土曜日なので急行は諦めて準急で向かいました。
準急といってもほぼ各駅停車(^_-)
見事な神木だとビックリしていると曲がる所を過ぎてしまっていた(^_^;
「影向の大樟(ようごうのおおくすのき)」(新熊野神社)
…前略…
山道をぬけると、玉垣に囲まれた剣(つるぎ)神社にたどり着く。
祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)。
由緒は古いが、再々の火災で記録を失い、創建については不明。
口碑によれば、平安建都に際して王城鎮護(おうじょうちんご)のため、巽(たつみ)の方角に剣を埋めて社殿をたてたという。
また、墳墓の地のゆえに、土中から剣や鏡などの副葬品がでることが多いので社(やしろ)を設けたとも伝える。
本殿前に石柵で囲まれた巨石があり、その下に剣が埋められていると信じられ、石をなでると痛む部分や難病がいやされるご利益(りやく)があるというので「なで石」という。
…後略…
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
「京都一周トレイル」の案内(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
発病前は、お世話になりました!
右の道は下って行くみたいだったので左に上がっていったのが間違い
行き止まりになって引き返すことに…
今回の目的地は、私の歩いた方向よりも
反対の泉涌寺側からの方が道を見つけやすいことに気がつきました。今日の第一目的地です。
14 泉涌寺七福神巡りを楽しむ
…前略…
鳥部山(とりべやま<阿弥陀ケ峰>)の麓(ふもと)の一帯は、古来「鳥辺野」とよばれた墳墓(ふんぼ)の地であり、『徒然草』第7段にあるように、「あだし野の露」と並び称されて、「鳥部山の烟(けぶり)」は無常の象徴とされてきた。
1027(万寿<まんじゅ>4)年12月、栄華を誇った藤原道長もこの地で荼毘(だび)に付された。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
たどり着くまで分りにくい道でしたが、参道は整備されていました。
今日の気温は高かったのでゆっくりと上っていきました。
「京都・兵庫で真夏日 ことし一番の暑さになったところも」(関西NHK) 一條天皇皇后定子 鳥戸野陵(とりべののみささぎ)
醍醐天皇皇后穏子火葬塚
圓融天皇女御尊称皇太后詮子火葬塚
後朱雀天皇皇后禎子内親王火葬塚
後冷泉天皇皇后歡子火葬塚
白河天皇皇后賢子火葬塚
堀河天皇女御贈皇太后苡子火葬塚
宮内庁
2章 都市の原像
京の葬送地
…前略…
一条天皇の皇后で、清少納言の仕えた定子(ていし<藤原道隆(みちたか)の娘>)が25歳で亡くなったのは、三番目の子(媄子内親王<びしないしんのう>)の難産のためでしたが、辞世の歌三首の一つ、
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ
の意に従い、火葬にせず、土葬されています。
その遺骸は兄弟たちによって鳥辺野に送られ霊屋(たまや)に安置されました。
おりしも雪が降りしきり、兄弟たちが名残を惜しみつつ立ち去ったあとの静寂(しじま)のなかで、その霊屋はしだいに雪にかくれていった――。
いま、定子の陵(みささぎ)は、他の中宮とあわせて鳥辺野陵として整備されています。
…後略…
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)道を間違えて歩いていたために 「今熊野観音寺」に立ち寄る元気は…またもや間違えて降りてきてしまった(^_^;
今日は、方向音痴のおかげで体力を消耗…
再び引き返してやっと着いた「大門」
大門
この門は、泉涌寺の山号である「東山(とうぜん)」の額を掲げているので東山門と呼ばれている。
額の字は、独自の書風を確立したことで知られる中国南宋の張即之(ちょうそくし)の筆であると伝える。
門を入ると、東には仏殿、舎利殿、本坊の主要建物が直線的に並び、宋の寺院を手本とした創建時の堂宇(どうう)の配置を見ることができる。
国の重要文化財に指定されている。
門は高く堂々とした本瓦葺きの四脚門(しきゃくもん)で、もとは京都御所の内裏の門であった。
慶長時代に徳川家康が後水尾天皇の即位と共に御所を再建したが、その時、旧門の部材を拝領して移築した門と考えられ、桃山時代の建築である。
豪壮で華やかな桃山時代の雰囲気は、蟇股(かえるまた)の唐獅子(からじし)、龍、麒麟(きりん)、漠(ばく)などの霊獣の彫刻によっても偲ぶことができる。
