害を受け、母と子どもなど多くの非戦闘員が殺されています。
今朝の父の一枚です(^^)/
めったに会えないのに前の枝で顔が隠れたのを悔しがっていました。

 大田南畝(おおたなんぽ)と端午(たんご)の粽(ちまき)
  ―所かわれば菓子かわる

 …前略…

 また、南畝は長崎の物産や風習も取上げています。
菓子で目を引くのは端午の節句の粽でしょう。
「此地にて唐製の粽を贈るものあり。米を布にて包みてむし(蒸)、唐アクを加へし也と云。色は黄なり。丸き形を小口ぎりにしたるもの也」として、「二寸余」(約6cm)と書かれた円形と、「竹乃皮ニテ三角ニツゝムモアリ」と注記された三角形の絵図を添えています。
「唐製」とは中国風の意。
これは現在も長崎で端午の節句に用意される唐あく粽(長崎粽)のことでしょう。
(さら)し布で作った袋に唐あく(*に浸したもち米を詰めて数時間茹(ゆ)でたもので、切り分けてきな粉や砂糖を付けて食べます。
 江戸では端午に柏餅を用意する家がほとんどだったため、所かわれば菓子もかわる、と思い書きとめたのでしょう。
しかし、南畝はこの頃、任期の折り返しを過ぎ、江戸へ帰りたいという気持ちが強まっていました。
珍しい粽を食べつつも、我が家を恋しく思い出していたのかもしれません。

*)生地に独特の弾力や風味をもたらすといわれ、ちゃんぽん麺やワンタン生地などのつなぎにも使われる。
(『和菓子を愛した人たち』虎屋文庫 山川出版社 2017年)