2021年1月8日金曜日

大阪がこんなに寒かったら…

今朝は、気温がマイナスになり強風で寒い…
公園の池に氷がはっていたのを、どなたかが割ったのだろうな厚さが1~2cm程もあった。
金属製の手摺のすき間からポタポタ落ちていた水滴がツララになっていた。
大阪でこんなに寒いのだから日本海側はさらに厳しい寒気が襲っている。

気象情報」(NHK)
「トランプ大統領は今すぐ辞任を」ニューヨークで抗議デモ〟(NHK)

この事態を利用して中国は、弾圧を正当化しようとしている。
中国とアメリカの違いは、言論の自由が認められ、民主主義を守ろうと声をあげる人々がいる。
そして現政権の高官も批判をして辞任を表明している。

米運輸長官が辞任表明、議事堂乱入事件受け」(CNN 1月8日)

中国は、徹底的に弾圧を繰り返す。
香港の警察 民主活動家 黄之鋒氏ら2人を新たに逮捕」(NHK)
100分de萩尾望都」の中で萩尾さんの作品を通して、
現在のコロナ禍における民衆が求める指導者像の危険性を指摘していました。
再放送1月16日土曜日午後3時~

アメリカでの暴動のニュースを見て、思い出したのは日比谷焼打ち事件。
そして麻原彰晃のもとに集まったエリートのテロリスト。
そして反対者に対してムキになって攻撃する大阪の元・現首長たち。
これまで大阪市廃止の住民投票を実施したいがために、基準を次々と緩和しておきながら
そのことにほっかむりして、マスコミを利用して「やっている」感を出している。

大阪モデル、赤・黄信号の基準引き上げ…吉村知事「難しいチャレンジだ」〟(読売新聞 2020年7月4日)

アメリカで起きた暴動は、日本にもその土壌があると常々思っています。
 そんな民衆の暴走について考えるにヒントになるのが

著者の藤野裕子さんがTwitter(1月7日)に

あの時無理して新書を出してよかったのか、ずっともやもやしてたけど、これでよかったのかもと今日初めて思えたかな。
いつ出してもタイムリーになるくらい本質を突きたいといつも思っているけど、それでもやはりタイミングというのはある


と呟いておられました。
10月31日の記事に「あとがき」の一部を転記しましたが、「はしがき」を転記したいと思いますφ(..)
これを読めば、単に暴力はいけないという批判だけではなく、なぜあのような暴動、破壊行動が起きたのかを冷静に分析する必要があると思えるのではないでしょうか。
でなければ新政権になっても支持者の暴動が各地で続発する思います。
それだけ現大統領の撒いた暴力の種は深く、広くはびこっています。
   はしがき

