今朝も曇り空でしたが、これから雨が降る空なので暗かった…
公園では、桃の蕾から赤い色がチョコンと見えていました。
明日、午後1時からEテレで再放送があるのですが
こころの時代~宗教・人生~ アーカイブス「長き戦いの地で」
アメリカ同時多発テロの直後、アフガニスタンへの空爆が始まった2001年に放送されました。
静かに語る中村哲さんの言葉、
中村さんが築き上げたアフガンの人たちとの信頼関係を崩してしまったのは…
「自己責任」という言葉がはびこった時期と重なると思います。
これもEテレのデザイン トークス+(プラス)「錯覚」
2月19日(水)午前10時25分から再放送があります。
以前、又吉直樹のヘウレーカにも出演された
明治大学研究特別教授の杉原厚吉さんが登場して面白い話をしてくださいました。
なお、又吉直樹のヘウレーカ!の次回放送は「雲の“心” 読めますか?」
出演は雲研究者で気象庁気象研究所研究官の荒木健太郎さんです。
2月14日
平将門(まさかど)が敗死した。 940(天慶<てんぎょう>3)年
関東地方の各地にいまでも平将門の首塚(くびづか)といわれるものがあり、さまざまな将門伝説が伝えられている。
東京の神田明神も将門をまつっているという。
関東大震災の前までは境内に将門神社があった。
千年以上も前の将門の叛乱(天慶の乱)がこれほど強烈に歴史に色濃く影をおとしているのは、これが武士のおこりを示す最初の大事件であったばかりでなく、将門が一時新皇(しんのう)と称し、一族を関東の国々の国司(こくし)に任命して、独立の国家をつくるかまえまで示したからであろう。
しかし、将門は下野(しもつけ)で藤原秀郷(ひでさと)と戦って敗れ、本拠の下総(しもうさ)の猿島(さしま)で死んだ。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「平将門の首塚 不思議な畏怖がわくパワースポット」(NHK)
ブログの記事で
「将門塚の怪」(2019年6月30日)と
「坂東の風雲児●平将門」(2019年7月3日、4日、10日 、13日)を紹介しています。
今日はチョコレートに関連して武田尚子さんの
『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』より、
一部を転記したいと思いますφ(..)
( 「はじめに」より)
……略……
近代産業のしくみが整っていたイギリスでは、早い時期に工場で良質のチョコレートが作られるようになり、チョコレート加工菓子の生産が本格化した。
キットカットなど現代でも人気のチョコレート菓子が生み出された。
チョコレート・メーカーは、印象的なラッピングをデザインし、広告に工夫を凝らした。
(『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』
武田尚子 中公新書 2010年)
ダブル・テイスト
チョコレートを大喜びで手にしたのは、労働者階級である。
長時間働く労働者に、エネルギー補給は欠かせない。
午後の適当な時間に「ブレイク」をとって、気合いを入れ直す。
手ごろな価格のチョコレートは、短い休憩時間に、紅茶と一緒にお腹(なか)に流しこみ、血糖値を上げて、一気にパワーアップする。
格好のエネルギー・サプリメントである。
チョコレートが普及する以前に、労働者のパワーアップに貢献していたのはアルコールである。
ビールやエールの国であるイギリスでは、アルコールに手が出やすい。
アルコール摂取量を抑え、節制のきいた飲酒、勤勉な労働の習慣を身につけさせるには、アルコールに代わる甘い誘惑が効果的だった。
チョコレートも紅茶も労働者の家計でまかなえる価格になり、イギリス人はチョコレートの味を覚えていった。
現代のイギリスには、至るところにチョコレートの自動販売機があり、チョコバーをかじりながら、大またで街を歩く人をよく見かける。
イギリス人はチョコを口に放り込んで、蒸気機関車のようにエネルギッシュに動き回る。
日本では飲料の自動販売機が至るところにあるように、イギリスではチョコ自動販売機が当たり前の光景になっている。
チョコ自販機は国民的エネルギー補給装置なのである。
……略……
6章 戦争とチョコレート
3 戦地とチョコレート
ジャングル・チョコレート
チョコレートは戦地で実践に臨む兵士にとっても、貴重なカロリー補給食品だった。
