今朝も雨が降っていました。
山を歩いていた時の雨具を久しぶりに着ました。
2011年7月31日に発病してからは雨具を着ていなかったので10年ぶりです。
昨日は、ズーッと雨が降っていたのだけど、今日は、途中で傘を閉じるほど。
でも、車に乗って駐車場を出るとワイパーを動かすほどの雨になりました。
昨日、ある番組の発言がトレンドに入っていたのでホ~ッと思った。
関西の民放の情報番組は見ていないのでなんとも言えないのですが
盛田隆二さんのTwitterに
辛坊治郎氏、コロナ感染拡大に「だからGoTo関係ないだろ!」
そもそもGoToはコロナが収束してから開始する政策だったが、辛坊氏はそのことを忘れてるんだろうか。
この論理で行くと「感染拡大とは関係ないんだからGoToで経済回せ」との主張になるが、そう言いたいのだろうか?
〝辛坊治郎氏 コロナ感染拡大に「だからGoTo関係ないだろ!」〟(東スポ 1月24日)
感染症が広がる要因に人の移動と人口密集があるのは、専門家でない私でも承知している。
そして「新型コロナ 国内の死者が5000人超える 最多は大阪府」(NHK)なんだけど…
文政5年に大坂で爆発的に大流行し、未曾有の惨状をしめしたのがコレラです。
現代のように交通手段が発達していない、鎖国をしていた江戸時代です。
『病が語る日本史』よりコレラについて転記しますφ(..)
六 コレラの恐怖
コレラは激しい下痢と嘔吐(おうと)を伴う法定伝染病である。
コレラにはアジア型コレラとエルトール型コレラの2種類がある。
現代のコレラはエルトール型である。
1960年代にエルトール型コレラが急激にふえて、アジア型が消えていった。
それで1964年のWHO総会でエルトール型コレラが国際検疫伝染病に指定された。
日本では空港や港湾での検疫によって、海外から持ち込まれることを抑えてきた。
エルトール型コレラの70から80パーセントが軽傷であることから、確かに昔のように恐ろしい伝染病ではなくなった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年) 事実、平成6年まで年間コレラ患者数は70人足らずであったのが、平成7年は274人に急増している。
症状が軽いために入国時に見逃されて、国内で感染源になることもある。
海外旅行をまったくしていない人がコレラになった例が報告されている。
また、アジア型コレラが完全になくなったわけではない。
これらが、突然、大流行することも否定できない。
コレラはまだ油断のできない伝染病である。 コレラは、紀元前400年ごろからインドのガンジス河およびブラマプトラ河下流のデルタ地帯に限定して流行した病であった。
それが、18世紀に入って、ヨーロッパ人がインドへ進出したあと、世界に広がったのである。
コレラが世界流行した最初は1817年であった。
それから6回も政界大流行をひきおこしている。 コレラの最初の世界流行は1817年8月にカルカッタで始まった。
それはアジア全土、ヨーロッパの一部、アフリカのザンビア、中国、ロシアの南部、朝鮮、日本にまで広がり、足かけ10年経った1826年にようやく終わったのである。
インド全土に広がったコレラは、1820年に三つのルートを通って世界各地へ広がった。
日本へはインドから東南アジアに出て、20年にジャワ、21年にボルネオで流行したあと、広東に向かい、22年に北京に入り、朝鮮半島を経て対馬(つしま)に渡り、22年(文政<ぶんせい>5)8月に、対馬から長門(ながと)に上陸したのである。 実はこの年のはじめ、長崎の出島に住むオランダ商館長ブロムホフが、幕府に挨拶するために江戸にやって来た。
そのときジャワでコレラが流行している情報を蘭学者桂川甫賢(かつらがわほけん)と宇田川玄真(うだがわげんしん)に与えていた。
ブロムホフは「自分が1821年の夏、ジャワ島バタビアを出発するとき、一種の流行病がはやり、原住民もヨーロッパ人もこの疫病にかかって、無数の者が死亡していた。この病気はラテン語でコレラという」といって、1820年にジャワ島バタビアでコレラが流行したとき、オランダ人医師が著した体験記を桂川甫賢に与えた。 この本には、コレラの説明と治療法が書いてあった。
玄真は養子宇田川榕庵(ようあん)に、その日に聞いたコレラの話をすると、榕庵は、桂川がブロムホフからもらった本を一日の約束で借り出し、徹夜で訳したのであった。
日本で最初のコレラ書である。 1 日本最初、文政5年のコレラ流行
日本には最初の世界流行のとき、鎖国下であったにもかかわらず、コレラが下関に上陸した。
文政5年(1822)のことであった。
ブロムホフがコレラの話を江戸で伝えてから数ヵ月後、シーボルトが来日する前年であった。
下関に流行する前、朝鮮半島を経て対馬で大流行していた。
