2021年1月6日水曜日

歩いている時は…

歩いている時は、汗が出そうになったので一枚脱ぎました。
帰ってくるころには冷たい風が吹き出していて寒くなりました。
明日、雪が降っていたら散歩を諦めないといけないかも…

近畿北部 6日のうちに大雪の備えを」(えりの気象日記 1月5日)
ジョウビタキ♀が黒く丸いもの(種?)を吐き出しました。
鳥は、飛ぶのに体重を軽くするために歯を退化させました。
丸呑みをして消化できないものは、吐き出します。

歯無しの鳥のはなし ~なぜ鳥には歯がないの?」(BuNa)

鳥って不思議4 ペリット」(京都市動物園)
WHO 新型コロナ発生源の調査で中国に入国できず 失望を表明」(NHK)

香港 民主派前議員ら約50人逮捕 複数メディア伝える」(NHK)

こういうニュースを見ていると、新型コロナが世界をパンデミックにさせたのは、中国の隠蔽体質だと思うし
政府の政策に反対する者は徹底的に弾圧する国だとわかる。
中国やロシアを「社会主義」の国だと思うのは間違いで「独裁・全体主義国家」です。
マルクスが描いた世界を知るのには、今月の100分de名著「資本論 マルクス」が最適だと思います。
100分de萩尾望都」を繰り返し見ています。
萩尾望都さんの母親を見ていると、昨日、紹介した青柳昌宏の祖父と大違いですね。
いつまでも見つめることを喜んでくれた祖父のおかげで青柳さんは科学者になり、
一方、萩尾さんは母との葛藤を一連の作品に描くことで救われた。
萩尾さんがイタリアで少女漫画について講義した記録があります。
私の少女マンガ講義』です。
その中から「萩尾望都氏との初対面 ジョルジョ・アミトラーノ」を転記しますφ(..)
萩尾望都氏との初対面
      ジョルジョ・アミトラーノ

