午前中は、来週、循環器内科の診察日なので血液検査をしてきました。
帰ってきてから眼科を受診。
眼精疲労と花粉症の目薬を処方してもらいました。
今は、買い物で人混みの中に入る時にマスクをしているけど
花粉が飛び出すと外に出ている時はマスクで花粉を防がないといけないのになぁ…
花粉に比べてウイルスは電子顕微鏡でないと見えないほどなので
マスクで、新型コロナウイルスを防ぐのは難しいと思う。
「新型ウイルス マスクの予防効果ある? ない?」(NHK)
血液検査を待つ間、民放の番組が流れていて、コメンテーターが武漢の様子を見ながら
廊下に病人が寝かされていると批判的なニュアンスでコメントしていたけど
日本でも淡路阪神大震災の時や東日本大震災の時に、病院では同じようにケガ人で溢れていた。
災害が起きたときは、医療現場は混乱し、医療関係者も疲労で倒れてしまうと思う。
クルーズ船で横浜港に足止めされている人たちが心配です。
〝「持病の薬が…」クルーズ船で待機 乗客から焦りや不安の声〟(NHK)
2月8日
大伴家持(おおとものやかもち)が防人(さきもり)の心をしのんで歌を詠んだ。 755(天平勝宝7)年
大夫(ますらお)の靫(ゆき)取り負(お)ひて出でて行(い)けば
別れを惜しみ嘆きけむ妻
鶏(とり)が鳴く東男(あずまおとこ)の妻別れ
悲しくありけむ年の緒(お)長み
これは、はるばる東国から九州まで赴(おもむ)かねばならなかった防人とその妻の心を思って、万葉歌人家持がこの日詠んだ長歌の返歌(かえしうた)である。
二度とあうことができないかも知れない夫と妻の悲しい別れが、目に浮かぶようである。
大伴家持はこのとき、兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)という役にあった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
一日飛びましたが
『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』より「アンカー清盛の活躍」を転記しますφ(..)
アンカー清盛の活躍
清盛はこの父の路線のアンカーだった。
肥後、安芸、播磨の守を歴任するとともに、ついに太宰大弐に任じられた。
父の時代は密貿易だったが、今度は天下晴れて、たっぷりと甘い汁が吸えるのだ。
山陽道の対岸、四国の河野一族や有力な海上兵力を持つ武士団もみなその傘下に入った。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』永井路子 PHP研究所 1992年)
安芸の厳島神社の造営は、いわば「大平家商事」の勝利のモニュメントである。
単なる御信心のための神社造りではない。
在地の佐伯(さえき)氏を家人化した上で、豪奢華麗な神社は、瀬戸内海を行き来する船に、
「神サマがごらんになっているぞ」
と、無言の威圧を加えているのだ。
その上で、摂津の大輪田泊(おおわだとまり)を修築し、大型の宋船が停泊できるようにした。
これは画期的な大事業である。
というのは、日本は7世紀に百済(くだら)に出兵して大敗けに敗けて以来、すっかり外国恐怖症にとりつかれ、外国の船舶は一切瀬戸内海に入れないことにしていたのだ。
そこで大宰府が外交・貿易の窓口になっていたのを、
「もう、今は時代が違う」
清盛は、一気に宋船を摂津までひき入れてしまった。
宋船の航行のために音戸(おんど)の瀬戸も開鑿(かいさく)したという(どうやら伝説らしいのだが)。
ともかく、清盛のこの決断、みごとというよりほかはない。
旧例墨守(ぼくしゅ)の藤原氏にはとうていできない大改革である。
いつの場合にも、企業に必要なのは発想の転換だ。
大量輸送と安全の確保――。
これが貿易商社の二大原則であることは、今も昔も変りはない。
名実ともに堂々たる「大平家商事」はここに完成したのである。
さらに清盛は、紀州の熊野水軍との提携を緊密にしている。
この水軍も瀬戸内海のそれと同じ海賊であるが、内海のそれよりも、もっと底力を持っていた。
熊野というとすぐ神秘の国とか、呪術がらみの秘境を想像しがちだが、熊野の特色はそういう所にはない、と私は思っている。
いわゆる熊野三山は当初は別々の存在だったが、いつのころからか三者は一体になり強力な地方勢力になっていた。
中央に対しては園城寺(おんじょうじ <三井寺 みいでら>)と密着し、白河以後の三上皇に働きかけ、何回、何十回となく熊野詣でに来てもらって、三山のグレード・アップをはかった。
上皇のお出となれば、たくさんの金品がばらまかれるが、熊野はそれを目当てに参詣を要請したのではない。
むしろ熊野側から都でも手に入らないものを盛んに献上したのではないか。
それは何か?
