冷たい風が吹いていてウィンドブレーカーを着て歩きました。
天気予報でも20度を切ると上着が必要だと言っていました。
これから大気が不安定で急な雷雨もあるみたいです。朝ドラ「虎に翼」第6週「女の一念、岩をも通す?」 (27)冒頭で
穂高教授の祝辞
長年にわたって染みついたものを変えるというのは容易ではない。
当たり前だと思っていた法律が習慣、価値観が間違っていると分かっていても受け入れられない変えられないのが人間だ。
それでも、それを我々は引き剥がし、溶かし少しずつでも新しく上塗りしていくしかない。
君らが背負うものは重いかもしれない。
だが、君らはその重みに耐えうる若者だと
世の中を変える若人(わこうど)だと、私は知っている。
卒業おめでとう。吉田恵里香さんの投稿(5月6日)
考証の崔先生が、香淑の「留学生」という呼び方について説明してくださっています。
疑問に思われている方はこちらのツリーを是非ご覧ください。
崔誠姫さんの投稿(5月6日)
疑問に思うことは、調べることが大事だと思います。
私も崔誠姫さんの投稿で当時のことを知ることができました。
留学には、外国で学ぶだけでなく
現職のまま所属以外の大学や研究機関で研究する「内地留学」という制度もあります。朝ドラ「虎に翼」第6週「女の一念、岩をも通す?」 (28)
(桜川凉子)
「お聞きしそびれていたことがあるの。お国のお言葉での あなたのお名前は?」
(崔 香淑)
「私の名前は…。チェ・ヒャンスク。チェ・ヒャンスクと読みます。」
この短い会話の中に当時の理不尽な時代背景がいっぱい込められています。「ネタニヤフ首相 ラファでの限定的な作戦 継続の構えを強調」(NHK)
ハマスの攻撃があった2023年10月7日。
世界有数だと言われるイスラエルの情報機関がハマスの攻撃を察知できなかったのがおかしいなと思った(いろいろ分析されていましたが)。
イスラエル軍の攻撃を見ていると
ハマスだけでなくパレスチナの人々をガザ地区から一掃するまで終わらないと思う。
それまでどれだけの子どもや女性たちが虐殺されるのだろう。
「世界 2024年6月号」が、発売されていますが5月号より一部転記します。ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である
早尾貴紀(東京経済大学)
1 西欧文明 vs.アラブの野蛮
<10・7>のガザ蜂起を契機としたイスラエルによるガザ大侵攻の過程で、2023年10月にイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が、12月にはイツハク・ヘルォーグ大統領が、相次いで「このガザ攻撃は西欧文明を守る戦争である」という趣旨の発言を行った。
この発言には多くのことが集約されている。
これは欧米諸国に対して支持と援助の継続を求めるアピールであるとともに、イスラエル国家の支配者層が自らが「西欧」の一員だと認識しつつ、それが「文明」の側であり、アラブも含むアジア・アフリカの「野蛮」と正戦/聖戦をしているのだと訴えているのだ。
この文明対野蛮という認識・言説は、周知のように、大航海時代からのヨーロッパによる植民地主義のイデオロギーに基づくものだが、それが21世紀になってもなお生き残っており、臆面もなくイスラエルの首相や大統領といった国家のトップの口から欧米諸国に向けて発せられている。
(『世界 2024年5月号』岩波書店)
この白人至上主義・ヨーロッパ中心主義は、自らを「進んだ文明」と位置づけることで優越性を訴え、外部を「遅れた野蛮」とみなし、その支配を正当化した。
ヨーロッパ人を「優等人種」、非ヨーロッパ人を「劣等人種」とすることで、土地や資源を収奪すことはもちろん、虐殺することさえも躊躇(ちゅうちょ)せず、先住民を絶滅させるほどの大虐殺まで行った。
そのようにしてヨーロッパ人が支配者として植民地に入植し、入植者社会を形成していくことを、セトラー・コロニアリズム、入植型植民地主義ないし入植者植民地主義と呼ぶ。
…後略… …前略…
おわりに
したがって、2023年10月7日以降に展開されている常軌を逸したイスラエル軍のガザ地区攻撃は、実は一貫したイスラエルによるガザ地区抹消の欲望の表れであり、何ら驚くべきことではない。
攻撃開始からわずか1週間後の10月13日付でガザ地区の全住民をエジプトのシナイ半島へ「避難」させる検討文書の要旨がイスラエル国防省内で共有されたのも、やはり新しい事態ではないのだ。