人々は嘔吐、下痢で突然発病して、絞るように腹が痛み、二、三日経たずに死んでいった。
死者の数は1日に二、三百人もいたという。 だれもコレラについてまったく知らなかった。
手を尽くす暇のないまま、病はあっという間に下関から萩(はぎ)へと広がった。
発病して三日の内にコロリコロリと死ぬために、この奇病を三日コロリあるいはコロリと呼んだのである。
コレラは破竹の勢いで、萩からさらに広島、岡山に広がり、さらに兵庫と、山陽一帯で流行して、大坂で爆発的に流行した。
しかし、大坂の流行も10月に入ると、ようやく終わりの兆しが見えてきたのである。 流行地では、どこでもたくさんの死者が出たが、中でも長門(ながと)と大坂の流行がひどかった。
その様子を大坂に住んでいた蘭学者斎藤方策(さいとうほうさく)は手紙で友人に知らせている。
そのなかで、大坂では1日に二、三百人の埋葬が行なわれている。
大坂の流行は、西国から来て、安治川(あじがわ)に停泊していた船から発生した。
病の恐ろしさを知らなかった宿屋の主は、その患者を泊めた直後に、家族全員が発病したと書いていた。 コレラは、宿から川に沿って市内に広がって、全市がコレラに汚染されてしまった。
とくに船着き場付近でたくさんの患者が発生した。
水の都、大坂は、水路を介して感染するコレラにとって、猛威を振るう条件が整っていた。
人々は未曾有(みぞう)の惨状を見せる、この病にまったくなす術(すべ)がなかったのである。 江戸の医師たちは、この病をはじめて目撃した医師から手紙を受け取っていた。
桂川ら蘭学者は集まり、果してこの病がブロムホフのいうコレラであるか否か検討していた。
その結果、大坂の病気がコレラであるということになったが、コレラの予防法には気づかなかった。
コレラを古来からの霍乱(かくらん<急性伝染性胃腸炎>)ぐらいに考えていた。
世界流行する伝染病であることを見逃したのである。
せっかくブロムホフから得た情報もこのときの流行には役に立たなかった。(「2 次々とおこる世界流行」は省略)
3 安政のコレラ大流行
安政5年6月19日に日米修好通商条約が調印されて、鎖国は終わった。
しかし、それより一ヵ月前の5月21日(陽暦7月1日)、上海から長崎港に入港したアメリカ船ミシシッピ―号の船員がコレラに感染していた。
船員が長崎の出島に上陸してから約十日後の6月2日に、20人から30人のコレラ患者が発病した。
コレラはまたたくまに長崎市内に広がった。
長崎からさらに中国、関西に広がり、6月下旬に東海道沿いの町で流行して、7月に江戸へ侵入した。 始まりは海岸沿いの赤坂、霊岸島(れいがんじま)、築地(つきじ)、芝海岸地帯、佃島(つくだじま)に限局していた。
8月になると、江戸の町から近郊まで急速に広がり、8月中旬にピークに達した。
町は病人と死者に溢(あふ)れた。
その悲惨なありさまは、『安政箇労痢(コロリ)流行記概略』にくわしく書かれた。
未曾有の数の死者に棺桶(かんおけ)の数が間に合わず、酒樽(さかだる)を棺桶にしたが、火葬が追いつかず、火葬場は棺桶で溢れたのであった。
人々は恐怖のどん底に突き落とされていた。
8月に江戸横山町の地紙問屋の中屋萬衛門が、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)公に宛てた手紙の中で、「町には死人が多く、毎日、蔵前(くらまえ)通りを二百五十くらいの葬列が通る。一家全滅した家も多く、馬喰町(ばくろちょう)周辺の旅館は滞在中の人もたくさん死んだ。泊り客も、長期滞在者もほとんどなく、江戸の町は不景気になり、商人がとても困っている。また、関西方面の流行のために街道は上り下りも人通りが途絶えるなど、前代未聞のことが起こっている。水戸ではまだコレラの流行がないそうだが、水戸街道筋も土浦のあたりまで流行が広がっているようだ」と、コレラの流行の様子を書き送ったのであった。 9月に入ると、江戸の流行は終息し始めて、下旬にぱったりと止まり、町はようやく落ち着きを取り戻したのであった。
江戸で大流行したコレラは、8月に東北方面に広がって、9月(陽暦10月)の終わりにようやく終息したのであった。( 「安政箇労痢流行記概略」14/27 国立公文書館)
江戸の火葬場に山とつまれた棺桶
安政5年のコレラ大流行で、死人が続出し、おおわらわの様子を描いている
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
今朝の父の一枚です(^^)v
今日もゴイサギに出会っていました。
なんか白目になっているみたいですが、「瞬膜(しゅんまく)」 といって目を保護する働きをします。
人の目にもそのなごりがあるそうです。
「鳥の目が白く見えることがあるのは、どうしてですか?」(「教えて?安西さん」日本野鳥の会)