 萩尾望都氏がイタリアを訪れたのは8年前のことだったが、遠い過去のことのようにも、ついこの間のことのようにも感じられる。
大事な出来事はみな、通常の時間軸から逸脱した別の次元にあり、そういうふうに感じられるのではないかと思う。
その後も、日本で何回か萩尾氏にお目にかかったことがあるけれど、イタリアでの出会いは初対面であったし、画期的な出来事として私のこころに今でもまだつよく印象付けれている。
きっかけは、ボローニャ大学のマッテオ・カザーリ氏とフィレンツェ大学の鷺山郁子氏の協力を得て、ナポリ東洋大学で開催した「侘寂(わびさび)サイバー3」というイベントだった。
それは日本の現代文化について学ぶために、私が主催する第3回目となるシンポジウムで、萩尾望都氏は、そのスペシャルゲストであった。
(『私の少女マンガ講義』著:萩尾望都、構成・執筆:矢内裕子 新潮社 2018年)
  逐一メモを取っていたわけではないので(いまではそれをとても後悔している)、ぼんやりとしてしまっている記憶もあるが、一方、今でもはっきりと覚えている瞬間やイメージがある。
それは例えば、ナポリ東洋大学で講演する日に、講堂に入ろうとした萩尾氏の姿だ。
三百人にも及ぶ学生が、古代ギリシャの遺跡が残っているあの講堂を埋め尽くしていた。
それほどまでの人数を想像していなかったのであろうか。
萩尾氏は一瞬だけ戸惑ったように見えたが、それはほんのわずかな時間だった。
すぐさま自信を取り戻したようで、ためらわずに講堂に入って演壇に登り、優雅な微笑で座についた。
シャイな彼女から、迫力のある彼女への変化があまりに早かったので、驚いたことを今でもありありと思い出す。
そして、私が萩尾氏の紹介をした後、彼女は自分の講演を始めた。
ご本人が選んだテーマは少女漫画史であった。
 一番最初にそのテーマを聞いた時、私は漫画家萩尾望都のファンとして、正直少しがっかりした。
彼女には自分の作品についての話をして欲しかったからだ。
でも、彼女の選択は有意義だった。
イタリアでもよく知られている『ベルサイユのばら』に憧れる学生たちは、ある程度少女漫画のことを知っていたけれども、日本文化における少女漫画の重要性と意義は十分に理解していなかったので、彼らにとって萩尾氏の講演は貴重なイントロダクションだった。
それなりの知識はあるが、少女漫画史を詳しく知らない私にとってもとても勉強になった。
しかも萩尾氏は日本文化や少女漫画史の研究者ではなく、まさに少女漫画界の主人公たる立場であり、ご自身の経歴と作品についての話をする代わりに、ほかの漫画家たちの作品を語ることによって、インサイダーの視点から少女漫画史の考察をお話しいただけのは、聞く側にとって大変興味深くまたとても珍しい機会だったと思う。
 もう一つ、その時に私が悟ったのは、少女漫画というものが、言葉通り唯一無二の、まさに世界でもユニークな社会文化現象であるということだ。
少女漫画のもっとも代表的な作家たちは、もちろん突出した個性や特徴を持っているのであるが、ある意味一つの大きなカテゴリーと環境を形成し、それに自らも帰属している。
つまり、それぞれに特徴とスタイルがあっても、一つの幅の広い、大きな流れの一部なのである。
イタリアでは、少女向けの雑誌などはあるが、少女漫画に並び称されるジャンルはない。
おそらく西洋のどの国にも似たようなものはない。
少女漫画には似たようなジャンルがあるのに、なぜ西洋で少女漫画のような現象が現れていないのだろうか。
その理由はわからない。
私が言えるのは、西洋には、日本の少女漫画と少女漫画の影響を受けた作品(例えば、吉本ばななの初期の作品)を理解できる感受性はあっても、いくら日本の漫画家が西洋の場面、舞台を選んで描いたとしても、少女漫画というのは、あくまでも日本人の想像力と創造力によって表現されたものだからなのである。
 少女漫画史の流れを描写した時に、自分のことにほとんど触れずに話した萩尾望都氏だったが、彼女の描いてきた作品は、その大きな流れに注ぎ込み、貴重な貢献を果たしてきた。
つまり、その貢献のおかげで、少女漫画の芸術性は高まり、より複雑で、深く、幅広い流れとなっていったのである。
そして、彼女の作品はその流れの中に埋もれることなく、他とは見間違えようのない、特別な色の川として脈々と流れている。
その色は「萩尾望都」しか持っていない色なのだ。
 とはいえ、萩尾望都氏の作品の特徴を定義するのはいささか容易ではない。
幅が広すぎて、テーマと絵のスタイルの簡潔な説明を試みようとすると困ってしまうのだ。
敢えて、萩尾望都作品の特徴を一つ挙げるならば、無垢と経験の関係である。
ウイリアム・ブレイクに『無垢と経験の歌』という詩集がある。
ブレイクの場合は、無垢の歌と経験の歌は、はっきり分けられているのだが、萩尾望都氏の場合はいつもイノセンスとエクスペリエンスが混じり合っている。
イノセンスはいつも何かに脅かされ、やがてその無垢の状態は経験に堕落させられてしまう。
