2020年2月20日木曜日

暖かな朝

今朝も穏やかな天気でした。
でもね…この季節、花粉症の予防薬を飲めないので
辛抱我慢の季節になってきました(-_-;)
花粉症の方 対策しっかりと!」(えりの気象日記 2月19日)

2月20日 
出雲(いずも)の阿国(おくに)が江戸城内で歌舞伎を踊った。 1607(慶長12)年
 数年前から京都で大評判となっていた阿国は、この日、江戸城内の広場で歌舞伎を興行した。
ほこりっぽい風がふく中を、見物に集まったたくさんの人々で広場は一日中ごったがえした。
阿国は出雲大社の巫女(みこ)の生れと称して、はでな若武者の格好をし、楽しい歌と踊りでたいへんな人気者だった。
そして一座とともに、佐渡や桑名(くわな)、熊本など全国各地で興行し、幕府が開かれたばかりの江戸にもやってきたのである。
将軍徳川秀忠(ひでただ)は、8日に伊達政宗(だてまさむね)の屋敷で囲碁や将棋で遊び、1週間前には江戸城内の同じ広場で勧進能(かんじんのう)を見物したりしたが、なぜか阿国の踊りを見ようとはしなかった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
メジロの舌が見えました(^^)v
この画像からは分かりにくいと思いますが
メジロの舌は花の蜜を舐めるのに便利にできているのです。
筆の穂先のようになっているのです。
メジロの舌と吸蜜のお話」(大阪南港野鳥園)
日本は「正直」にものをいうと「迷惑」になる国のようですね。
ホテルの返事は常識的な回答だと思います。
そしてダイアモンドプリンセス号の感染拡大を見ていて素人の考えですが
あのような場所では、感染しない方が不思議だと思う。
政府の答弁は適切だったと言っているけど納得できない。
感染症専門の教授が動画を迷惑をかけたと削除しましたが、
中国の情報操作と同じような圧力がかかったのではと勘ぐってしまう。

クルーズ船 客室待機後も感染広がったか 国立感染症研究所」(NHK)

現場からの概況:ダイアモンドプリンセス号におけるCOVID-19症例」(国立感染症研究所)

そしてこのニュースも気になる。
陰性だった人が、数日後、陽性になっていることもあるのに…
下船した人たちが安心して生活できるのかな?
中傷などを受けないのかな?
クルーズ船 下船した人たちへの対応疑問視 海外メディア」(NHK)
昨日の記事で「つばきもち」のことに触れました。

つばき 椿
 椿属は、東南アジアに分布して約70種ほどあるが、日本にはヤブツバキ(一名ヤマツバキ)と日本海沿岸に沿う地帯にユキツバキの2品を産し、今はこれから生まれた園芸品種が200種近くもある。
日本産の名花として外国にも輸出され、ヨーロッパの文学作品にも『椿姫』などその名が現れている。
早くから人に知られて、『日本書紀』には、天武天皇の時、吉野の人が白花の椿を献じたことが記されているし、この材が堅牢なので、つちぐも征伐の時、兵椎(つわもののつち)につくったことが景行(けいこう)天皇の条に記されている。
『古事記』にはまた雄略天皇の条に、太后のよんだ「新嘗屋(にいなへや)に生ひ立てる 葉広 五百(ゆつ)箇真椿(まつばき) 其(そ)が葉の 広り坐(いま)し その花(はな)の 照り坐(いま)す 高光る 日の御子に 云々」という歌もある。
つやのある緑の椿の葉とその赤い花と引用して、天皇をたたえているのは、上代この椿にめでたさを感じていたからで、平安時代にこれで卯杖(うづえ)をつくったことが『延喜式』に記されているのも同じことであろう。
さらに、『万葉集』に、「紫(むらさき)は灰さすものぞ海石榴市(つばいち)の」(巻12)とあることによって、昔の紫染にはこの椿の灰が欠かせないものであったことが知られるし、この椿の油も古くから利用されていたことが、『延喜式』に「内蔵寮(くらりょう) 諸国年料供進 海石榴油(つばきあぶら) 十斗」とあるのでも知られる。
ここに「海石榴」とあるのは、古く中国にならったツバキの用字である。
この花が世にもてはやされるようになったのは江戸時代で、今日に及んでいる。 (松田 修)
(『日本風俗史事典』日本風俗史学会 弘文堂 昭和54年)
つばきもち 椿餅
餅菓子の一種。
道明寺糒(どうみょうじほしい。上新粉製のものもある)であんを包み、椿の葉2枚ではさんだもの。
かしわ餅や桜餅の原形にあたる。
唐菓子の「椿餅(つばいもち)」が変化したものといわれ、日本で最も古い和菓子とされる。
金澤銘菓の「つばき餅」は、茶色の細長いぎゅうひ餅で、竹の皮に包まれている。
(『料理食材大事典』主婦の友社編 平成8年)

グレーテルのかまど「源氏物語のつばきもち」で紹介されていたお店は
奈良の「樫舎(かしや)」さんです。
源氏物語に「椿餅」が登場するのは「若菜上」です。
その箇所の現代語訳を転記しますφ(..)

