花に顔を近づけている方に香りますか?とお聞きすると、「ええ」と返事が返ってきました。
これまでは香りを楽しんでいただけなのに、嗅覚異常のチェックにもなって
香りを楽しむのは実用的な面もある時代になりました…
ちなみに「ロウバイ」は、「老梅」、「狼狽」でなく「蝋梅」(^^ゞ
「政府と大阪府はなぜ感染爆発の予兆を見逃したのか? 情報公開の消極性が一因に」(高橋義明 JBpress )
2階で寝ていたのだけど、直後に激しい揺れ、揺れがおさまるまで動けませんでした。
26年経ったけど記憶を風化させてはいけない。
日本は、自然災害に幾度も見舞われてきました。
過去の記憶を継承することは、今を生きていくうえで大切なこと。
『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』より「まえがき」を転記しますφ(..)
まえがき
活動期に入った地震列島
わたしたちの生活は、日本列島上で営まれている。
だから、列島の自然と切離して考えることはできない。
この列島の大地が、現在活動期に入っていると言われる。
20世紀の後半はどちらかというと災害の少なかった時期であった。
それが変化する始まりは、阪神淡路大震災だ。
平成7年(1995)1月17日の明け方に起きたこの地震では、6437人の犠牲者が出た。
地震の大きさを示すマグニチュード(M)は7.3。
都市災害の脅威をまざまざと見せつけられた。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
その後の大きな地震を年表ふうにあげてみると、次のようだ。
平成12年(2000)10月6日 鳥取県西部地震 M7.3
平成13年(2001)3月24日 芸予(げいよ)地震 M6.7
平成15年(2003)5月26日 三陸南地震 M7.1
同 年 7月26日 宮城県沖地震 M6.4
同 年 9月26日 十勝沖(とかちおき)地震 M8.0
平成16年(2004) 9月5日 紀伊半島南東沖地震 M7.1
同 年 10月23日 新潟県中越(ちゅうえつ)地震 M6.8
平成17年(2005)3月20日 福岡県西方沖地震 M7.0
平成19年(2007)3月25日 能登半島地震 M6.9
同 年 7月16日 新潟県中越沖地震 M6.8
平成20年(2008)6月14日 岩手・宮城内陸地震 M7.2
このうち最も大きな被害となったのは中越地震で、家屋の全半壊は1万6985棟、死者68人、その多くが高齢者であった。
3年後の中越沖地震では、柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原子力発電所が世界で初めて地震によってごく軽度ではあったが被災している〔宇佐美他『日本地震被害総覧 599-2012』東京大学出版 2013〕。
地震と並ぶ自然災害に、火山の噴火がある。
平成12年(2000)に起きた三宅島雄山(みやけじまおやま)の噴火では、住民が全島避難を余儀なくされ、いまだに多くの住民が帰島できていない。
平成3年・4年(1991・92)には雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)の噴火があった。
平成3年6月3日の火砕流では一挙に43人が犠牲になっている。
M9.0の巨大地震は大津波を引き起こし、死者・行方不明者あわせて2万1935人という大災害となった。
これに東京電力福島第一原子力発電所の事故が加わり、多くの住民が故郷を追われることになった。
同年9月の台風12号による豪雨で、全国で死者・行方不明者92人という被害が出た。
とくに紀伊半島で大規模な土砂崩れが発生し、熊野川が氾濫(はんらん)した。
平成26年(2014)8月20日には、広島市北部で集中豪雨による土砂災害で74人が亡くなっている。
同じ年の9月27日、多くの登山者がいた御嶽山(おんたけさん)で水蒸気爆発が起き、死者58人・行方不明者5人という被害が出たことも記憶に新しい。
このところ災害報道はとぎれるときがない。
災害と歴史学
20世紀から21世紀への変わり目は、第二次世界大戦後続いてきた世界の情勢が大きく転換する時期でもあった。
「東西冷戦体制」の終結とともに世界各地で局地紛争が激発し、市場万能主義が謳歌(おうか)されるなか国際的にも国内的にも格差構造が深まり、深刻な「貧困」が広がった。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きる。