『残酷な神が支配する』のジェルミは継父の性的虐待に脅かされ、『ポーの一族』のエドガーは永遠の命を持つ少年吸血鬼という逃れられない裁きを与えられ、『イグアナの娘』のリカは母に毛嫌いされて、自分の姿を人間でないと思い込んでしまう。
『ローマへの道』のイタリア生まれで、最初は希望に溢れていたイノセントな少年マリオも、暴力と不幸の運命に苛まれる。
もちろん例外もあるが、萩尾望都氏のもっとも意味深い作品では、主人公たちは絶望の洗礼を受ける。
そして、息ができない深海でもがき苦しみ、やがて再浮上を果たし生き返る。
萩尾望都氏の、その無垢を失う人物の心の傷の描き方は古今無双である。
絵と文を鋭利な道具へと変化させ、人物の精神の奥深くまで突き刺しえぐり出す。
 ナポリ東洋大学でのシンポジウムの前に、初めてローマでお目にかかった時、こんなに優雅で美しい方が、あんな残酷な物語を描けるなんて、と驚いたが、イタリアで一緒に日々を過ごすにつれて、わかるような気がしてきた。
物語の残酷さと作家を一緒にするのは大きな間違いである。
残酷であるどころか、萩尾望都氏は慈悲深い方だった。
自分の創った人物たちの手を取って地獄まで連れていったとしても、彼らの解放の時まで決して置き去りにはしない。
いつも彼女は彼らのそばにいる。
 萩尾望都氏の漫画に期待外れの作品は一つもないが、特に愛おしく感じる作品がいくつかある。
中でも私にとって長い間『残酷な神が支配する』がその筆頭だった。
しかし最近『ポーの一族』の最新作である『春の夢』を読んでとても気に入り、『ポーの一族』をもう一度読みたくなって、本棚から引っ張り出した。
そして、この作品の魅力をあらためて発見し、その時からバンパネラの世界の魔法にかかった状態に陥っている。
吸血鬼というテーマの人気は、きっと吸血鬼の人生のように永遠に続くのであろう。
最近も相変わらずさまざまな形で流行っている。
『トワイライト』とう映画シリーズも『トゥルー・ブラッド』というテレビドラマシリーズも、そしてそれらの原作であった小説も、世界中でヒットしている。
少し遡るが、スティングの『バーボン・ストリートの月』という有名な歌も吸血鬼の話である。
スティングはアン・ライスの『ヴァンパイア・クロニクルズ』という小説シリーズの第一作である『夜明けのヴァンパイア』からこの歌のインスピレーションを受けたようだ。
そしてこの作品もまた、1990年代に映画化され、世界的な大ヒットとなっている。
 この小説がアメリカ合衆国で出版されたのは1976年だった。
ちょうどその年の「別冊少女コミック」に『ポーの一族』の最後のエピソードが出ていた。
したがって萩尾氏とライスは互いに影響を与えあっていたはずはないのであるが、不思議なことに美的感覚やロマン主義的雰囲気、そして19世紀英文学の影響など、いくつかの共通点を見ることができる。
 ただ、同時に私は、際立つコントラストをも感じずにはいられない。
ライスの小説には全編にわたり引きずるような非常に重苦しい雰囲気が漂っている。
ルイやレスタトなど登場人物は自らの肩に罪を背負ったかのようにいつも重い足取りで歩く。
他方『ポーの一族』の主人公たちは、同様に永遠の命という宿命を背負わされているのだが、萩尾氏のなんとも言えない線の軽さと説明しすぎない卓越した表現方法のおかげで、ページの中で踊るように、飛ぶように、舞うように見える。
その優美な顔立ち、しなやかな動きとその体、物語は重厚なドラマで溢れているけれども、重力のない世界に存在しているような感覚である。
 もちろん、吸血鬼というテーマはさまざまな形で扱われており、例えばロマン・ポランスキー監督の『吸血鬼』のようなパロディもあったが、私の知る得る限り、吸血鬼の世界がこのような独特の軽妙さで描かれたことはない。
萩尾望都氏の作品に見られるこの軽さは、彼女自身の幻想的な雰囲気にとてもしっくりとくる。
それはまるで夢のようである。
夢の世界では、たとえそれがいい夢でも、悪夢であっても、重力を感じない。
萩尾望都氏の漫画の世界はまさに夢の王国ではないか。
 イタリアで萩尾氏と一緒に過ごした時間にも、ときおりその夢の色を帯びることがあった。
エドガーやメリーベルの透明な姿がイタリアの町の風景に重なるような印象を抱いた。
そして短い時間だったが、彼女と一緒にナポリやローマやボローニャの街を歩いたり、食事をしながら会話を楽しんだりする中で、彼女はその鋭い観察力と、一音一音異なる音を奏でるピアノの鍵盤のように、豊かな感受性の繊細なヴァリエーションを私に感じさせてくれた。
それを思うと、彼女の作品に見える漫画世界の多様性がどこから生まれるのか、少しだけ理解できたような気がした。
そして、その遠くまで見透かすことのできる目と感覚で吸収されていったイタリアの景色や人々、そして交わした会話が、いつの日か、何か素晴らしい形で、彼女の漫画に現れるのを楽しみにしていた。
  (Giorgio Amitrano ナポリ東洋大学教授・日本文学者・翻訳家)
(『私の少女マンガ講義』著:萩尾望都、構成・執筆:矢内裕子 新潮社 2018年)