2019年7月10日水曜日

青空が広がると…

青空が見えていると思ったら
クマゼミが大きな声で合唱していました…
日差しは厳しかったですが、
涼しい風が吹いてくれていたので助かりました(^^)v
だるまさんのように見えた梨の実
お話をした方は、ヒメリンゴかなと思ったと…
公園では摘果(摘蕾・摘花)をしていないので実が小さいです。
摘果:果樹の栽培管理」(宇都宮大学農学部)
巻第十六(有由縁 雑歌を幷せたり) 3834
  作主未(さくしゅ いま)だ詳(つまび)らかならざる歌一首
梨棗黍(なし なつめ きみ)に粟(あは)次ぎ
(は)ふ葛(くず)の後(のち)にも逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く

  ◆作者の分からない歌一首
梨と棗、君に逢うという黍に粟が続いて、
(延ふ葛の)後も逢おうと逢う日の葵の花が咲く。
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
 ▽秋八月頃の食用の植物を列挙し、
さらに「黍」に「君」、「粟」に「逢は」、
「葵」に「逢ふ日」の意味を掛けて、
相聞歌として読めるように仕立てた。
「梨棗」は八月の代表的な果実二種。
長屋王邸跡に出土した「八月八日」の日付の木簡にも
「棗」などを進上する記事が見える。
「黍」は古くは「きみ」と言った。
平安時代には「きび」が一般的になる。
「葵」はフユアオイ。
その葉を食する。
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)
7月4日から途切れてしまいましたが
坂東の風雲児●平将門」(林睦朗)の続きを転記しますφ(..)
坂東の状況
 坂東(ばんどう)の地は畿内(きない)などに比べて
まだまだ未開の沃野(よくや)がひろがっていた。
多くの河川にうるおされた広大な平野や周辺の丘陵などは、
豊かな未来を秘めた可能性の土地といってよかった。
在地の有力者は、こうした原野を開発して
私有地を増加することができたのである。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
 しかし、他方、一般に社会の体制的な矛盾が
まず顕在化するのは辺境である、
といわれるように、坂東の地は停滞性の濃い農村地帯であったが、
畿内中心の律令(りつりょう)体制のきびし収奪の対象となって、
農村は疲弊(ひへい)していたのである。
そのうえ、古くは防人(さきもり)の供給地として、
その後はいわゆる蝦夷征討の人的物的基地として、
軍事的負担の重圧をうけたことも、
その疲弊に拍車をかける結果となった。
 このような律令体制のさまざまな矛盾は、
必然的にこの地域の荒廃を招いたが、
さらにこの体制の崩壊的な様相は、
大きな動揺をもたらしたのである。
 貞観(じょうがん)3年(861)、
武蔵国では郡ごとに検非違使(けびいし)がおかれたが、
これは「凶猾(きょうかつ)、党をなし、群盗、山に満つ」
という状況に対応したものであり、
こうした検非違使は同じころ坂東各国におかれた。
この検非違使には在地の豪族などが任ぜられたのであって、
彼らは私兵をもって群盗鎮圧にあたったのである。
 これより三十年あまりをへた寛平(かんぴょう)元年(889)、
「東国強盗の首(おさ)」といわれた
物部氏永(もののべのうじなが)という人物が蜂起(ほうき)し、
すこぶる強力であったため、なかなか追捕(ついぶ)できず、
十年あまりもその跳梁(ちょうりょう)をゆるした。
そうしたころ上野(こうずけ)から武蔵・相模にかけて
「僦馬(しゅうば)の党」といわれる集団が
広汎(こうはん)な活躍をしていた。
「僦馬の党」の実態は、
「坂東諸国の富豪の輩(やから)」といわれる土豪的な農民で、
その下に一般農民を組織し、
さらに土豪間の結合をもって「党」といわれる集団を形づくっていた。
そのうえ彼らは坂東の特産たる馬という
機動力をもっていたことが特長であって、
その集団的な機動力で、
東海道から東山道にかけて
広汎な官物(かんもつ)略奪をくりかえしたのである。
彼らの捕捉(ほそく)はいたって困難であり、
この国衙(こくが[地方の政庁])への反抗は
全くゆゆしい問題だったのである。
 こうしたとき延喜(えんぎ)19年(919)、
武蔵国では前権助(さきのごんのすけ)で足立(あだち)郡に土着した
源任(みなもとのつかう)が国衙を襲撃し、
国司高向利春(たかむくのとしはる)を殺害しようとし、
また同16年(916)から延長(えんちょう)7年(929)にかけて、
下野国の土着豪族藤原秀郷(ひでさと[俵藤太(たわらとうた)])の乱行が続いていた。
 これらの性格はいろいろあったが、
いずれにしても、いわゆる治安の乱れ、
とくに土豪層による国衙への反抗という現象としてとらえられるものであった。
政府が「群盗」といい「凶賊」とよんだのは、
こうした国衙に反抗する土豪集団であったといえる。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
昨夜のEテレ先人たちの底力 知恵泉は
紫式部 “こじらせ女子が自分らしく生きる極意”
ゲストの話を興味深く見ました。
山本淳子)
いろいろ自分でつらい体験をして
そのことを書くことにぶつける


光源氏はあだ名は光 心は闇

石田衣良)
自分一人で抱えていると闇だけど
みんなの前に出すと本当に光になる


発言のほんの一部です。
再放送が16日(火)午後0時00分~ にあります。
大塚ひかりさんがあげていた歌が

わりなしや 人こと人と 言はざらめ 
   みづから身をや 思(おも)ひ捨(す)つべき

わりなしや―まあ無理だわ。まあ無茶な。
人こと人と言はざらめ―他人は私を人数にも入らぬように言うようだが。
思ひ捨つるべき―見放してしまってよかろうか。
〇女護島(後宮)での神経戦の中で、主体を守ろうとする式部の述懐。
(『紫式部集』南波浩校注 岩波文庫 1973年)
今朝の父の一枚です。
チョウトンボを写していました。
今日は、母の月命日。
夕食後、父の撮った画像を妹も一緒に見ました。

〇 〇 〇 〇

午後から心臓リハビリでしたp(^^)q
30分間の歩行距離は、2.13km。
消費カロリーは、130kcalでした(^-^;