天気予報では、雨は午後からだったけど
途中でポツポツ降り出した。
カメラの修理代が高いのでザックにしまいました。
(前、修理代で4万円以上かかった…)
その後は、傘をささなくてもいいほどでしたが、
何時、雨粒が大きくなるか分からないのでそのまま歩きました。
岩波書店のTwitterに
二・二六事件の起こった1936年も閏年。
投降呼びかけのビラなどが作られ、「兵に告ぐ」のラジオ放送がされたのは29日のことでした。
この日事件は収束。
永井荷風は『断腸亭日乗』に「叛軍帰順の報あり」と記します(『摘録』上巻)。
「二・二六事件高橋蔵相殺害」(戦争証言アーカイブス NHK)
2月29日
武蔵国のある村で行われた磔(はりつけ)に非人が動員された。 1835(天保6)年
この日、武蔵国のある村(埼玉県)で、近くの百姓宮吉(みやきち 25歳)が磔になった。
宮吉は、あちこちで土蔵破りや盗みを働き、前年9月には、その村の覚右衛門(かくえもん)一家3名を殺し、金を奪ったうえに家に火をつけたのである。
11月につかまった宮吉は、磔の刑をいいわたされ、江戸からやってきた役人と、近辺からあつめられた非人により処刑された。
処刑には、かざりのついた鑓(やり)2本、六尺棒(ろくしゃくぼう)2本などがつかわれ、死体はみせしめのために三日間さらされた。
死体の番や、あとかたづけは、みな非人たちにまかされ、数十人の非人が動員された。
こうしたやりかたは、民衆のなかに身分差別をもちこみ、たがいに対立させて支配するための、幕府の政策であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
昨日の記事で千利休の木像が一条戻橋ではりつけにかけられたと転記しました。
「利休の切腹」の続き「民衆の声」を転記したいと思いますφ(..)
秋葉補佐官は、
「宮城県をはじめ東北地方で感染者が出ていない状況を踏まえ、感染のリスクは低いと判断して予定どおり行った」
と仰っていましたが、
「東北地方で初めての新型コロナウイルス感染確認」(NHK)
現在の私たちは、どうすれば声を届けることができるのでしょうか?
民衆の声
聚楽の大門にちかい一条戻橋に木像がはりつけにされたとき、その脇に利休のいろいろの罪科を書き上げた高札(こうさつ)がたてられたという。
利休の死とその前後の京都のありさまを、ちょうど京都に居合わせた伊達家の家臣鈴木新兵衛(すずきしんべえ)というものが、国もとの家老石母田安房守景頼(いしもだあわのかみかげより)のもとへ書き送った2月29日付の書状がのこっていて、それにはその高札について「おもしろき御文言、勝(あ)げて計(かぞ)うべからず候」と書いている。
秀吉や奉行のほうでも、利休の死刑にたいして民衆を納得させるような宣伝を、高札でおもしろおかしく書き上げたものであろう。
民衆の声はやはりもっとも恐ろしいので、先手をうったものであろう。
とくに京都には、建武(けんむ)2年(1335)、二条河原落書(にじょうがわららくがき)以来の京童(きょうわらべ)の批判的伝統があったからである。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
最近広島大学文学部所蔵となった「猪熊信男(いのくまのぶお)氏旧蔵文書撲」のなかから、福尾猛市郎(ふくおたけいちろう)氏が「天正十九年二月二十六日於京都ニらく首 長谷川忠実(はせがわただざね)(花押)」の奥書のある十首の歌を発見された。
これはこの日付とほぼ同じころに、本人の忠実が京童の落書をみずから写しとったものなのである。
その日付は奇しくも利休切腹の二日前である。
京中どこにかかげられたかは明らかではないが、まさに民衆の声そのものであり、利休の死の前後の世情や、さきの鈴木新兵衛の手紙とあわせて考えると、高札合戦のようなおもむきさえある。
(画像省略)
「天正19年の京都落首 長谷川忠実実写。『猪熊信男氏旧蔵文書撲』の内(広島大学大学院文学研究科日本史学研究室蔵)」
・広島大学文学部日本史学研究室
(1) ほけきやうのうらうち帋(紙)の法(糊)過て、おりおりとけはきやうそそやふるゝ
法華宗の興盛とそれにたいする弾圧のきびしさを風刺し、かつ批判したのである。
(2) いしふしん(石普請)城こしらへもいらぬものあつち(安土)お(小)田原見るにつけても
この時代の象徴ともいうべき築城工事の徹底的な批判である。
(3) 寺々の夕へのかねこへ聞(きけ)は、ちりやう(寺領)とられて何としゆやうや
(4) ちはやふる神もしきち(敷地)をおとされて、思ひのほかにちつこく(十穀)をた(絶)つ
荘園の否定によって、寺領や社領の没収で困窮する社寺への同情で、神も供御(くご)の絶えたことを、十穀坊主(勧進聖<かんじんひじり>の一種)をたてて募金せねばならなくなったこととかけたものであろう。
(5) 村々にこしき(乞食)のたね(種)もつ(尽)きすまし、しほり(搾)とらるゝ公状の米 (6) ゆめの夜のなにかとせむる公状を、明日おもしらぬ露の命に 両者とも、、公状をもって搾取される高率の貢租によって、人民の疲弊することを難じたものである。 |
(8) まつせ(末世)とはへち(別)にハあらし木の下の、さる(猿)関白を見るに付けても
ともに年々うちつづく苛政に前途の不安をなげかけたもので、とくに「木下の猿関白」という露骨な表現で嫌悪の情を示しているのは注目に値する。
(9) おしつけてゆへハゆわるゝ十らく(聚楽)のミやこの内ハ一らく(楽)もなし
(10) 十ふん(分)になれハこほるゝ世の中を、御存知なきハうん(運)のすへ(末)哉
こうして京都にはなんの楽しみもなく、得意絶頂の秀吉の運命もやがてつきることを示唆したのである。
この落首のようにするどく秀吉治下の生活をえぐり、口をきわめて批判したものは、ほかに見ることができぬ。
検地・刀狩につづく強烈な搾取が、民衆のあいだにきわめて深刻な問題をなげかけつつあったのである。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
若松英輔さんのTwitterに
こういうときは「強く」あろうとしてはいけません。
誰もが少し恐ろしいのです。
ですから、自分の「弱さ」をじっくりと感じる日々に致しましょう。
そして「弱くある」ことによって見えてくる世界を、しっかり記憶しておくのです。
人は「弱く」あるときこそ、確かにつながれることを記憶しておくのです。
今朝の父の一枚です(^^)v
空が暗く、見えにくかったのですが、
ジョウビタキ♀やメジロ、シジュウカラを写していましたp(^^)q