御寺 泉涌寺
「楊貴妃観音堂」観音様にお髭が生えているように見えます(^_-)
楊貴妃観音堂(ようきひかんのんどう)
唐の玄宗(げんそう)皇帝の妃(ひ)、楊太真(ようたいしん)は、楊貴妃の名で知られる絶世の美女であり、二人の愛情の深さは白楽天の「長恨歌」にたたえられている。
しかし、その美貌のためにかえって、玄宗の失政と安禄山の乱を呼び、唐の至徳元年(756)、妃はその乱によって命を落とした。
安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は亡き妃の面影を偲(しの)ぶため、香木によってその等身坐像にかたとった聖観音像を造ったと伝えられる。
建長7年(1255)に中国に渡った湛海(たんかい)は、その像を持ち帰り、泉涌寺に安置したという。
以来百年ごとに開扉されてきた秘仏であったが、昭和31年(1956)から厨子(ずし)の扉は参拝者のため開かれることになった。
仏体は寄木造(よせきづくり)で、手に極楽の花、宝相華(ほうそうげ)を持ち、宝冠は宝相華唐草(ほうそうげからくさ)の透彫(すかしぼり)、その下に観音の冠を重ねている。
観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然(こんぜん)一体となった仏像で、口もとや目もとの曲線は、得も言われぬ尊容を漂わせている。
京都市
(不鮮明な文字があり、正確ではありません)
お風呂といっても蒸し風呂です。「仏殿」
仏殿(重要文化財)
仏殿は、寛文8年(1668年)に四代将軍徳川家綱公により再建された。
一重(いちじゅう)もこし付入母屋(いりもや)造り本瓦葺き唐様建築(からようけんちく)の代表作であり、違垂木(ちがいたるき)や釘・土を使わない工法に特色をみることができる。
泉涌寺創建当初の伽藍は応仁の乱でほとんどが消失し、現在の伽藍は江戸期に整備されたものである。
本尊は、鎌倉時代の代表的な仏師「運慶」作の「三世三尊佛」と呼ばれ、左の阿弥陀如来(あみだにょらい)は現在、中央の釈迦如来(しゃかにょらい)は過去、右の弥勒如来(みろくにょらい)は未来の守護尊として、三世にわたって人類の平安と幸福を祈念している。
天井の雲竜図(うんりゅうず)、壁画の飛天図(ひてんのず)、裏堂の白衣観音図(びゃくえかんのんず)は狩野探幽(かのうたんゆう)により当堂建立の翌年に奉納された。
また当堂では毎年3月14日~16日の間、国内随一の「大涅槃図(だいねはんず)」(縦16メートル 横8メートル 重さ百貫)を奉掲する。
作者は江戸期の浄土宗の画僧「明誉上人(みょうよししょうにん)」。
御寺 泉涌寺
「舎利殿」 舎利殿(しゃりでん)
舎利殿は釈迦様の遺骨である「仏舎利(ぶっしゃり)」を納める貴重な霊殿で、内裏(だいり)の御殿を移築し、上層部を付け足したことにより重層(じゅうそう)に変えたものである。
泉涌寺の仏舎利は、月輪大師の弟子湛海宗師(たんかいすうす)が安貞2年(1228年)宋より請来した三国伝来の佛牙舎利(ぶつげしゃり)と呼ばれ、印度(いんど)・兜卒天(とそつてん)・中国に伝わった不可思議な舎利で、釈迦の歯にあたり、説法をされる口に有ることから特に尊い舎利だと言われている。
牙舎利は舎利塔という建物の形になった容器に納められ、左右には月蓋長者(げつがいちょうじゃ)と韋駄天(いだてん)の像を従え安置されている。
舎利殿の天井には、狩野山雪(かのうさんせつ)により勇猛な鳴き竜(赤竜)が描かれ、肢体を大きくくねらせながら飛翔する姿、逆立つうろこは悪魔退散の激しい怒りを表現しており、日光の薬師堂と共に東西の鳴き竜として有名である。
堂内に立って手をたたくと竜が鳴いているように聞こえるという。
平成20年、当舎利殿にて今上陛下御即位二十年を奉祝し、薪能「舎利」が奉納され、御寺泉涌寺を護る会の名誉総裁秋篠宮両殿下もご鑑賞になられました。
御寺 泉涌寺
「泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)」 泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)
泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、寛文8年(1668年)に再建された。
屋根は入母屋造、こけら葺で、正面は桟唐戸(さんからと)で上部に欄間(らんま)があり、屋根には軒唐破風(のきからはふ)を付けた優雅な意匠の建物である。