そしてこのガザ地区抹消は、イスラエルにとっては、パレスチナ全土の乗っ取り、つまり100年プロジェクトのセトラー・コロニアリズム完遂に向けた一歩に過ぎない。
ガザ地区の抹消は、西岸地区の細分化・無力化への推進力となる。
最終的には西岸地区の抹消まで視野に入っている。 セトラー・コロニアリズムとしてのシオニズムは、ヨーロッパ発の人種主義と植民地主義の結合体であった。
それゆえにパレスチナ人に対する大虐殺にも躊躇することはなく、そしてそのイスラエル軍の残虐行為に対して欧米が頑(かたく)なに支持しつづけるのも、まさにセトラー・コロニアリズムだからこそである。
シオニズムと欧米との共犯を思想史的に批判し続けてきた在米イラン人のハミッド・ダバシに倣(なら)って言えば、このイスラエルによるガザ地区攻撃と、同時に進行する西岸地区への占領強化と、そしてそれに対する欧米支持に、「欧米の人種主義と植民地主義の歴史全体が含まれている」のだ。
(『世界 2024年5月号』岩波書店)
〝共同責任〟について
〝共同責任(☆)〟ということを言う人は、その人自身誤りを犯しているのである。
私は、事あるごとに、共同責任に反対の立場をとってきた。
強制収容所のことを書いた私の本――その英語訳は合衆国だけでも九百万部以上読まれている――の中で、私は次のような話を紹介した。
(『フランクル回想録 20世紀を生きて』V・E・フランクル 山田邦男訳 春秋社 2011年)
「私が解放されるまでいた最後の収容所の所長は、ナチス親衛隊員だった。しかし収容所からの解放後、それまで収容所の医師(彼自身も囚人だった)しか知らなかった事実が明らかになった。すなわち、所長は自分の財布からかなりの金額を出して、近くの市場町の薬局で囚人のための薬を買いに行かせていたのだった。 この話には、後日談がある。解放された後、ユダヤの囚人たちがこのナチス親衛隊員をアメリカ軍から匿(かくま)い、その指揮官に対し、このナチス親衛隊員に指一本触れないという条件でなければ、彼を決して引き渡さないと宣言したのである。これに対して、アメリカ軍の指揮官は将校の名誉にかけてそれを誓約した。そこでユダヤの囚人たちは、このかつての収容所指揮官を彼の前に引き出すことにしたのである。アメリカ軍の指揮官はこの親衛隊員を再び収容所の責任者に任命した。そして、彼は私たちのために、周辺の村々から食べ物や衣服を調達する仕事を組織したのである。」 1946年、私がしたように、共同責任に反対したり、ましてやナチスのために肩入れするのは、あまり受けのいい行動ではなかった。〝共同責任〟について
〝共同責任(☆)〟ということを言う人は、その人自身誤りを犯しているのである。
私は、事あるごとに、共同責任に反対の立場をとってきた。
強制収容所のことを書いた私の本――その英語訳は合衆国だけでも九百万部以上読まれている――の中で、私は次のような話を紹介した。
(『フランクル回想録 20世紀を生きて』V・E・フランクル 山田邦男訳 春秋社 2011年)
しょっちゅう、いろいろな組織団体からお目玉を食らった。
当時私は、ヒトラー青年団の勲章をもっていた同じ専門の同僚を家にかくまっていた。
彼から聞いた話では、国家警察に追われており、捕まると「人民裁判」にかけられ、無罪か死刑判決のどちらかしかないのだと言う。
このようにして私は彼を当局の追跡から守った。 一度私は――それは1946年のことだった――フランス占領軍の司令官だった将軍のいる前で共同責任に反対したことがある。
それはフランス占領地区でおこなわれた講演会の席上のことであった。
次の日、かつてナチス親衛隊員であった大学教授が私を訪ねて来て、目に涙を浮べながら、よりにもよってなぜこの私が、公の場で共同責任に反対するような勇気を奮い起こす気持になったのかと聞いた。
「あなたならできません」私は答えた。
「あなたが口を開けば、自分の立場を守ることになるでしょう。しかし私はかつての囚人119104番です。だからこそ私には、それができるし、またそれをせねばならないのです。そういう私の言うことならば人も信じるでしょう。これはまさに義務なのです」。
☆)例えば、ナチスの残虐行為はドイツ人全体の責任であるという考え方。
(『フランクル回想録 20世紀を生きて』V・E・フランクル 山田邦男訳 春秋社 2011年)
「アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ」(NHK 2024年1月29日)