ロウントリー社は、兵士への配給食品として、ビタミンを添加した各種チョコレートを製造していた(図表6-12 省略)。
「パシフィック&ジャングル・チョコレート」という気温の高い熱帯地域でも溶けないチョコレートも製造されている。
シンガポールやビルマの戦線のイギリス兵士に配給されたのだろう。
高カロリーのチョコレートは戦時の携行品として欠かせないものだった。
それにしても、熱帯でも溶けないチョコレートの主原料とはいったい何だったろうか。
日本のグル・チョコレート
熱帯で溶けないチョコレートが作られていたのは、イギリスだけではない。
実は、第二次世界大戦中、日本でも溶けないチョコレートのの開発が進められていた。
1920~30年代の戦間期に、日本でも徐々にチョコレートが知られるようになっていた。
入手しやすかったのは、「玉チョコ」「棒チョコ」だった。
大正期に東京で菓子卸売業を営んでいた竹内政治(たけうちまさはる<のち大東カカオ社長>)は、1918年に愛知県に里帰りしたとき、森永製菓の「玉チョコ」を土産に持って帰った。
「玉チョコ」はまんなかにクリームが入っていて、外側はチョコレートでコーティングされていた。
チョコレート菓子をはじめて見た姉は、外側のチョコレートを食べるものだと思わず、爪でチョコレートをはがして、なかのクリームだけ食べた。
褐色の固形物が食品だという概念がなかったのだろう。
1923年に竹内は、チョコレート製造を志して、森永の工場を訪問した。
創業者の森永太一郎(たいいちろう)自らが工場で働いていて、機械や製造方法をていねいに説明してくれた。
一通りの見学を終えると、昼食を誘ってくれて、チョコレート製造について熱心に語った。
刺激された竹内は、スイスのビューラー社の機械を購入し、1929年にカカオ豆からチョコレートの一貫製造を実現させ、竹内商店として原料チョコレートの卸売業を始めた。
森永では六0匁入り1箱が2円だったので、竹内商店では1円80銭で売った。
戦争が始まると、そのような景気のよい話も終わった。
1940年12月を最後にカカオ豆輸入はストップした。
あとは軍の医薬品、食料品製造のため、指定された業者にだけ、軍ルートでカカオが配給されるのみとなった。
医薬品として、ココアバターから解熱剤や座薬が作られた。
カカオは軍用にマレーシアから輸送されてきた。
竹内商店は大東(だいとう)製薬工業株式会社に名称を変え、海軍省から受注した航空機と潜水艦のための「居眠り防止食」と「振気食」を製造した。
飛行機の操縦士は復路に催眠にかかったように眠くなるという。
眠気を覚醒(かくせい)させるため、チョコレートにカフェインを混ぜたものが「居眠り防止食」だった。
航空機用の製造は簡単だったが、難しかったのは潜水艦用である。
潜水艦の内部は、ときに摂氏40度に達する。
「溶けないチョコレート」が必要だった。
大東製薬では、特殊な機械で圧縮し、「溶けないチョコレート」を製造した。
南方戦線では、現地のカカオを使って、軍用チョコレートが生産された。
陸軍と海軍の要請で、森永製菓は50人の従業員をインドネシアに派遣し、1942年からチョコレート生産にあたった。
明治製菓も陸海軍の要請で、1943年からインドネシアで「溶けないチョコレート」の生産を開始した。
熱帯で「溶けないチョコレート」とは、おそらくココアバターの代わりの代用油脂に、融点の高いものを用いたのであろう。
1940年から1950年までの10年間、日本国内へのカカオの輸入は止まったため、代用品を用いた「チョコレート」開発が進んだ。
甘味には砂糖の代わりにグルコース(ブドウ糖)を用いたため、「グル・チョコレート」と呼ばれた。
カカオの代わりの主原料として用いられたのは、百合根(ゆりね)、チューリップ球根、オクラ、チコリ、芋類、小豆などである。
ココアバターの代わりには、大豆油、椰子(やし)油、ヤブニッケイ油などが用いられた。
バニラで香りをつけると、「グル・チョコレート」ができあがった。
戦後に国産チョコレートが復活するまでの間「ギブ・ミー・チョコレート」とねだったのは、よく知られた話である。
進駐軍が放出したハーシー社のチョコレートが闇市に出回った。
(『チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』
武田尚子 中公新書 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)v
セグロセキレイと出会っていました。