今朝は、あまり風がなかったので助かりました。
予報を見ていると木曜日あたり、かなり気温が低くなるようです。
「週間天気予報: 大阪府」(気象庁)クヌギの枝にハラビロカマキリの卵鞘(らんしょう)が並んでいました。
二つ並んでいるのは初めて見ました。
「カマキリの冬ごし」(小学3~6年)
正月三が日は、ぼやくのを自粛していましたが…
今日から仕事始めのところもあるので(^_-)
なかのとおるさんのTwitterに
「世界産」ワクチン… 日本語がようわかりませんな
知事さんのTwitterには支持者の方が賛辞を送っていますが
知事や市長は都合のいい時だけ利用して、自分たちの手柄にしていると思う。
リプの中に以前、H氏が市長の時代のことが引用されていました(支持者の皆さんは無視されているようです)。
「大阪バイオ研、3月解散へ 大阪市が補助金打ち切り 理研に譲渡」(産経WEST 2015年2月3日)
大阪維新の時代になって文化・芸術、医療だけでなく科学も痩せ細っている。
(〝最澄 旧仏教と果敢に戦った「澄んだ人」〟の続きです)
この最澄の帰山の要求に対して、空海は泰範に代わって最澄に手紙を書く。
泰範が帰山を断る理由は空海は述べ、さらに天台と真言密教の優劣にまで論は及んでいる。
最澄は天台も真言も同じものだというが、それはまったく違う、真言のほうが天台よりはるかにすぐれた仏教であると空海は強引に最澄に論戦を挑んでいるが、なぜかあれほど論戦の得意な最澄は相応じず、ただ哀願するばかりであった。
私は空海の大崇拝者であるが、この往復書簡を読むかぎり、最澄に同情を禁じ得ない。
純粋で一本気の最澄が、世間を知り尽くした空海に手玉にとられている感じである。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
最澄の晩年は、二つの論争に終始したように思われる。
一つは奈良仏教を代表する徳一(とくいつ)との間の仏性(ぶっしょう)に関する論争である。
最澄は「法華経」にもとづいて、すべての人間は仏性をもっていて、必ずいつかは仏になれると主張したのに対し、徳一は法相宗(ほっそうしゅう)の教義にもとづいて、人間には仏性をまったくもたない人や仏性をもっているかどうか分からない人があり、すべての人が仏になることはできないと主張した。
残念ながらこの論戦に関しては最澄側の論文しか残されていないが、最澄の反論の立て方は、経典の上に立ち実証的でかつ論理的である。
これはわが国の論争史において最高の学問的水準を示す論戦であろう。
この、すべての人間に仏性があり、必ずやどんな人でも何度か生まれ変わるうちに仏になれる、という主張は鎌倉仏教にも受け継がれ、日本仏教の大きな特徴となるのである。
最澄のもう一つの論争は、延暦寺(えんりゃくじ)に大乗戒壇(だいじょうかいだん)を設立すべきかどうかという論争である。
僧になるにはやはり戒を受ける必要があるが、その戒を受けるには東大寺(とうだいじ)の戒壇院などの奈良仏教の管下に立つ寺において受けなければならない。
とすれば、せっかく最澄が養った弟子たちも、正式に僧になるには東大寺など戒を受けなければならない。
それに奈良仏教の僧たちと親しくならねばならず、戒を受けて延暦寺に帰らない弟子も多かった。
それゆえに延暦寺に戒壇を設けることは、新しい仏教である天台宗の死活に関わることであった。
最澄は嵯峨天皇に再三要請したが、奈良仏教の反対にあい、なかなか実現できなかった。
そこで新しい戒壇の設立を最澄は主著とされる『顕戒論(けんかいろん)』で主張する。
奈良仏教の戒は真に大乗仏教の戒とはいえず、小乗(しょうじょう)仏教(*3)の戒も交じった不純な戒であり、一向(いっこう)大乗戒、すなわち純粋な大乗仏教の戒を与える戒壇はまだ日本になく、それを叡山に作るべきだと最澄は主張する。
最澄は、この一向大乗戒の戒壇はインドに中国にもあると考えているが、実は最澄のいう一向大乗戒の戒壇なるものはどこにもなかったのである。
