数日前は寒波襲来で雪が降り、氷も厚かったのに…
今日は、3月並みの暖かさ(^-^;
晴れているのに霞がかかったようにぼんやりしていました。
「14日 3月並みの暖かさに」(えりの気象日記 1月13日) ラサール石井さんのTwitterに
熊本はいくつかの数字が「まだ」ステージ3だから、緊急事態宣言に入れてもらえなかった。
違うだろう。
ステージ3のうちに徹底的に対策して、ステージ4にいかなくしていれば、今のこの医療崩壊は避けられた。
経済も早く戻せた。
全く後手後手。結果感染も経済も共倒れ。
明らかに失策。
〝「爆発的な感染拡大を疑わせる水準」都内状況で専門家が危機感〟(NHK)
大阪も知事の変な自信で後手になった。
自衛隊に医療スタッフの派遣を依頼したこともあるのに…
〝「緊急宣言要請しないが、危機感持っている」吉村知事〟(産経新聞 1月4日)
1月14日
第3次南極観測隊がカラフト犬の生存を確認した。 1959(昭和34)年
南極観測船宗谷(そうや)から飛び立ったヘリコプターが1年ぶりで昭和基地の上空にもどったとき雪の上に何か動くものが見えた。
隊員たちは目を疑った。
それは二頭の犬だったからである。
前年、宗谷は厚い氷にはばまれて基地に近づけず、第2次越冬隊を送りこむのをあきらめねばならなかった。
観測隊はヘリコプターで11名の第1次越冬隊員を収容するのがやっとで、1年間苦労をともにした犬ゾリ隊の15頭のカラフト犬は無人の基地に置き去りにされた。
そのうち二頭のカラフト犬――タロとジロが厳しい南極の冬に耐えて生き残った。
二頭の犬は越冬隊が残してきたエサのほかに、ペンギンやアザラシをとって食べていたらしい。
また吹雪の時は雪穴を掘ってじっとうずくまっていたようだ。
ジロはその後南極で死んだが、タロは5年目に日本に帰り、北海道で余生をすごした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「南極に残されたタロー ジロー生存」(NHKアーカイブス 1959年)
「南極観測船 宗谷」(小学3年~6年)
同じく、1月14日の出来事として
天平21年(749.2.5)聖武(しょうむ)天皇・光明(こうみょう)皇后、行基(ぎょうき)を戒師(かいし)として授戒(扶桑略記)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「行基」(中学・高校)
行基は、魅力的な高僧だと思っています。
その足跡を訪ねたいと思っているけど、今は、自粛中……。
『梅原猛、日本仏教をゆく』より「行基 衆生を救済した民衆のカリスマ」を転記しますφ(..)
行基
衆生を救済した民衆のカリスマ
聖徳太子は中国の高僧、南嶽慧思(なんがくえし)の生まれ変わりであるという説が、日本ばかりか中国でも語られていたが、もしも太子が生まれ変わりを経験したとすれば、太子は誰に生まれかったのであろうか。
『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』によれば、太子は死の前に、「私はこの国の皇子(おうじ)として生まれて仏教を広めたが、次には貧しい家に生まれて衆生(しゅじょう)を救済したい」といったというが、この太子の生まれ変わりが行基(ぎょうき)であるという伝承が強くある。
この伝承は、日本における仏教の普及を考えるときに大変興味深い。
なぜなら、仏教は聖徳太子におって日本国の国教となったが、その仏教を民衆の底辺にまで及ぼしたのは他ならぬ行基であるからである。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
行基は、父を高志才智(こしのさいち)、母を蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)といい、河内国大鳥郡蜂田里(かわちのくにおおとりごおりはちたのさと)の地に生まれた。
父も母も渡来系の民である。
『行基大菩薩行状記(だいぼさつぎょうじょうき)』によれば、高志才智も決して身分は高くなかったが、彼がひどく貧しい女に通って生まれたのが行基であるという。
これはユダヤの貧しき女・マリアの私生児として生まれたイエス=キリストを思い出させる。
行基は、自らを旃陀羅(せんだら)の子といった日蓮(にちれん)より、もっと身分の低い貧しい女の私生児として生まれたといってよい。
このように生まれゆえに、彼は民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることができ、多くの衆生を救済することができたのであろう。
母はひどく貧乏で、賃金をもらって田植えの下請けの仕事をしたが、子どもの行基は母の代わりに1日で十畝以上の田植えをしたという。
彼はまた木をとって堂を建て、泥にて仏を作り、石を拾って塔廟を建て、砂の上に仏像を描いて遊んだという。
これは後年の行基の仕事を思わせる。