ニューヨークの世界貿易センタービル崩壊は衝撃的で、この「同時多発テロ」事件全体の犠牲者は3000人を超えると言われている。
これに続くアフガニスタン侵攻やイラク戦争から、世界はテロと報復の連鎖という泥沼に陥る。 この出来事は21世紀の世界が直面するに違いない課題を突きつけたが、わたしたちはその後の世界政治の動きに有効に対処できているとはとても言えない。
2011年3月11日以降に起きている出来事も、同じように、21世紀のわたしたちの生活文化のあり方を根本的に問い直すことを促すものであった。 しかし、現実は真っ直ぐには進まない。
紆余曲折(うよきょくせつ)する動きに抗しながら、未来を見据えていかなければならない。
そんな厳しいステージが続いている。
これからも世界は10年単位ぐらいのガラッガラッと大きく変わっていくだろう。
地球上に暮らす限り、わたしたちは自然がもたらす災害から逃れることはできない。
わたしたちは、自然の変化にうまく対処する方法を見つけ出しながら、生存を長引かせるしか道はないだろう。
そのために、過去の人びとが自然や災害とどうのように付き合ってきたか、歴史に学ぶことは少なくないはずだ。
ところが、災害についての歴史研究は、とても十分だと言えるような状況ではない。
地震に限ってみても、関連する文献資料の収集すら地震学者が先行する状況であった。
もちろん自然災害の理解のためには自然科学の研究成果に依拠しなければならないことは言うまでもない。
しかし、歴史学固有の役割もあるはずだ。 とりわけ、自然災害は種類によって発生などのメカニズムが異なるために、自然科学では対象とする災害によって個別化せざるをえない。
それに対して歴史学においては、さまざまな災害を通じて人びとや社会がどのように反応したかを総合的に問うことができる。
いわゆる「災害の社会史」といったものである。
そしてさらには、災害を通じて作り出された「生存」のシステムについて検討してみることも必要だろう。
本書では、江戸時代、徳川日本の経験を振り返ることで、そのことを考えてみようと思う。 江戸時代は、江戸に徳川幕府が開かれた時期を指している。
徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられたのは慶長(けいちょう)8年(1603)、徳川慶喜(よしのぶ)が将軍職を解かれたのが慶応(けいおう)3年(1867)だ。
厳密に言えばこの期間が江戸時代ということになるが、前後をもう少し広げて考えるのが一般的だ。
本書では、江戸時代を四つの時期に分けて、それぞれの時期の特徴が明らかになるように述べてみたいと思う。
また、各時期の区切りにコラムを設け、災害の記憶と記録について話題を提供することにした。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリを写していました。
1月17日の朝、両親は、いつもなら朝食を朝食を食べていた時間ですが、
たまたま母は食事を終えて、席を立っていました。
地震で冷蔵庫の上に載せていたホットプレートが落ちてきました。
そこは母が座って食事をしている席でした。
人の運命は分りません。
神戸で被災した方も、生きるか死ぬかは、ほんの少しの違いだったと思います。
除草されてガガイモの果実が見られないなと思っていたら発見しました(^^)v
大国主命の国づくりを手伝いにガガイモの莢(さや)でできたアメノカガミの船でやって来たのが少彦名命(すくなひこなのみこと)。
少彦名命をご祭神にしているのが道修町の少彦名神社(神農さん)。
大阪府 神農の虎[コレラ除け]
江戸時代の人は「コレラ」で「コロリ」と死んでしまいました
大阪市のほぼ中央にある道修町(どしょうまち)は薬問屋が集った街で、今は製薬会社が多く立ち並ぶ「薬の街」です。
この街には、薬の神様である少彦名命と、中国の薬祖「神農」を祀(まつ)る、少彦名神社があります。
江戸時代に大阪ではコレラという伝染病が流行しました。
昔の人はコレラを、コロリとしんでしまうことから「コロリ」と呼んだそうです。
そこで道修町の薬問屋は、強い動物といわれる虎の頭の骨を配合した丸薬を作り、少彦名神社で祈禱した張子の虎といっしょうに人びとにわけました。
毎年11月22日と23日の2日間、少彦名神社では神農祭がおこなわれます。