それ以下の殿上人(でんじょうびと)は、簀子(すのこ)に〝円座(わらふだ)〟…円形の敷物…を敷かせて、気軽に、椿餅(つばいもち)や梨、みかんのような食べ物をいろいろに、いくつもの箱の蓋に盛り合わせてあるのを、若い人々ははしゃいで取って食べます。
適当な干物(ひもの)ていどを肴に、お酒を召し上がります。
(『源氏物語 第四巻』大塚ひかり訳 ちくま文庫 2009年 )
この場面では、猫が重要な役割をしています。
そのことを番組で解説されていた山本淳子さんの著書より転記しますφ(..)

35 平安人の心で「若菜上」巻後半を読む
    千年前のペット愛好家たち

 ――三十四帖「若菜上(わかなのじょう)」後半のあらすじ――
 光源氏41歳の3月、
……略……

 その月の終わりごろ、柏木(かしわぎ)は六条院の前庭で夕霧(ゆうぎり)たちと蹴鞠(けまり)に興じていたが、折しも猫が綱を絡めて御簾(みす)を引きあけたため、端近(はしぢか)にいた女三の宮の姿を垣間(かいま)見てしまう。
彼女への想いをいまだ断ち切れずにいた柏木は、恋情の虜となり、彼女の乳母子(めのとご)の小侍従(こじじゅう)を介して女三の宮に文をおくるのだった。
(『平安人の心で「源氏物語」を読む』山本淳子 朝日新聞出版 2014年)
 故福田赳夫(ふくだたけお)首相は、一時期人気となった可愛い両生類のウーパールーパーを、事務所で飼っていた。
夏目漱石が猫を実際に飼っていたことも有名で、小説の冒頭に「吾輩は猫である。名前はまだ無い」とあるとおり、名無しの猫だったらしい。
また、幕末に生きた第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の妻・篤姫(あつひめ)も猫を飼って溺愛していた。
3人の世話役がついたという、こちらの名は「サト姫」といった。
いつの世も人はペットを飼い、心を癒やすものだ。
では平安貴族のペット事情は、どうだったのだろうか。
『源氏物語』「若菜上」巻では、女三の宮は六条院で猫を飼っていた。
この猫同士のおいかけっこで御簾に開いた隙間から、柏木は女三の宮を垣間見る。
いわゆる「猫事件」だ。
実際に、『源氏物語』が書かれた当時の今上(きんじょう)・一条天皇(980~1011)にも、愛猫(あいびょう)がいた。
生まれた時には人間と同様に誕生祝いの「産養(うぶやしない)」の儀を催し、人間の乳母までつけたことが、貴族の日記『小右記(しょうゆうき)』に載っている。
世の人は批判したそうだが、『枕草子』「上(うへ)にさぶらふ御猫」によれば、この猫は朝廷から五位(ごい)の位まで与えられたという。
五位以上でないと帝の住まいである清涼殿(せいりょうでん)に上がることは許されないからで、とは言ってもしれは人間相手の規則なのだが、雌猫だった彼女は女官になぞらえられ、「命婦(みょうぶ)のおとど(命婦さん)」と呼ばれていた。
ところがある日、この命婦のおとどが日の当たる縁側で眠っていたところへ、同じく内裏(だいり)に飼われていた犬の「翁丸(おきなまる)」が走りかかったからさあ大変。
命婦のおとどは驚いて御簾の中へ走り込み、翁丸は叱られ……というのがこの章段のストーリーで、帝は怖がる命婦のおとどを懐(ふところ)に入れてなだめたというのだから、その可愛がりようがよくわかる。
 この当時、猫は中国から輸入された唐猫(からねこ)で、錦(にしき)や香(こう)など他の「唐物」と同様に、貴重な舶来物だった。
飼えるのは宮中や貴族くらすで、綱を付けて室内で飼う。
いっぽう犬は、その骨が縄文時代の集落の遺跡から出土することもあるほど古くから飼われてきたペットで、高級な猫に対してこちらは庶民派である。
だいたい、雑食性で、人間の食べ残しやごみなどを食べてくれるところから自然に飼われるようになったらしく、大方は外で飼う。
都には野犬も多く、どこからか内裏にも入り込むので、朝廷は時折「犬狩り」と称して宮中の一斉駆除を行なったが、犬は一向に減らず、時に帝の御座(おまし)の上に落とし物をすることもあった。
そうなると官人たちは大慌てだ。
犬の糞は当時「ケガレ」や「怪異」と見なされていたからだ。
