2020年10月31日土曜日

検査の後に

来週、循環器科の診察があるので、朝一番に血液と尿の検査を受けてきました。
帰宅して朝食を食べた後、リハビリ散歩に行ってきました。
こんな時は、以前なら町歩きをしていたのですが、
皆さんのように電車に乗ってGO TO…なんてできないです(^-^;
病院で待ち時間に読んでいたのが『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代

 「あとがき」より

(前略)
 その決意を固めたきっかけは、前著(『都市と暴動の民衆史』有志舎、2015年)の刊行以後、歴史修正主義が行政まで入り込んでいることを痛感せざるを得なかったことが大きい。
これまで学界で積み重ねられた議論を私より若い世代の人に向けて「書き継ぐ」ことで、こうした動きに抗いたくなった。
 本書の企画をスタートさせる際に、三つの目標を立てた。
大学生にも手に取ってもらえる本にすること。
歴史の知識を増やすのではなく、歴史をとおして思考を深められる本にすること。
オリンピックの前に刊行すること。
三つ目の目標は予期せぬ形でクリアできたが、前者二つをクリアできたかどかは、読者のご判断を仰ぎたい。
(後略)
(『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』藤野裕子 中公新書 2020年)
ららら♪クラシック「大友直人が語る地方オーケストラの未来 ~琉球交響楽団の活動から~
故郷の沖縄に琉球交響楽団があることを知らなかった。
総勢38名の小さなオーケストラだけど、
オーケストラに触れる機会の少ない離島でも積極的に楽団員が出張公演を行っています。
沖縄交響歳時記」が欲しくなりました♪

大友直人&琉球交響楽団15年振りの新作をリリース!萩森英明“沖縄交響歳時記”」(タワーレコード)

大友直人さんが
沖縄は芸能がゆたかな地域…本当に子どもたち、それから大人も含めて、芸能に対するセンスと才能がゆたかな人たちが多い」
と話しておられました。
一方、大阪は、10年ほど前から府政・市政によって文化・芸術が痩せ細ってしまっています。
市長さんは経済は成長している、都合の悪い情報は捏造だと仰っていますが

Ⅱ 大阪の経済的地盤沈下についての研究:三大都市圏の比較から」(榊原雄一郎 関西大学)
10月31日
 秩父困民党(ちちぶこんみんとう)の蜂起(ほうき)がはじまった。 1884(明治17)年

 蜂起の予定日より一日早いこの日の夕方、一部の農民が巡査と衝突し、埼玉県秩父地方の農民の蜂起がはじまった。
翌日には武装した農民三千人が椋神社(むくじんじゃ)に集まった。
生糸(きいと)の値が下り生活に困った農民によって、8月ごろからつくられた困民党が農民に蜂起を呼びかけたのである。
「恐れながら天朝様(てんちょうさま<天皇>)に敵対するから加勢しろ」と農民に呼びかけた指導者もいた。
 農民の前で総理・会計長・参謀長などの役割分担が発表された。
夜8時、農民たちは行動を開始し、約300梃(ちょう)の銃を放って小鹿野(おがの)町になだれ込み、郡役所や高利貸をおそった。
2日には秩父大宮(現秩父市)に入り、ここを本拠に秩父地方を勢力下に入れた。
彼らは、この時以来「自由自治元年(じゆうじちがんねん)」という年号を使った。
驚いた政府は、軍隊を送り数日間かかってやっと農民軍を鎮圧した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
秩父事件については、先ほど紹介した『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』で最新の研究成果を知ることができます。
古い本ですが『日本の歴史21 近代国家の出発』より「殺到する農民軍」を転記しますφ(..)
資本主義創世記(二)
 殺到する農民軍


