2024年5月27日月曜日

雨だったけど

歩き始めは本降りだったのですが、途中で小雨になったりもしました。

ハシボソガラスが手すりをチョンチョンと移動しているので
何をしているのか見ていると
手すりに溜まった雨水を飲んでいました。
カラスの行動を見ていると頭が賢いなと思います。
★鳥はどうやって水を飲むのでしょうか?

――ふつうはくちばしで水をすくって顔を上げ、口の中に流し込みます。
もう1つは、くちばしをストローのようにしてゴクゴク吸い込む方法があります。
これはハト類などごく少数の鳥しかできません。
(『野鳥ブックス1 BIRD WATCHING―野鳥と出会うために』日本野鳥の会 1981年)
朝ドラ「虎に翼」第9週「男は度胸、女は愛嬌?」 (41)
辛い展開で始まりましたね…
1945年3月10日の東京大空襲で幕が開きました。
東京大空襲」(中学)

よねさんやマスターの消息が気になります。
よねさんは戦後、戦争未亡人や街娼たちの相談にのっていると勝手な想像をするのですが…
弟の直明が岡山の学校から帰ってきました。
岡山ですから広島の惨状を知っていたと思います。
Dear にっぽん「被爆樹木と生きる」(再放送5月30日 午前1:25~)
帰ってきた直明が
この1年間ほとんど勉強なんてしていないよ。
勤労動員ばかりだし 空襲もあって…。

と話していました。

戦争を知ろう!空襲」(NHKアーカイブス)

勤労動員」(中学)
第2章 禍転じて福へ――萌芽期
 3 戦時下の給食
 盗まれたコッペパン


 早乙女勝元は、1944年、東京下町の国民学校初等科を卒業し、高等科に入学した。
55万部のベストセラーとなった『東京大空襲』の著者であり、東京大空襲・戦災資料センターの館長である。
昔から虚弱体質で内気だった早乙女少年を変えた「事件」があった、と早乙女さんの自伝『その声を力に』(2018年)で述べている。
(『給食の歴史』藤原辰史 岩波新書 2018年)
 ある日、学校でコッペパン泥棒が出た。
早乙女少年は、とっさに犯人が同じ貧乏暮らしの金田くんだと思った。
金田くんは「自分のパンの半分を、弟や妹たちに持ち帰るのを知っていたからだ」。
「学校での給食のパンは、たいそうな貴重品で、当番から机上に配られると、先に目分量を確認せざるを得ない」。
ゆえに、先生は怒り、「身に覚えのある者は、五分以内に前に出よと声を震わせた」。
早乙女少年は「先生、ぼ、ぼくです」と身代わりになったのである。
 授業の終了後、校舎の裏に呼ばれた早乙女少年は、さきほどの理由を聞かれ、説明したのだが、先生は首を振って「金田はパン泥棒じゃない。むろん、おまえもだ。真犯人は別にいる」と言う。
名前も特定していて、「奴の心を入れ替える」絶好のチャンスを早乙女少年の身代わりによって失ってしまったのである。
あまりにもおとなしく弱いので「勝元」ではなく「負元」とあだ名されていた勝元少年に先生は「負元とばかり思っていたが、そうでもなさそうだ」と笑った。
その勇気を見込まれて級長にさせられた、という。
 2017年、18年と私は北海道岩見沢市の廣隆寺での講演で早乙女勝元さんとご一緒したが、2018年7月、帰り道に戦争中の食べものについてお尋ねする機会に恵まれた。
86歳の早乙女さんは、学校給食ではなく、久保田鉄工所隅田川工場で手榴弾作りに励んでいた学徒勤労動員の話をしてくれた。
「イモと豆かすとほんの少しのコメの入った弁当を盗まれないように腰に巻いて片時も離さないようにしてました」。
「あるとき開いてみると、やられた、と思いました。半分盗まれていた。でもよく見てみると、トロッコ押しで揺すられて弁当が半分になっていました」。
自伝には一隅に片寄った弁当を見て「とたんに労働意欲が消し飛んだ」とまで書いてある。
 工場労働者には給食が出たが、学徒は弁当持参だったという。
 なお、前述の樹下の回想では、初等科の給食は集団疎開が始まったので中止されたが、高等科では終戦までつづき、動員先の工場に給食が配達されたり、当番の子どもが取りにいったりした、と記されている。
同じ東京でも地域によって異なっていたのかもしれない。
なお、弁当の盗みは、私が第一次世界大戦中のドイツの子どもたちについて調べたときも出てきた(『カブラの冬』)。
戦時中、世界各地でみられた現象であろう。
 学徒動員を続けていた早乙女少年の人生を変えたのは、大空襲だった。
「勝元、起きろ!」という父の声に勝元少年ははね起きた。
アメリカのB29が早乙女少年を襲ったのは、1945年3月10日なったばかりの夜更け。
「きたァッ、きたぞォ!」と叫びながら階下にかけおりた。
玄関先から見える景色はあたり一面、真っ赤であった。
「ほら、どっちを見たって、暗いところなんか一ヵ所もないよ。一ヵ所も。……ああ、ゆんべ、特配を食べちまえばよかった。せめて死ぬときには腹いっぱいにしてさ」(『東京大空襲』)。
 零時15分の空襲警報発令から2時37分までのあいだに、帝都東京の約4割を焼き尽くし、8万8793人の生命を奪った。
父、母、姉と炎が荒れ狂う下町を右往左往逃げ惑うなかで、積み重なった黒焦げの焼死体や隅田川に浮かぶ溺死体を見ることになる。
戦後の給食は、皮肉にも、人びとの生活の場をがれきと灰燼にしたアメリカの手によって、息を吹き返すことになるだろう。
(『給食の歴史』藤原辰史 岩波新書 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ちょっと分りにくいですが右下にツバメが写っています。

 ツバメは人間のそばで子育てしたい

 春になるとツバメが渡ってきて、家の軒先に巣をつくりはじめます。
ツバメは泥に枯れ草や唾液を混ぜて、垂直な壁に左官屋のように器用に塗りつけ、巣を築いていきます。
 多くの鳥は、人通りが多い場所には巣をつくりません。
しかし、ツバメは家の玄関や店の入口など、常に人がいるところに積極的に巣をつくります。
これは、彼らが人間を利用しているのだと考えられます。
 ツバメにとって恐ろしいのは、タカやテンのように、高いところにかけた巣を襲うことができる捕食者です。
人の出入りが多ければ彼らもおいそれと近づくことはできません。
一方で人間は、農作物に被害を及ぼす害虫を食べてくれるツバメをたいせつにしてきました。
人間とツバメの間には、お互いウィンウィンの共生関係があるのです。
 じつは日本では、ツバメの巣が人工建築物以外では見つかったことがありません。
人間生活は自然界にマイナスの影響を与えることも少なくありまえんが、ツバメにとってはなくてはならない存在なのです。
 しかし、ツバメが巣をつくれるような家を人間が建てるようになったのは、せいぜい数千年前のことでしょう。
人工物のなかった時代には、ツバメはきっと崖や洞窟などに巣をつくっていたのでしょう。
もしかしたら、人間が石斧をかついでマンモスの骨つき肉を食べていたころ、洞窟の中でツバメとはじめて出会いをしたのかもしれませんね。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)