2019年7月13日土曜日

予報より早く降り出したけど…

天気予報を見ていて午前中は大丈夫だなと思っていたら
出かける時に雨が降り出しました。
それでも途中で傘をたたむほどで
時折、パラパラと降る程度でした。
この夏初めて出会いました。
しぜんとあそぼ かまきり」(動画 15分)
幼稚園・保育所向け番組ですが、詳しいですよ(^_-)-☆
自然の厳しさも教えてくれます。
坂東の風雲児●平将門」(林睦朗)の続きを転記しますφ(..)
今回で終わりますが、このシリーズは品切れになっています。
史料としては古いので学説も変っていると思います。
でも、読んでいて面白いなと思います。
常陸国府襲撃
 そのころ、常陸国に藤原玄明(はるあき)という豪族がいた。
彼は『将門記』によると、国衙(こくが)に反抗する国の乱人であり、
民の害毒であったという。
そして当時の常陸介(事実上の長官)は
先に武蔵守であった藤原維幾(これちか)であった。
維幾の子為憲が公威を借り部内に乱暴を働いており、
玄明はこの為憲のために迫害をうけて将門のもとに保護を求めてきたが、
そのころ、武蔵国からは例の興世王が新司百済貞連と対立して、
これも将門のもとに身をおいていた。
玄明の願いをうけいれた将門は、常陸国の国府に赴き、
玄明の身の保障を求めた。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
 国府側は将門のこの要求を拒絶するばかりでなく、
将門の宿敵貞盛をかくまっていたのであり、
その貞盛が為憲とともに国衙の武器をもち出して三千の兵に武装させ、
将門に戦いを挑んできたのである。
将門にとっては、玄明のことは勿論(もちろん)ながら、
行方(ゆくえ)を探していた貞盛が常陸国府にいて、
その挑戦をうけたということ、
そのことは戦意を鼓舞させるに充分な条件であった。
  このように玄明を庇護(ひご)しようとして起こした将門の行動は、
新たな目的をえて過激となり、
ついに国衙を焼打ちしてこれを占拠し、
国印と正倉の鍵とを奪って国司を
追放するということにまでエスカレートしたのである。
ここにいたって将門の行為は、
国家権力への明確な反抗となったと評されることになる。
その契機は何かというと、私は、いま見たように、
実に貞盛追撃という将門の一貫した
私闘のレールの上にあったものだと考えるのである。
それにしても、先の良兼追撃で下野(しもつけ)国の国府を包囲したときと、
このたびの常陸国の国府の攻略との違いはどうして起こったのだろうか。
この違いが結局叛乱へのエスカレートの要因をとく鍵となろう。
 両者の違いはいろいろあるが、
しかし基本的に重要なので次の点であろう。
それは下野の場合にはまだ顕在化していなかった朝廷、
公権力に対する不信感が、
常陸の場合には将門の胸中に大きく存在したことである。
だいたい将門は私闘の間、つとめて公的紛争への拡大を避け、
朝廷の動向に注意を払い、極力公権力への順応さえ考慮していた。
ところが次第にその公権力への認識がかわってきたのである。

  その事情については、
将門の藤原忠平家宛(あて)の上書(じょうしょ)からよみとることができる。
すなわち、将門は先に良兼らの不法な挑戦を告訴したのであるが、
朝廷はこれをとりあげ諸国合勢して
良兼・良正・貞盛らを追捕(ついぶ)すべしとの官符を下した。
しかるに諸国司はこれを励行しようとはせず、
都からは再度将門召喚の使いが下された。
そのうえ朝廷は都に逃げ込んだ貞盛を逮捕しないばかりか、
その訴えを容(い)れて、こんどは逆に将門追捕の官符を下す、
というむちゃな挙に出た。
これは朝令暮改(ちょうれいぼかい)もはなはだしくて、
言語道断(ごんごどうだん)な仕打ちである、
と将門は大いに怒るのである。