そしてこの戒は奈良仏教のような煩雑(はんざつ)でしかも外面的な戒ではなく、簡単でしかも内面的な戒でなければならぬと彼は強く主張する。
この一向大乗戒の戒壇の設立は最澄の生きているうちには許可されず、死後七日目に、残された門弟の奔走と藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らの援助によって実現されたのである。
哲学者の上山春平(うえやましゅんぺい)氏は、儒教が日本に輸入されるが礼(れい)の思想(*4)は輸入されなかったように、仏教が日本に輸入されても戒の思想は輸入されなかったという。
確かに上山氏の言うように、最澄による一向大乗戒は、煩雑な戒律を簡単化し内面化したことは否定できない。
最澄はいたずらに煩雑で形式的な戒律を捨てて、戒を簡単化し内面化したが、その代わりに、彼は懺悔(さんげ)の必要を強調する。
この最澄の戒律の簡単化、内面化が親鸞によって一層徹底される。
親鸞は仏教の戒律のなかで大切な戒である邪淫(じゃいん)戒を否定し、肉食妻帯を主張したように思われる。
そこには最澄以上の熱い懺悔の心がある。
しかしこの最澄―親鸞の思想が日本仏教における戒律の軽視、あるいは戒律の無視の精神を生んだことは否定できない。
そしてこの戒律の軽視、戒律無視の精神が明治以後、特に戦後の日本仏教にひどくなり、日本仏教は東南アジアなどの仏教と大変異なったものとなった。
最澄という名はおそらく彼自身がつけた僧名であろうが、「最も澄んだ人」というのは、一生果敢な論争に明け暮れたこの人に最もふさわしい名であるように思われる。
*3)小乗仏教 大乗仏教徒が、他の仏教に対して批判的につけた名称。大乗仏教は他者を救済しながらともに悟りの境地(彼岸)を目指す「大きな乗り物」だが、それ以外の仏教は自らが悟りの境地に行くことだけを目指す「小さな乗り物」であるという意味。なかのとおるさんのTwitterに
「世界産」ワクチン… 日本語がようわかりませんな
知事さんのTwitterには支持者の方が賛辞を送っていますが
知事や市長は都合のいい時だけ利用して、自分たちの手柄にしていると思う。
リプの中に以前、H氏が市長の時代のことが引用されていました(支持者の皆さんは無視されているようです)。
「大阪バイオ研、3月解散へ 大阪市が補助金打ち切り 理研に譲渡」(産経WEST 2015年2月3日)
大阪維新の時代になって文化・芸術、医療だけでなく科学も痩せ細っている。
(〝最澄 旧仏教と果敢に戦った「澄んだ人」〟の続きです)
この最澄の帰山の要求に対して、空海は泰範に代わって最澄に手紙を書く。
泰範が帰山を断る理由は空海は述べ、さらに天台と真言密教の優劣にまで論は及んでいる。
最澄は天台も真言も同じものだというが、それはまったく違う、真言のほうが天台よりはるかにすぐれた仏教であると空海は強引に最澄に論戦を挑んでいるが、なぜかあれほど論戦の得意な最澄は相応じず、ただ哀願するばかりであった。
私は空海の大崇拝者であるが、この往復書簡を読むかぎり、最澄に同情を禁じ得ない。
純粋で一本気の最澄が、世間を知り尽くした空海に手玉にとられている感じである。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
最澄の晩年は、二つの論争に終始したように思われる。
一つは奈良仏教を代表する徳一(とくいつ)との間の仏性(ぶっしょう)に関する論争である。
最澄は「法華経」にもとづいて、すべての人間は仏性をもっていて、必ずいつかは仏になれると主張したのに対し、徳一は法相宗(ほっそうしゅう)の教義にもとづいて、人間には仏性をまったくもたない人や仏性をもっているかどうか分からない人があり、すべての人が仏になることはできないと主張した。
残念ながらこの論戦に関しては最澄側の論文しか残されていないが、最澄の反論の立て方は、経典の上に立ち実証的でかつ論理的である。
これはわが国の論争史において最高の学問的水準を示す論戦であろう。
この、すべての人間に仏性があり、必ずやどんな人でも何度か生まれ変わるうちに仏になれる、という主張は鎌倉仏教にも受け継がれ、日本仏教の大きな特徴となるのである。
