今朝も気温が低く、風がビュンビュン吹いていました。
気温が低いだけなら歩いているうちに体が温もるのですが、冷たい風が体温を奪います。
公園の大池も氷っていて、カモメが氷の上に乗っていて強風に滑っていました(*´▽`*)
蓮池の氷を叩くと昨日は1~2㎝程だったけどさらに厚くなっていました。 なかのとおるさんのTwitterに
一昨日の記事ですが、いかに吉村知事が現状認識できていなかったかが的確に書かれています。
驚いたことに、この後「先手」で緊急事態宣言要請という発言がありました。
意味不明です
「吉村知事“白旗”秒読み 緊急事態宣言拒否も死者は東京の倍」(日刊ゲンダイ 1月7日)
前の知事・市長だった橋下氏も矛盾した発言をしても平気でした。
アメリカの大統領も嘘であっても言い続けていたら信者が信じる。
「トランプ氏の核攻撃阻止を軍トップと協議 ペロシ氏が表明」(AFP 1月9日)
正直、心配です。
大統領のステロイド治療薬の副作用についての記事
〝トランプ氏投与の「デキサメタゾン」、専門家は副作用も指摘〟(ロイター 10月6日)
一方、大統領のような高額な治療費が払えない人は
〝「わかるよ、クソだよねこの世界は」――米コロナ病棟で命に寄り添う、日本人牧師の奮闘〟(Yahoo!ニュース 1月8日)
…国民皆保険の制度がないアメリカでは、集中治療室に一日いるだけで1万ドル、100万円以上かかる場合もある。
だから医師のもと、「人工呼吸器を切る」という重い決断を迫られる家族が非常に多い。…
1891(明治24)年1月9日、 内村鑑三(うちむらかんぞう)が教育勅語の礼拝を拒否し、「不敬事件」が起きました。
「思想家紹介 内村鑑三」(京都大学文学部)
内村鑑三は、中学・高校時代に知って何冊か著書を読み、尊敬していました。
『日本文学史序説(下)』より内村鑑三について転記しますφ(..)
第10章 第四の転換期下
内村鑑三と安部磯雄
(前略)
内村は上州高崎藩の江戸詰め藩士の長子である。
その父は、鑑三の10歳のときに廃藩置県で職を失った。
彼は12歳で東京へ出て、英語を学びはじめ、16歳で札幌農学校に入る。
事実上学校を創設したクラーク( W.S.Clark, 1826~86 )が去った直後、第二期生の一人である。
アマースト Amherst 学長の現職のまま招かれて来たクラークは、札幌在職1年足らずの間(1876~77)に、第一期生の16名を改宗させてみずから草した「イエスを信ずる者の誓約」に署名させていた。
その第一期生たちが、内村らの第二期生に迫って、同じ「誓約」に署名させようとしたのである。
後に内村自身が How I become a Christian (『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』、英文初版、東京、1895)で回想しているところによれば、彼は神社に祈ってまで抵抗しようとしたが、遂に屈して、その誓約に署名したという。
半年の後、メディスト派のアメリカ人宣教師から洗礼を受けた(1878)。
その信仰は、農学校を卒業し(水産学専攻)、最初の結婚に失敗した後、アメリカ(主としてニュー・イングランド)で通した3年余の期間(1884年末~88年春)に決定的に強められた。
アメリカでは、主に聖書と神学を学び、またアメリカ人に対して「大和魂」を説く文章も書いている。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
帰国後、講師として第一高等中学校の教育勅語(1890)奉戴式(1891年1月)に列し、天皇の署名した勅語に「敬礼」を行わなかったので、いわゆる「第一高等中学校不敬事件」がおこった。
学生、教授、新聞、一般の人々の非難は、内村に集中した。
内村が「敬礼」を行わなかったのは、彼が天皇を敬しなかったからではなく、キリスト者の神以外の何ものを「礼拝」することにもその良心が抵抗したからである(「 D.C.Bell 宛書簡、1891年3月6日)。
校長は日本式の「敬礼」が「礼拝」に非ずと説き、内村はそれを前提として「敬礼」に同意し、事件は一応収まったが、彼自身および彼を支持した同僚の一人は、職を失った。
しかも事件の直後に、内村は肺炎で生死の境にあり、事件の三カ月後には2番めの妻が病没した この事件が日本の近代思想史の上で重要なのは、敬礼をためらった内村の良心において、天皇神格化の否定が明瞭にあらわれていたからである。
内村の唯一神の信仰は、国家とその象徴としての天皇に、絶対に超越する。
彼は烈しい愛国者であり、日本の国家に超越したその信仰が、日本以外の地上のあらゆる国家にも超越したことはいうまでもない。
「基督教は宇宙的宗教であるから」、「外国人に頼らざる福音的基督教、是れ今日に至る吾等の理想とする所である」(「我が理想の基督教」『聖書之研究』、1901年5月)と彼はいった。
またその関心が自己の内部ではなく、キリストに向っていたこともあきらかである。
すなわち「なぜ己に省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがなひ給ひしイエスを仰ぎみないのか」(「私の信仰の先生」『聖書之研究』、1925年12月)である。
共同体への帰属と共同体の外にいかなる絶対者もみとめない価値観とを中心として築き上げられた日本的世界観の伝統のなかで、このような内村の信仰が、例外的であり、かつ画期的であったことは、当然である。 その後の内村は、愛国的立場から日清戦争(1894~95)を支持したが、最後次第に絶対的な平和主義に近づいてゆく。