いうまでもなく宋からの珍宝ではなかったか、と私は思っている。
大陸から太平洋を渡って熊野への道は、案外、安全航路なのだ。
清盛はこの熊野勢力と握手した。
九州や中国筋の水軍(貿易業者)とはスケールの違う大きな「熊野商事」だから、合併ではなく提携の道を選んだのだと思う。
世界的規模にのしあがった日本企業は、このところ外国企業を買いとるのも盛んだが、相手が巨大すぎるときは提携の手に出る(またそれだけに合併よりも結びつきがゆるやかで、平家の落ち目になると、周知のとおり、熊野はさっさと手を切ってしまうのだが)。
このあたり、清盛のやりかたは、現代の企業戦略になんと似ていることか。
もう一つ、現代の企業とやや趣を異にするのは、清盛の人脈作戦である。
娘の徳子を高倉天皇きさきとして入内(にゅうだい)させたことだけが有名だが、このほかにも摂関家に娘を嫁がせている。
このほか、見逃せないのは乳母(めのと)作戦だ。
今まで私は歴史の中の乳母の重要性について語り続けているので、ここでくりかえすのはちょっと気がひけるが、日本の政治の特色はここにあるので、触れないわけにはいかない。
当時、天皇、摂関家などの有力貴族や平家のような有力武士の家で子供が生まれると、生母はほとんどその子の世話をせず、生後ただちに乳母がつけられた。
最初は、授乳とかおむつの世話からはじまるが、乳母の仕事はそれだけではない。
養育から教育、すべてにわたって責任を持つ子育てのプロとして養君(やしないぎみ)に一生つき添う。
もし養君が天皇になれば、夫や子供ともども側近第一号として、天皇の周辺にかしずき、政治にも発言力を持つ。
高貴な人には複数の乳母がつくし、いわゆる私的な「ばあや」ではなく、天皇の乳母ともなれば、従三位とか二位とか、高い位を貰う高級女性官僚として公式の待遇を受ける。
院政期はとりわけ乳母が政治的に活躍した時代で、天皇や上皇の側にひしと寄り添い、人事などにも介入した。
実力で見れば左大臣(現在の総理にあたる)よりも強力な乳母もいた。
そしてあまり知られていないことだが、清盛の妻の時子は、二条天皇の乳母になっている。
どういう経緯で乳母になったのか、いまひとつはっきりしないのだが、確実な史料は、まぎれもなく乳母として登場する。
また清盛の息子の妻たちも、安徳天皇の乳母になったりして、まさに平家一門が天皇家の乳母を独占している観がある。
また清盛の妻の時子の異母妹滋子(しげこ)は、後白河法皇の寵愛をうけて高倉天皇を産んだ。
これが建春門院(けんしゅうもんいん)で、後白河の政治を左右するほどの権勢を誇った。
この滋子の産んだ高倉に時子の娘である徳子が入内するのだから、いわば従兄妹(いとこ)どうしの結婚でもある。
こうした人脈の貼りつけかたは、現代の企業には見られないが(あったとしても目立たないが)、この人脈を政治家におきかえてみたらどうだろう。
養君が乳母に養われるように政治家は企業の金で養われている。
裏から見れば企業のために法律を作ってやったり、規則も変更したり、まさに企業のいいなりではないか。
見れば見るほど、清盛の貿易立国は、現代のありかたとよく似ている。
しかし考えなければならないのは、この「大平家商事」のあまりにももろい崩れかたである。
その繁栄はせいぜい20年、あっというまに滅びてしまった。
『平家物語』は当時の平家の繁栄ついて、
「楊州(やうしう)の金(こがね)、荊州(けいしう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう)の錦(にしき)」
など、無いものはない、と書いている。
これが全部中国産の高級品であることに注目していただきたい。
その平家はなぜ、かくも簡単に滅んだか?
輸入品は『平家物語』にあるような高級品ばかりで、喜んだのは貴族の一部、儲けたのは平家とその傘下の人々だけだったからだ。
「大平家商事」が滅んでも、一般人は痛くもかゆくもなかったのである。
下請会社ともいうべき傘下の海賊たちとの結びつきも弱かった。
最後まで忠節を尽くしたのは、九州の原田種直。
彼は領地に安徳天皇を迎える行宮(あんぐう)まで作っているし、神崎郡の地元勢が、鎌倉時代に入ってからも抵抗を続けたくらいのものだった。
巨大商社は生き続けるのか滅びるのか、平家の盛衰はいろいろなことを考えさせる。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』永井路子 PHP研究所 1992年)