道修町は少彦名神社に併設される「くすりの道修町資料館」や、
大国主命の国づくりを手伝いにガガイモの莢(さや)でできたアメノカガミの船でやって来たのが少彦名命(すくなひこなのみこと)。
少彦名命をご祭神にしているのが道修町の少彦名神社(神農さん)。
大阪府 神農の虎[コレラ除け]
江戸時代の人は「コレラ」で「コロリ」と死んでしまいました
大阪市のほぼ中央にある道修町(どしょうまち)は薬問屋が集った街で、今は製薬会社が多く立ち並ぶ「薬の街」です。
この街には、薬の神様である少彦名命と、中国の薬祖「神農」を祀(まつ)る、少彦名神社があります。
江戸時代に大阪ではコレラという伝染病が流行しました。
昔の人はコレラを、コロリとしんでしまうことから「コロリ」と呼んだそうです。
そこで道修町の薬問屋は、強い動物といわれる虎の頭の骨を配合した丸薬を作り、少彦名神社で祈禱した張子の虎といっしょうに人びとにわけました。
毎年11月22日と23日の2日間、少彦名神社では神農祭がおこなわれます。
道修町は少彦名神社に併設される「くすりの道修町資料館」や、
製薬会社の薬の展示室が設けられていて、「道修町ミュージアムストリート」と呼ばれます。
(『全国厄除け郷土玩具』中村浩訳 誠文堂新光社 2020年)
26年前、神戸から遠く離れていたのにゴーッという音で目が覚めました。2階で寝ていたのだけど、直後に激しい揺れ、揺れがおさまるまで動けませんでした。
26年経ったけど記憶を風化させてはいけない。
日本は、自然災害に幾度も見舞われてきました。
過去の記憶を継承することは、今を生きていくうえで大切なこと。
『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』より「まえがき」を転記しますφ(..)
まえがき
活動期に入った地震列島
わたしたちの生活は、日本列島上で営まれている。
だから、列島の自然と切離して考えることはできない。
この列島の大地が、現在活動期に入っていると言われる。
20世紀の後半はどちらかというと災害の少なかった時期であった。
それが変化する始まりは、阪神淡路大震災だ。
平成7年(1995)1月17日の明け方に起きたこの地震では、6437人の犠牲者が出た。
地震の大きさを示すマグニチュード(M)は7.3。
都市災害の脅威をまざまざと見せつけられた。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
その後の大きな地震を年表ふうにあげてみると、次のようだ。
平成12年(2000)10月6日 鳥取県西部地震 M7.3
平成13年(2001)3月24日 芸予(げいよ)地震 M6.7
平成15年(2003)5月26日 三陸南地震 M7.1
同 年 7月26日 宮城県沖地震 M6.4
同 年 9月26日 十勝沖(とかちおき)地震 M8.0
平成16年(2004) 9月5日 紀伊半島南東沖地震 M7.1
同 年 10月23日 新潟県中越(ちゅうえつ)地震 M6.8
平成17年(2005)3月20日 福岡県西方沖地震 M7.0
平成19年(2007)3月25日 能登半島地震 M6.9
同 年 7月16日 新潟県中越沖地震 M6.8
平成20年(2008)6月14日 岩手・宮城内陸地震 M7.2
このうち最も大きな被害となったのは中越地震で、家屋の全半壊は1万6985棟、死者68人、その多くが高齢者であった。
3年後の中越沖地震では、柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原子力発電所が世界で初めて地震によってごく軽度ではあったが被災している〔宇佐美他『日本地震被害総覧 599-2012』東京大学出版 2013〕。
地震と並ぶ自然災害に、火山の噴火がある。
平成12年(2000)に起きた三宅島雄山(みやけじまおやま)の噴火では、住民が全島避難を余儀なくされ、いまだに多くの住民が帰島できていない。
平成3年・4年(1991・92)には雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)の噴火があった。
平成3年6月3日の火砕流では一挙に43人が犠牲になっている。
(「帰島10周年までのあゆみ」東京都三宅支庁)
そして平成23年(2011)3月11日に東北地方太平洋沖地震が起きる。M9.0の巨大地震は大津波を引き起こし、死者・行方不明者あわせて2万1935人という大災害となった。