内部は別所如閑(べっしょにょかん)筆の蟠龍図(ばんりゅうず)のある鏡天井となっている。
京都府指定文化財。
この地は月輪山のふもとにあり、緑に包まれた仙境といった趣きがある。
平安時代に左大臣藤原緒継(をつぐ)が神修上人に帰依して法輪寺を建立し、その後、寺は仙遊寺と改称された。
泉涌寺の開山俊芿(しゅんじょう)律師が仙遊寺の地を寄進され、中国宋を手本とした伽藍の造営を志した際、ここに清泉が涌き出たので寺名を泉涌寺と改めたと伝えられる。
清泉は絶えることなく涌き続け、開山律師の仏教興隆への思いが、今も伝わって来る。
御寺 泉涌寺
屋形の側にあるのが、今日、二番目に訪ねたかった「清少納言歌碑」
文字が崩れてしまって私には読めませんが
夜をこめて鳥のそら音(ね)ははかるとも夜に逢坂(あふさか)の關はゆるさじ
のようです。
ここに清少納言の歌碑があるのは… 枕草子
…前略…
月満ちて、定子さまがお産みになったのは姫君です。
けれども、産後の肥立ちがお悪く、ついに定子まさは亡くなられます。
まだ25歳のお若さ、長保2(1000)年の12月、雪の降りしきる夜でした。
清少納言はその後、御殿を下がりました。
ある人から、彰子中宮の御殿に誘われたのですが、どこにも仕えませんでした。
清少納言がなすべきことは、『枕草子』に定子中宮の素晴らしさを書きとどめることだけでした。
「これで一生終わってもいい」
そして、年をとってからは定子さまの御陵が見えるところに住み、朝に晩に御陵を拝んで、楽しい思い出にひたりながら一生を終えました。
そういう政治的背景を頭の中に思い浮かべながら、『枕草子』をお読みになると、明るく楽しいことしか書かず、定子中宮、ひいては中関白(なかのかんぱくけ)家の悲しいことや苦しいことについて何一つ書かなかった清少納言の気持ちが理解できるかもしれません。
「そんなこと、書く必要はないの。楽しいことだけ、書けばいい。人生って生きるに値するものだから」
清少納言はあたかも、そう言っているかのようです。
(『田辺聖子の古典まんだら(上)』新潮社 2011年)
12時前に東福寺駅近くまで来たので昼食をとることに
昔ながらの店構えだけど品書きを見ると
外国から来た旅行者に向けてメニューが書かれていました。
昔ながらの店構えだけど品書きを見ると
外国から来た旅行者に向けてメニューが書かれていました。
たとえば、
ショーガ焼定食¥880 shogayaki teishoku( gingergrilledmeal of pork.)
なんか「ブギウギ」で小夜ちゃんがもっていた「日米會話手引」を思い出しました。
ということで、お昼は、しょうが焼きにしました。以前は、ご飯の量を見て食べきれるか心配したのですが
完食できたと喜んでいたら、前のテーブルに座った女性が
しょうが焼き定食と鍋焼きうどんを注文されたのでビックリしました。
(耳が悪いので「しょうが焼き」と「鍋焼きうどん」だったのかな?それでも多いなとその方のパワーに感嘆しました)
久しぶりの町歩きに2014年版の地図。
久しぶりの町歩きに2014年版の地図。
ゆっくりと内容を確かめる時間がなかったので間違いが多いと思います(^^ゞ
おはようございます~
返信削除Kazeさん、土曜日がいいお天気で何よりでした。
今朝は、雨の降り出しが早かったように思います。
「光る君へ」を観るようになって、
鳥戸野陵あたりへも行ってみたいなぁ~と思っていました。
泉涌寺や西国さんで新熊野へお参りしたのはもう8年ほど前になっています。
中宮定子や清少納言は、古典で習った時に印象に残った女性でした。
今回の大河ドラマで、
はじめて「清 ・ 少納言」だと気づきました。(*^-^*)
なんとなく「清少 ・ 納言」って読んでいました。
東福寺駅近くの食堂、
いい雰囲気のお店ですね。(#^.^#)
カイさんこんにちは(^^)/
削除今朝は、雨が降り出したけど公園を歩くにはちょうどよかったです。
昨日は、暑かったのですが、木陰が多くて助かりました。
「光る君へ」は放送時間が長いので見ていませんが、いろいろ話題になっていますよね!
今まで清少納言についてはあまりいい印象ではなかったのですが、男性の研究者の本を読んでいたことによる先入観だと思うようになりました。
女性の研究者や作家の本を読んでいると、定子への思いが伝わってきて定子の陵を訪ねたいと思いました。
平等院などはドラマの影響で観光客が多いだろうなと思い避けました(^_-)
>なんとなく「清少 ・ 納言」って読んでいました。
私も同じくです(^_^;
食堂「かぶき」は昭和の食堂といった感じで美味しかったです(^_^)v