日影は涼しいけど…
この涼しさは今のうちかな?
天気予報をみていると明日にかけて「真夏日」になるところもあるとか…今日の朝ドラ「虎に翼」第4週「屈み女に反り男?」 (19)
轟の「あの人たちはおとこだ」という花岡へのことば
私は、左耳を失聴して右も聴力が衰えているので字幕つきで見ています。
字幕には
「あの人たちは漢(おとこ)だ。
俺が漢の美徳と思っていた強さ優しさをあの人たちは持っている。
俺が漢らしさと思っていたものは、そもそも漢とは無縁のものだったのかもしれんな」
「熱血漢」とは轟のような人物を言うのだろうなぁ
梅子さんの花岡へのことば
「どれもアナタよ。でも本当の自分があるなら大切にしてね」
心に響きました。番組の最後に
「帝都銀行 経理第一課長猪爪直言を 贈賄の容疑で勾留した」
とあるのですが、よく似た名前の疑獄事件が起きています。
この事件がモデルかはわかりませんが…
1934(昭和9)年 4月18日
帝国人絹会社株式の買受をめぐる疑獄事件がおこる(帝人事件、5月19日 黒田英雄大蔵次官召喚)。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)
「帝人事件(ていじんじけん)」(山川出版社)
「チフス饅頭を贈った女医」つづき
3 つかのまの邂逅
昭和17年、広川君子は仮出獄になった。
毎朝氏神様に日参し、陰膳をすえて娘の帰りを待っていた母は、前年3月に亡くなっていた。
暑さかなわれには母のおわします
と獄中で君子が偲んだその母である。
仮出獄の条件として「外地に行くこと、外地の国策会社に面倒を見る人がいること」とあったという。
吉岡弥生の口ぞえが縁で、君子は蒙疆地区張家口の竜烟鉄鉱株式会社付属中央病院の看護婦長になった。
身元引受人は理事長の山際満寿一(現在読売テレビ顧問)である。
(『昭和史のおんな』澤地久枝 文藝春秋 1980年)「初対面のとき、広川さんは髪をくくって風呂敷包み一つで、まことに涙が出るような身なりでした」
と山際満寿一は当時を回顧している。
君子の着任以前に、事件の全容をよく知っていた山際は重役会と病院の科長会を開き、「ここに来られるまでの数年間の問題はいっさい口に出さんでくれ。こころよく安住の地にしてあげよう」と申し合わせをしていた。
君子がやっと過去の悪夢から解放される時間と仕事場が待っていたことになる。
当時、無医村などでは衛生下士官が「限地開業医師免許」の制度により、医師の役割を果たしていた。
広川君子も間もなく「蒙疆地区」という限定つきで医師として復活することができた。
その働きぶりは、「まるで天使のようなもの」であったという。 …中略…
敗戦後、広川君子は身一つで郷里へ引揚げてきた。
そして昭和22年4月、新憲法下第一回の地方議員選挙に立候補し、K市の市議会議員に最高点で当選している。
保守系無所属として周囲から推された結果である。
「犯罪者」の烙印は、広川君子の人生から消えていた。
君子は一期四年間の任期をつとめただけである。
医師の免許の復活によって女医の生活へ戻った。 広川君子は満七十八歳になった現在、週に三日、直接診療にはたずさわらないが病院へ出向き、あとの日々は、自宅横の小さな畑の草取りなどをして静かな余生を送っている。
…中略…
しかし今、広川君子は往時を回顧して、
「伊藤とうまくいかなかったんは、料理など出来なかったのが原因とは思いません。伊藤のオヤジにしたら、私が煙たかったんでしょ。私に金出してもろうたんがいやだったんでしょ。伊藤が最初から私の金目当てだったとは思いません。それ程の悪人じゃない」
と語っている。入籍の問題についても、
「私がそういうこと嫌いでね。私、独立して医者をやれたから、入れる必要もなかったんです。今考えると、それが悪かったのかも知れません」
と言う。往時茫々の感さえある。 伊藤光男はすでに故人になっていた。事件当時応召していた末弟は、
「広川さんとの付き合いは、金が目当てだとは考えられません。むしろ共働きといってもいいでしょう。籍については、『医者の名前が変るとまずいので入れたくない。子供が出来ればそのとき入れればいい』と広川さんがいわれたと聞いています。式まで挙げたのだから、伊藤の側で入籍を拒否したとは、常識では考えられないじゃないですか」
と語っている。 …中略…
男と女のからみは、なにが真実であるのか、時が過ぎれば当事者にさえ定かでなくなる部分がある。
広川君子がくぐった闇は、四十年昔の、愚かで一途な女のおちこんだ罠に過ぎないのだろうか。
彼女自身はなにも教訓めいたことは言おうとしない。
闇をくぐったことそれ自体を忘れようとしているかに見える。
しかし、愛し、献身して裏切られ、報復の劫火に焼かれて道を踏み迷う女性は、すこしも減っていない。
現在、経済力や自主性が身についた女たちは、皮肉なことにかつて広川君子が演じた役割を課せられる機会がふえている。 結果が思いもかけぬ裏目に出たとき、冷静に毅然として公の場で白黒を争う勇気、あるいは相手を無視して沈黙をつづけることで相手を乗りこえてゆく誇りと自負。
広川君子はそのいずれも徹しきれず、チフス菌に頼った。
そして四十年後の現在、かつて憎しみも怨みも存在しなかったような諦念に身をゆだねている。
被害者の役割を心ならずも演じたとき、どう身を処すか。
現代の「翔んでる」女性たちは、この課題に答えるだけの用意があるのだろうか。
(『昭和史のおんな』澤地久枝 文藝春秋 1980年)抜粋していますので、できたら本を手に取ってみてください。
一方を善にして他方を悪にすると読者は面白がるかもしれませんが
澤地さんはできるだけ両者から取材、聞きとりをされています。
一方、朝ドラ「ブギウギ」が始まった頃、笠置シヅ子が意地悪をしたという書き込みをみました。
「反骨のルポライター」という異名をもつ作家が、ステージママからの証言だけで評伝を書き
笠置シヅ子を悪者に仕立て上げました(著書を読んでいません)。
これも本を読んでいませんが最近では、一方だけを取材して本を出し、マネージャから名誉毀損で訴えられた作家もいます。今朝の父の一枚です(^^)/
トンボが飛び出すと暑い夏がくるのだなぁと思います(^_^;
女に英語が読めて悔(くや)しいのか。
悔しけりゃあ、てめえらも負けずにペラペラッと読んで見ねえ
=山川菊栄 おんな二代の記
明治6年、向学心に燃える十五歳の千世(菊栄の母)は、東京・報国学舎に学んだ。
男女共学だった。
女とはいえば虫けら同様と考えられた時代のこと、女と机を並べるのがいまいましい男子達は、女子を見れば「おかめ」などと嘲り、意地悪の限りをして追出しを計った。
これは敢然とやり返した級友お信の、胸のすくタンカの一部だ。
こう言えるほど女子は優秀だったのだ。
12月5日
(『おんなの言葉365日』相星雅子 高城書房出版 1991年)
後日、紹介したいと思いますφ(.. )