これに東京電力福島第一原子力発電所の事故が加わり、多くの住民が故郷を追われることになった。
同年9月の台風12号による豪雨で、全国で死者・行方不明者92人という被害が出た。
とくに紀伊半島で大規模な土砂崩れが発生し、熊野川が氾濫(はんらん)した。
平成26年(2014)8月20日には、広島市北部で集中豪雨による土砂災害で74人が亡くなっている。
同じ年の9月27日、多くの登山者がいた御嶽山(おんたけさん)で水蒸気爆発が起き、死者58人・行方不明者5人という被害が出たことも記憶に新しい。
このところ災害報道はとぎれるときがない。
災害と歴史学
20世紀から21世紀への変わり目は、第二次世界大戦後続いてきた世界の情勢が大きく転換する時期でもあった。
「東西冷戦体制」の終結とともに世界各地で局地紛争が激発し、市場万能主義が謳歌(おうか)されるなか国際的にも国内的にも格差構造が深まり、深刻な「貧困」が広がった。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きる。
ニューヨークの世界貿易センタービル崩壊は衝撃的で、この「同時多発テロ」事件全体の犠牲者は3000人を超えると言われている。
これに続くアフガニスタン侵攻やイラク戦争から、世界はテロと報復の連鎖という泥沼に陥る。
2011年3月11日以降に起きている出来事も、同じように、21世紀のわたしたちの生活文化のあり方を根本的に問い直すことを促すものであった。 しかし、現実は真っ直ぐには進まない。
紆余曲折(うよきょくせつ)する動きに抗しながら、未来を見据えていかなければならない。
そんな厳しいステージが続いている。
これからも世界は10年単位ぐらいのガラッガラッと大きく変わっていくだろう。
地球上に暮らす限り、わたしたちは自然がもたらす災害から逃れることはできない。
わたしたちは、自然の変化にうまく対処する方法を見つけ出しながら、生存を長引かせるしか道はないだろう。
そのために、過去の人びとが自然や災害とどうのように付き合ってきたか、歴史に学ぶことは少なくないはずだ。
ところが、災害についての歴史研究は、とても十分だと言えるような状況ではない。
地震に限ってみても、関連する文献資料の収集すら地震学者が先行する状況であった。
もちろん自然災害の理解のためには自然科学の研究成果に依拠しなければならないことは言うまでもない。
しかし、歴史学固有の役割もあるはずだ。 とりわけ、自然災害は種類によって発生などのメカニズムが異なるために、自然科学では対象とする災害によって個別化せざるをえない。
それに対して歴史学においては、さまざまな災害を通じて人びとや社会がどのように反応したかを総合的に問うことができる。
いわゆる「災害の社会史」といったものである。
そしてさらには、災害を通じて作り出された「生存」のシステムについて検討してみることも必要だろう。
本書では、江戸時代、徳川日本の経験を振り返ることで、そのことを考えてみようと思う。 江戸時代は、江戸に徳川幕府が開かれた時期を指している。
徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられたのは慶長(けいちょう)8年(1603)、徳川慶喜(よしのぶ)が将軍職を解かれたのが慶応(けいおう)3年(1867)だ。
厳密に言えばこの期間が江戸時代ということになるが、前後をもう少し広げて考えるのが一般的だ。
本書では、江戸時代を四つの時期に分けて、それぞれの時期の特徴が明らかになるように述べてみたいと思う。
また、各時期の区切りにコラムを設け、災害の記憶と記録について話題を提供することにした。
(『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』倉地克直 中公新書 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アトリを写していました。
1月17日の朝、両親は、いつもなら朝食を朝食を食べていた時間ですが、
たまたま母は食事を終えて、席を立っていました。
地震で冷蔵庫の上に載せていたホットプレートが落ちてきました。
そこは母が座って食事をしている席でした。
人の運命は分りません。
神戸で被災した方も、生きるか死ぬかは、ほんの少しの違いだったと思います。