また同時に無教会主義の立場をも強めて、雑誌『聖書之研究』を創刊し、言論活動を盛んにする。
足尾銅山の鉱毒事件(1900)がおこると、鉱毒地を視察し(1901)「万朝報(よろずちょうほう)」に拠って政府を批判し、日露戦争の危機が迫ると、開戦に反対し、「万朝報」社が開戦支持に踏み切ったとき、幸徳秋水(1871~1911)や堺利彦(1870~1933)と共に退社した。
内村の非戦論の根拠は、二つあった。
その一つは、『新約聖書』の争闘を嫌う精神、殊にその無抵抗主義(「羅馬書」12章)である。
『聖書』の無抵抗主義の背景には、人は人を罰せず、劫罰(ごうばつ)は神の仕事である、という考え方があり、その考え方は、晩年の内村においては、キリスト再臨信仰によって強められたにちがいない。
他方、人の激しい攻撃に遭ったとき、無抵抗主義をとることで、みずからの心の平和を得たという個人的な経験も、その考え方を強めたらしい(「余が非戦論者となりし由来」、『聖書之研究』、1904年9月)。
いずれにしても内村は個人間の聖書的な無抵抗主義を国家間のそれへ拡大した。
彼の平和主義のもう一つは根拠は現実の歴史の観察である。
日清・日露の戦争をみて、彼は戦争が戦争を生むこと、平和のための戦争などというものはなく、戦争が終る毎に軍備はますます拡張されることを見破っていた。
「日清戦争は其名は東洋平和のためでありました、然るに此戦争は更らに大なる日露戦争を生みました、日露戦争もまた其名は東洋平和のためでありました、然し是れまた更らに更らに大なる東洋平和のための戦争を生むのであらふと思ひます」(「日露戦争より余が受けし利益」『新希望』、1905年11月)と内村が書いたのは、日本国中が戦勝に酔い、「殊に基督信者の最大多数が戦争の謳歌者であつた」ときである。そのとき日本国中が誤っていて、一人の内村だけが正しかった。
なぜ一人の内村は正しかったのか。
おそらく超越的な正義が彼の側にあったからではないし、また単に彼が現実を客観的に観察したからでもない。
そうではなくて、現実に超越する正義の立場にたちながら、しかもその立場と現実の条件との緊張関係が彼がみずから生きていたからにちがいない。 内村の著述のなかで『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(前掲)は、その生い立ちを短く説明した後、札幌農学校からアメリカ滞在の終りまでの精神的経歴を詳しく述べる。
しかし単に自己について語るばかりでなく、キリスト教と日本との関係についても語り、またキリスト教国としてのアメリカが彼にどう見えたかということについても語る。
このときすでに内村は、単に自己の内心を見つめる男ではなく、彼の外の世界を理解し、その意味を発見しようとする人間として、あらわれていた。
英語で書かれ、東京で出版されたこの本は、その後日本語ばかりでなく、多くの西洋語に訳された。
日本の外で内村が知られているとすれば、それは主としてこの本による。
彼の日本における影響は、主として講演や講義や研究会を通じてであった。
たとえば正宗白鳥は、彼の「月曜講演」(1898)にひきつけられていたし、小山内薫、志賀直哉、安倍能成(よししげ)、高木八尺(やさか)らは、「日曜聖書講義」(1902)に出席していた。
第一次大戦以後、内村の後半生は、聖書の研究とキリスト再臨問題に集中される。
その聖書の研究は、『全集』(20巻、岩波書店、1931~33)の5巻に収められるが、そのなかでも殊に優れているのは『羅馬書の研究』である。
当時集め得る文献を広く集め、原文に拠って訳語を検討し、一行毎に詳細な註釈を加えながらその意味を説く。
そのことはまた同時に、内村自身の信仰の内容を、そのあらゆる面にわたって、提示するものでもある。
文章は、内村の他の多くの文章にみられる誇張と華麗な装飾を絶って、簡素で明快、まことに緊密で、筆者の全人格をそこにかけた迫力にみちる。
これが内村の中心であるばかりでなく、明治以後の文学的散文の傑作の一つであることに、疑の余地はないのだろう。 内村は鉱毒事件に係り、平和主義の立場をとって、日清戦争以後、帝国主義的膨張を志向していた日本の社会に激しい批判を加えたが、みずから社会主義運動に参加はしなかった。
「基督教は天国の教へでありまして社会主義は此世を改良するための主義であります」(「基督教と社会主義」『聖書之研究』、1903年3月)。
しかしキリスト教が此世の秩序に無関心なわけではない。
たしかに内村が指摘したように、特定の社会改革案を提供はしなかったが(同上)、キリスト教は、社会正義の観念を明治の日本にももたらしたといえるだろう。果して安部磯雄(いそお<1865~1949>)を中心として、日本国で最初の社会主義政党(社会民主党、1901年結成)がつくられたとき、創立者6人のなかで幸徳秋水を除く他の5人はすべてのキリスト教徒であった。
その一人は内村の弟子で、もう一人は札幌農学校の出である。
社会民主党は、政策綱領に普通選挙法・貴族院廃止・軍備全廃・土地および資本の公有・交通機関の公有・教育の国家負担などを掲げ、その実現の手段として全く合法的な議会主義の立場をとった。
その創立の二日後に政府は社会民主党を禁止したのである。
(後略)
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)今朝の父の一枚です!
ジョウビタキ♀の尾が切れてしまったけど、コンデジの液晶画面を見て写すのは難しいと思います。
でも、可愛い顔を写しています(^^)v