 このような朝廷の態度に憤激した将門は、
命がけで血みどろの戦いをくりかえし、
なおも公権力を憚(はばか)るという態度を
かなぐり捨てるということになったものと思う。
朝廷に対するこのような不信感こそが、
将門をして叛乱にいたらしめた最大要因だったのではなかろうか。
そしてそれは、宿敵貞盛殲滅(せんめつ)という
戦争目的である限りは私闘の延長にほかならないが、
もはや公権力への憚りは歯どめとして存在しないにも等しかった。
公権力への大きな不信感こそが
彼を叛乱へエスカレートさせたといってよいであろう。
政権樹立の夢
 常陸国の国府占拠のあと、
将門はひきつづいて下野・上野両国国府を占拠した。
いったん常陸を占領した将門にとって、
以後の行動はむしろ自己防衛の道でもあったろう。
もはや将門にとって自己を保全する道は、
機先を制して坂東征覇(せいは)をなしとげ、
足柄(あしがら)・碓氷(うすい)の両難関を固めるよりほかはなかった。
このあと、冒頭に述べたような「新皇即位」の儀式などが行われた。
 このようにみてきて、
将門の叛乱は私闘の延長上にあったものといえる。
だから叛乱についての独自の構想もないし、
新政権の政治学もなかった。
彼はこの段階では坂東諸国の国府の掌握に主たる関心があったのであり、
その国々を分治する者を指名し、
自らはその上にたついわば坂東の王の位置につく程度であったろう。
 そのようなわけだから、
独立的な勢力をたてようとはしたけれども、
領民に対しての施策を明らかにした形跡はない。
人心を収攬(しゅうらん)しようとする態度はそこにはないのである。
その反面、将門が最も意を注いだのは、
忠平家宛に上書を提出して弁明するといった朝廷に対する配慮であり、
坂東においてはなお宿敵貞盛の探索であった。
この段階になってもなお彼は私闘の論理を昇華させきっていない。
これでは、とうてい坂東の豪族・
農民たちの輿望を担(にな)うことはできない。
 私闘の論理をもちつづけている将門には
新しい政治的構想は生まれなかった。
それは側近の興世王らの無能といって片づけてしまうわけにはいかない。
やはり私闘の論理の当然の帰結として、
既存の国家の枠(わく)のなかで、
自己勢力の保全のための処置にとどまったのである。
 将門の「政権」はただちに新しい社会の夜明けではなかった。
それならばその前進的な意義はどこにあったろうか。
それは全国支配を完結させている
巨大な古代国家権力の一部を実力でもぎとり、
独立的な軍事政権をうちたてようとした
叛乱という現象それ自体にあったと思う。
これは古代国家のさまざまな矛盾、動揺、
個別の小反乱などという前提・背景のなかでとらえることによって、
古代末期の歴史のなかでの一定の位置を占めるものである。

 将門の叛乱は貴族の手によって鎮圧されたものではなかった。
将門と同類の平貞盛や藤原秀郷(ひでさと)との戦いが決定的だった。
彼らは将門追捕(ついぶ)という官符を背負ってはいたが、
その戦いの本質は、
やはり坂東の土着受領(ずりょう)豪族間の私闘の延長線上にあったといえる。
こうした動乱を通じて坂東の豪族層はきたえあげられていったのである。

 将門の叛乱の九十余年のちに平忠常は房総(ぼうそう)に反乱を起こし、
さらに陸奥六郡を従えた安部頼時は国衙を倒して政権をたて、
また奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)には
藤原四代によって独立政権がたてられた。
源頼朝(よりとも)の挙兵さえ都の貴族たちには
将門の叛乱のごとく映じたという。
 将門の「政権」は古代意識の強い、
しかも未成熟なものでしかなかったが、
古代国家の全国支配に反抗し、
分権的な地方政権樹立への道を切り開こうとしたところにこそ
意義をみいだすことができる。
 歴史の進行は全くジグザクな形をとるものである。
ストレートに短絡しえない姿こそ歴史の実像であろう。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
父の一枚です(^^)v
風車の丘はヒマワリが見ごろで
今日は、土曜日とあって家族連れなどで賑わっていました。