最澄のもう一つの論争は、延暦寺(えんりゃくじ)に大乗戒壇(だいじょうかいだん)を設立すべきかどうかという論争である。
僧になるにはやはり戒を受ける必要があるが、その戒を受けるには東大寺(とうだいじ)の戒壇院などの奈良仏教の管下に立つ寺において受けなければならない。
とすれば、せっかく最澄が養った弟子たちも、正式に僧になるには東大寺など戒を受けなければならない。
それに奈良仏教の僧たちと親しくならねばならず、戒を受けて延暦寺に帰らない弟子も多かった。
それゆえに延暦寺に戒壇を設けることは、新しい仏教である天台宗の死活に関わることであった。
最澄は嵯峨天皇に再三要請したが、奈良仏教の反対にあい、なかなか実現できなかった。
そこで新しい戒壇の設立を最澄は主著とされる『顕戒論(けんかいろん)』で主張する。
奈良仏教の戒は真に大乗仏教の戒とはいえず、小乗(しょうじょう)仏教(*3)の戒も交じった不純な戒であり、一向(いっこう)大乗戒、すなわち純粋な大乗仏教の戒を与える戒壇はまだ日本になく、それを叡山に作るべきだと最澄は主張する。
最澄は、この一向大乗戒の戒壇はインドに中国にもあると考えているが、実は最澄のいう一向大乗戒の戒壇なるものはどこにもなかったのである。
そしてこの戒は奈良仏教のような煩雑(はんざつ)でしかも外面的な戒ではなく、簡単でしかも内面的な戒でなければならぬと彼は強く主張する。
この一向大乗戒の戒壇の設立は最澄の生きているうちには許可されず、死後七日目に、残された門弟の奔走と藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らの援助によって実現されたのである。
哲学者の上山春平(うえやましゅんぺい)氏は、儒教が日本に輸入されるが礼(れい)の思想(*4)は輸入されなかったように、仏教が日本に輸入されても戒の思想は輸入されなかったという。
確かに上山氏の言うように、最澄による一向大乗戒は、煩雑な戒律を簡単化し内面化したことは否定できない。
最澄はいたずらに煩雑で形式的な戒律を捨てて、戒を簡単化し内面化したが、その代わりに、彼は懺悔(さんげ)の必要を強調する。
この最澄の戒律の簡単化、内面化が親鸞によって一層徹底される。
親鸞は仏教の戒律のなかで大切な戒である邪淫(じゃいん)戒を否定し、肉食妻帯を主張したように思われる。
そこには最澄以上の熱い懺悔の心がある。
しかしこの最澄―親鸞の思想が日本仏教における戒律の軽視、あるいは戒律の無視の精神を生んだことは否定できない。
そしてこの戒律の軽視、戒律無視の精神が明治以後、特に戦後の日本仏教にひどくなり、日本仏教は東南アジアなどの仏教と大変異なったものとなった。
最澄という名はおそらく彼自身がつけた僧名であろうが、「最も澄んだ人」というのは、一生果敢な論争に明け暮れたこの人に最もふさわしい名であるように思われる。
*4)礼の思想 中国で、人の行うべき規範とされた事柄。儒教では、『周礼』『儀礼』『礼記』などの書物に詳しく書かれている。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)今朝の父の一枚です(^^)v
このように枝が密集している時は、なかなかピントが合いません。
そのうえ動き回る…
それでも諦めずに写していましたp(^^)q
今週の「たなくじ」は「モーレツに良い年になるでしょう」(^^)v
年末の「2355-0655 年越しをご一緒にスペシャル」では、
「10年に1度の特大吉」でした(^^)v
ちなみに今週の「こどもようおみくじ! たぬくじ」は、「からあげ大吉」(*´▽`*)
それでも諦めずに写していましたp(^^)q
今週の「たなくじ」は「モーレツに良い年になるでしょう」(^^)v
年末の「2355-0655 年越しをご一緒にスペシャル」では、
「10年に1度の特大吉」でした(^^)v
ちなみに今週の「こどもようおみくじ! たぬくじ」は、「からあげ大吉」(*´▽`*)