三つ子の魂百までであろうか。 行基は682(天武<てんむ>天皇11)、出家して、691年(持統<じとう>天皇5)、徳光(とくこう)を師として授戒(じゅかい)したが、その後、薬師寺(やくしじ)の道昭(どうしょう)についたという。
道昭は宇治橋(うじばし)を架けたことなどによって知られるように、仏教と社会事業を結びつけて精力的に活躍した僧である。
行基は法相(ほっそう)教学を学んだが、やがて山野にこもり、山岳修行者となる。
行基の活躍が目立つのは710年(和銅<わどう>3)、平城(へいじょう)に遷都(せんと)したころからである。
律令(りつりょう)制の完成に伴い、国家の統制が厳しくなるや、税の徴収を逃れるために僧になるものが多かったが、国は国家財政を安定させるためにも私度僧(しどそう)を禁じて、僧を厳しく取り締まった。
行基は、そのような僧の統制を乱す僧として正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』に登場する。
717年(霊亀<れいき>3)、行基及び弟子たちが妄(みだり)に町で罪福(ざいふく)を説き、百姓(ひゃくせい)を妖惑(ようわく)して物をせびり、進みては釈教(しゃくきょう)に違(たが)い、退きては法令を犯すものとして、国家から名指しで非難されているのである。
このような非難にもかかわらず、行基は民衆に対する布教をやめなかったらしい。
行基が死んだとき、『続日本紀』は前と180度異なる態度で行基をほめたたえ、その伝記を載せている。
「都鄙(とひ)を周遊して衆生を教化(きょうけ)す。
道俗化(どうぞくおもぶけ)を慕ひて追従(ついじゅ)する者(ひと)、動(ややも)すれば千を以(もち)て数(かぞ)ふ。
所行(ゆ)く処和尚(ところわじょう)来(きた)るを聞けば、巷(ちまた)に居(お)る人无(な)く、争ひ来りて礼拝(らいはい)す。
器(うつわ)に随(したが)ひて誘導し、威善(みなぜん)に趣(おもぶ)かしむ。
また親(みずか)ら弟子等(ども)を率ゐて、諸(もろもろ)の要害(ぬみ)の処に橋を造り陂(つつみ)を築(つ)く。
聞見ることの及ぶ所、咸(みな)来りて功(くう)を加へ、不日(ふにち)にして成る。
百姓今に至るまでその利を蒙(かがう)れり」
行基の評判は高く、行基が行けばそこに大勢の人が群れ集(つど)って彼の説法(せっぽう)を聞いた。
行基は比類なく雄弁に、聞く人の心にずしりずしりと響いてくるような仏教の教えの言葉を語ったにちがいない。 仏教のもっとも重要な戒律(かいりつ)が殺生戒(せっしょうかい)である。
殺生戒は、人間ばかりかすべての生きとし生けるものを殺すことを厳しくいさめる。
『日本霊異記(にほんりょういき)』には次のような話がある。 行基が説法をしたとき、その聴衆のなかに猪(いのしし)の脂を髪に塗った女がいた。
行基はその猪の脂の臭いから血を厳しくかぎつけ、その女を追い出した。
その話を読んで、私は行基の殺生を戒(いまし)める甚(はなは)だ厳しい態度に驚いたが、行基は、仏教の何たるかを知らぬ当時の民衆に、仏教の教義をいささか乱暴な手段を使って叩き込んだのであろう。
また先に挙げた行基の伝記には、漁夫が行基を軽んじて魚を奉ると、行基は素直にこれを食べたが、吐き出したら魚は生きた魚となって水に浮かんだという話がある。 こうして行基は単に仏教の教えを説くばかりではなかった。
彼は、師道昭にならって道を造り、橋を架け、池を掘り、布施屋(ふせや)という旅人が泊まることのできる家を建てたという。
かつて山岳修行者であった行基はこのようなことのできる工人集団の人たちをたくさん抱え、彼らを同行していたにちがいない。
そして行基集団が過ぎるところ、そこに道ができ、橋ができ、池が掘られ、布施屋という無料宿泊所ができて、その土地の人及び旅人が大変な恩恵を受けたのである。 このように行基はさまざまな社会事業を行ったが、彼の本職は僧である。
そして僧のいるところが寺である。
行基がとどまったところ、そこに道場ができた。
公には寺と認められないので、道場といったのであろう。
行基は畿内に49院を建てたというが、行基の死後25年目の773年(宝亀4)に、行基が建てた49院のうちの5院に田三町、一院に田二町を与える勅(ちょく)が出ている。
おそらく私立の道場であった49院は荒れ果てていたので、その一部を官によって保護しようとしたのであろう。授戒 仏教の集団で守るべき規則(戒律)を、儀式にしたがって受けること。受けるべき戒律の数は部派や性別、出家か在家かなどで異なるが、行基が受けたものは「具足戒」とよばれる戒律。
私度僧 奈良時代、正式な僧や尼になるには政府の許可が必要だったが、その許可を得ず、私的に僧尼になった者のこと。
戒律 仏教者が守るべき規則のこと。「戒」は自らが守るべき規範で、「律」は教団の中での規則。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
後日、続きを転記しますφ(..)
今朝の父の一枚です(^^)v
オナガモのつがいを何枚か写していました。
どの写真もメスの後をオスがついていっています。
かかあ天下かな?(*´▽`*)