 日本史の教科書を開くと、「一揆」「焼打ち事件」「米騒動」「虐殺」などと、人びとが暴力をふるった出来事が数多い。
20世紀に入ってもなお、日本では民衆の物理的な暴力行使(民衆暴力)がたびたび起き、政治・社会は揺れ動いていた。
 本書は「民衆」の語を、国家・公権力に対して、「国家を構成する人びと」の意味で広義に用いる。
国家による対外戦争に動員されたばかりでなく、民衆自身が主体的に暴力をふるっていた歴史は、現代の日本社会とは結びつかないように思える。
しかし、本当に無関係なのだろうか。
本書では、現在では起こりそうもない出来事、目を背けたくなる事件を正面から取り上げ、その歴史的な意味を考えてみたい。
(『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』藤野裕子 中公新書 2020年)
 近代国家が樹立されるプロセスで、政府の近代化政策に反対して地租改正反対一揆や血税一揆が起きた。
立憲政治を求めて始まった自由民権運動のさなかに困民党が蜂起した秩父事件(1884年)や、日露戦争の講和条約に反対する政治集会をきっかけに暴動が起きた日比谷焼き打ち事件(1905年)、シベリア出兵にともなう米価騰貴をきっかけに全国規模で広がった米騒動(1918年)。
 対外的な関係に目を向けると、日清・日露戦争を経て、日本は東アジアに領土を広げた。
植民地として日本の版図に組み入れられた朝鮮から、多くの人が日本内地に渡ってきた。
関東大震災時(1923年)、官憲・軍隊とともに、日本民衆が朝鮮人を虐殺する事件が起きた。
植民地支配にともなうこの虐殺も、忘却されがちな歴史事象といえる。
 これらの出来事が自らと結びつかないように感じるのは、現代の常識である「暴力はいけない」という倫理観が先立つあまり、過去の人びとがふるった暴力を直視し、理解しようとする気持ちが持てなくなっているからかもしれない。
 かつて酒井隆史氏は『暴力の哲学』のなかで、「暴力はいけない」という道徳的な感覚がはらむ危うさを次のように指摘した。
「暴力はいけない」という感覚が、暴力をふるった人への厳罰を要求したり、暴力を抑止するという目的での対外戦争を容認したりするなど、別の暴力(国家による暴力)に対する無感覚を生み出している、と。
  確かにデモとテロを混同する傾向は、年々強まっている。
テロという暴力を嫌悪し、おびえる感情は、デモを封じ込めたいと願う為政者に利用されやすい。
デモをテロと呼ぶだけで、デモの正当性を容易に剥奪し、弾圧を正当化できてしまうからだ。
暴力に対する道徳的な忌避感を持てば持つほど、私たち自身の行動が過度にせばめられてしまいかねない。
  今必要なのは、「暴力はいけない」という感覚をいったん脇において、過去に民衆がふるった暴力がいかなるもので、どのように起こってきたのかを直視し、暴力に対する見方・考え方を鍛えることであろう。
そのことで、現代の感覚をもう一度見つめ直す機会が得られるはずだ。
  ただし、民衆の暴力行使は、国家対民衆の権力関係だけで捉えきれるものではない。
実際に起きた歴史事象は、それほど簡単ではない。
徴兵制に反対した血税一揆と呼ばれる事象のさなかに、被差別部落が襲撃されている。
関東大震災時の朝鮮人虐殺は、国家権力が主導したにしても、民衆が手を下している。
民衆を一枚岩に捉えることも、民衆の暴力が必ず権力だけに向かうと想定することも、こうした被差別者に向けた民衆暴力から目を背けることにつながる。
 かたや、「〇〇はなかった」「〇〇は正当防衛だった」と主張し、都合の悪い過去を覆い隠そうとする歴史修正主義は、年々露骨になっている。
この動きに流されないためにも、権力に向けた暴力と被差別者に対する暴力の両方を直視し、それらを同時に理解していく力が求められている。
 人びとを暴力行使に駆り立てていたのは、いったい何なのだろうか。
当時の日本は貧しかったから、あるいは教育程度が低かったからだと考える人もいるだろう。
たしかに民衆暴力には経済的な要因がからんでいるのは間違いないが、それだけでは説明のつかないことも多い。
当時の人びとが暴力をふるうには、相応の「論理」があったはずである。
 ここでいう論理とは、ある行為を妥当だと見なす(必ずしも言語化されていない)思考の筋道のことである。
論理には、個人の内面的な衝動だけではなく、そうした衝動がつくり出される時代背景や、その社会ならではの慣習・文化も含まれる。
したがって、民衆暴力を掘り下げることは、今とは異なる価値観と秩序を持っていた社会や、人びとの意識や行動の様式を理解することにつながるのである。
 民衆が暴力をふるえたかどうかという点は、国家や社会の成り立ち方と密接に結びついていたはずである。
近代国家は暴力の正当性を集中的に掌握し、それ以外の主体がふるった暴力を違法と見なす。
それにもかかわらず、民衆が暴力をふるったとすれば、法や規範を突き抜けたことになる。
どのようにしてそうした状態がつくり出されたのだろうか。
この点を問いながら、本書は「民衆暴力」の時代的な変遷をたどっていきたい。
  ひとたび民衆の暴力行使が始まると、日常ではなし得なかった行動が呼び起こされもする。
暴力をふるうプロセスで、民衆にとって「可能な幅」が広がっていくのである。
権力への対抗として現れた暴力が、途中から被差別者に向けられたり、反対に被差別者への暴力のなかに権力への対抗お要素が含まれたりもする。
 本書を通読すると、権力に対する民衆の暴力と、被差別者に向けた民衆の暴力とが、それほど簡単に切り分けられないことがわかるだろう。
誰が/誰に向けてふるったかによって、暴力の意味合いが異なってくるのはもちろんだが、両者を「民衆暴力」として同時に扱うことで、従来と異なる領域に思考をめぐらせることができるはずだ。
 こうした意図から、本書は日本近代史で起きた四つの事件を取り上げる。
いずれも民衆暴力と国家の暴力との関係や、権力への暴力と被差別者への暴力との関係が明瞭に現れた事件である。
これら四つの事件だけで近代日本を網羅的に語り尽くすことはできないのはもちろんだが、いずれの事件もそれぞれの時代の特徴を色濃く反映しており、近代化・民主化・対外戦争・植民地支配といった近代日本を理解するうえで欠かせない要素を含んでいる。
そうした象徴的な事件を時代順で追うことで、民衆暴力の変遷が見えてくるはずである。
  第1章・第2章では、明治初年に起きた新政反対一揆と、自由民権運動期に起きた秩父事件を取り上げる。
この二つの事件を題材に、近代国家の樹立とともなって、どのような民衆暴力が起こり、それがどのように変化したのかを確認する。
 第3章から第5章は、明治後期から大正期にかけて起きた民衆暴力を扱う。
一つは、日露戦争の終結に際して巻き起こった日比谷焼き打ち事件であり、もう一つは、関東大震災時の朝鮮人虐殺である。
 前者については、対外戦争の経験や近代都市での生活をとおして、それまでとは異なる都市暴動という独特の民衆暴力の形態が生まれたことを確認したい。
後者に関しては、植民地支配と関わってどのような民衆暴力が生まれたのか、また軍隊や警察といった国家の暴力装置が民衆暴力を正当化した際にどのような事態が起きたのかを明らかにしたい。
 本書が取り上げる四つの事件については、いずれも民衆運動史や被差別部落史・在日朝鮮人史の観点から多くの研究が積み重ねられてきた。
本書の目的の一つは、歴史研究がそれぞれの事件を多様な角度から議論してきた道筋をたどり、民衆暴力を見る視点や考え方を研ぎ澄ませていくことである。
個々の事実関係はこれまでの研究と重なるところも多いが、民衆暴力という観点だからこそ可能になった本書の叙述によって、現在の日本社会を見直す手がかりが得られれば幸いである。
(後略)

(『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』藤野裕子 中公新書 2020年)