 10月31日、風布(ふうぷ)村で最初の蜂起がおこったとき、大臣出迎えのため行田(ぎょうだ)にいた埼玉県警察の鎌田沖太(かまたおきた)警部は、すぐに寄居(よりい)にかけつけたが、出動させるべき警官はひとりもいなかった。
そこでかれは笹田少書記官・江夏警部長に救援をもとめた。
その江夏の救援隊40名が皆野(みなの)に到着したのは、すでに11月1日の夕ぐれに近かった。
それからかれらは皆野を本部ときめたが、昨夜の徹夜警護のために疲れはてていた警官は、ものの役にたたなかった。
やむなくその夜は皆野に籠城(ろうじょう)
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
 その間に1日深夜、椋神社を進発した蜂起軍の本隊が、小鹿野町をめざして急進撃していた。
 2日、午前3時、江夏警部長はついに憲兵に頼るほかないと判断、すぐに使者を県庁に送った(このとき秩父地方には電信施設がなかった)。
 農民軍はほとんど抵抗をうけずに2日未明、小鹿野に突入。
すぐに警察分署に銃撃をあびせ、悪質高利貸7、8軒を打ちこわし、または焼きはらった。
さらに、そこから3隊に分かれて各戸長役場に散り、公証簿を焼きすて、猟銃台帳を没収した。
こうして、負債の証拠を抹殺しながら、まだ暴動に加わっていない農民の銃と弾薬を徴発しつつ、激流のように水かさを増して秩父の谷あいを荒れまわったのである。
 埼玉県庁に残留して指揮をとった笹田少書記官が憲兵の依頼を、内務卿山県有朋にむけて打電したのは、2日の午前11時すぎ。
それにたいして、清浦奎吾(きようらけいご)警保局長からの「今夜十一時、別仕立(べつしたて)列車デ憲兵一小隊送ル」の返電をうけとったのが午後8時50分。
 笹田はこの間、大迫貞清(おおさこさだきよ)警視総監に電報を打ち、警視庁の巡査100名を引きつづき貸与してくれるよう申しいれたり、隣接7県に情報を発信したりしている。
 一方、現地では皆野にもうけた警察本部を寄居に後退させ、出張先からかけつけた埼玉県令吉田清英(よしだきよひで)のもとに前線指揮所がつくられた。
 農民軍の主力はというと、小鹿野から反転して、道々勢力を増し、大宮郷(現在の秩父市)むかって突進していた。
この大宮乱入の模様は、秩父郡長伊藤栄のなまなましい話を聞くのがおもしろい。
かれは郡役所を逃げだして裏の丘にはい上がり、ふるえながら遠望していたのだ。
 2日、午前11時半ごろ、荒川の対岸、寺尾(てらお)村にある観世音(かんぜおん)の釣鐘が突き鳴らされた。
それからときの声があがり、白旗を7、8本押したて、ほら貝を吹き鳴らした軍勢が見え、竹の鼻の渡しに鉄砲100梃(ちょう)ほどをうちかけた。
いっきょに渡河(とか)した数千の群衆は喚声をあげながら郡役所前を通過し、警察署にむかって5、60発銃撃し、治安裁判所へおしよせ、みるまに両庁とも打ちこわしてしまった。
「やがて郡役所へ廻ってきたのです」と伊藤郡長は泣きそうにいう。
  「それは二時ごろで、賊は本官にむかって発砲しますので、命からがら武甲山(ぶこうざん)の山腹をよじのぼって上名栗(かみなぐり)村に出、そこの戸長の家にかくれました。すると裁判官や巡査ら八名も逃げてきましたので、それから神奈川県の箱崎(はこざき)村をへて所沢(ところざわ)に出、ようやく着県仕(つかまつ)った次第です」と(11月3日の筆記)。
 そのころ参謀長の菊池貫平(きくちかんぺい)は、郡役所を占領すると、すぐ門柱の表札をはずして、かんなで削らせ「革命本部」と書いてかけなおした。
さらに総理の田代栄助(たしろえいすけ)の名で、
  「 今日より郡中の政則を出すこと大将の権に在り
     各(おのおの)其意を体せよ
              革命軍総理 田代栄助 」
との布告をはりだした。
(『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫 2006年改版)
昨日届いた「アソビカメラ
サイトを見ていてスマホがないと不便だろうなと思っていたけど、
年月日と時間の設定が2000年1月1日0時になっていて、変更はスマホでするようになっている。
ということで、20年以上前の画像になっている(^^ゞ
スマホを持っていると画像をスマホに転送できるのだけど、σ(^-^;はガラホ
画像データをパソコンに移すのには、microSDカードを抜き差しするのだけど、つまめないので毛抜きを使っています。
それでも購入したのは、空を見上げると雲を写したくなる。
で、「焦点距離:25.4mm(35mmフィルム換算値)」なのと防水だということで購入しました。
撮影した画像が見られないのは、フイルムカメラの時代と同じ(^_-)
画質を見ると、このブログの記事にするには十分だと思います(縮小しています)。
これからマクロや望遠では、写しにくい風景をアソビカメラで撮影していきます。
(街歩きには、メモ用のコンデジを使用しています。画像を確認しないと不安なので…)

雲を写したいと思って購入したけど、今日は雲が…(T_T)