後白河天皇(1127~1192)の世に書かれたとされる絵巻物の「餓鬼草紙(がきぞうし)」や「病草紙(やまいのそうし)」には、人の排泄物や嘔吐物を食べる犬が書かれているから、近代科学の目で見ても不衛生なことこの上ない。
先の『枕草子』では、そうした下々の存在である犬が大切な猫に飛びかかったから、帝の怒りを買ったのだ。
 鳥もまた、貴族たちに飼われていた。
『源氏物語』では若紫(わかむらさき)が雀の子を可愛がっていたのが思い出される。
逃げられて泣き、「雀の子をいぬきが逃がしつる、伏籠(ふせご)の中に籠(こ)めたりつるものを(雀の子を、いぬきちゃんが逃がしちゃった。伏籠の中に入れていたのに)」と訴える場面は、高校の教科書に大方載っている。
絵巻物「春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ)」では、裕福な国司(こくし)の庭に現代の動物園にあるような大きな鳥小屋が描かれていて、中には小鳥が飛んでいる。
庭にはキジらしき鳥もいる。
実際に当時は「小鳥合(ことりあわせ)」という遊びがあって、互いに愛鳥(あいちょう)を持ち寄り、美しさや鳴き声を競った。
また藤原道長の邸宅の一つ、小南庭(こみなみてい)には孔雀(くじゃく)がいて、鶏卵(けいらん)大の卵を7つも産んだことが、貴族の話題になった(『小右記』長和4<1015>年5月)。
現代と同様に、美しく珍しいペットはステータス・シンボルでもあったのだ。
 面白いのは、虫である。
『堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)』の「虫めづる姫君」では、姫が多種多様の恐ろしげな虫を飼い、なかでも毛虫がお気に入りだったが、実際にも蜂をペットとして愛好する貴族がいた。
藤原道長の孫の孫にあたる藤原宗輔(むねすけ)である。
彼は「蜂飼大臣(はちかいおとど)」と呼ばれ、『今鏡(いまかがみ)』(巻6)や『古事談(こじだん)』(巻1)が伝える逸話によれば、蜂を飼って細かく観察していたうえ、蜂たちを思い通りに操ることができたという。
人々はそれを「何の役にもたたぬ道楽」と嘲笑していた。
ところがある日、鳥羽上皇(1103~1156)の離宮で緊急事態が発生する。
離宮にあった蜂の巣が、何の拍子か、下に落ちたのだ。
巣からは無数の蜂が出てきて、上皇の御前(ごぜん)の庭を飛び回った。
居合わせた人々は刺されまいと逃げ回り、さながらパニック状態である。
それを見た宗輔は、庭の枇杷(びわ)の木から一房の実をもぎ取ると、琴(こと)の爪でおもむろに皮をむき、高々と掲げた。
するとどうだろう、蜂は一匹残らずその実にとまって、飛び回るものがいなくなってしまった。
宗輔はそれを確かめると、ゆっくりと召使に渡して、処理させた。
その手際の良さには鳥羽院も感服したという。
 哺乳類から昆虫まで、ペットの世界は深く広い。
おそらく人はいつの世も、動物を愛さずにいられないのだ。
(『平安人の心で「源氏物語」を読む』山本淳子 朝日新聞出版 2014年)

言いたくないけど、最初に紹介されていた福田赳夫氏は教養があって、人間味もありましたよ。

77年ダッカハイジャック事件」(朝日新聞)
顔見知りの方が、リュックの後ろに入れているほうきをみて、何に使うのかと質問された。
この箒(ほうき)は、草の実(ひっつき虫)を払うのに使っていますと答えると
いいことを聞いたと喜んでおられた。
服についたひっつき虫を手で取るのは面倒なので藁のほうきで払っています。
そしてもう一つ大事な理由は、車に乗る前に、ダニをつけたままにならないようにズボンなどを払っています。
百均で購入したほうきですが、中国製です。
日本は、中国にいろんな製品を頼っています。
マスクも中国で7割製造している。
マスク 品薄状態が続くのはなぜか」(NHK)

マスクだけでなく、
“世界の工場” 広東省 従業員戻れず 日本メーカーも出荷遅れ」(NHK)
今朝の父の一枚です。
後ろに写っている展望台「いのちの塔」は老朽化で、撤去されます。

別のことですが、気をつけたい記事があります。
マスクだけでなく消毒液も品不足になっているのですが
消毒用アルコール ひと文字違いが命取り」(NHK)