晴れたり曇ったりしていて、途中からポツポツしてきたので帰りを急ぎました。
山の方(京都方面)を見ると雪が降っているみたいでした。
「山沿い中心に雪続く 十分注意を」(NHK 京都)
2月18日
天皇機関説が貴族院で攻撃された。 1935(昭和10)年
「美濃部(みのべ)博士の天皇機関説では、議会は天皇の命令に従わなくてもよいと言っている。これは天皇に対する叛逆(はんぎゃく)ではないか」と、元陸軍中将の男爵(だんしゃく)菊池武夫(きくちたけお)は貴族院の演壇上から激しい口調で東京帝国大学教授美濃部達吉(たつきち)を攻撃した。
貴族院議員や政府委員にも任命されていた美濃部がこの日突然、叛逆人呼ばわりされたのはなぜなのか。
天皇が国民や議会を無視して好き勝手に権力を振るうことはできないとする天皇機関説が、天皇の絶対性を笠(かさ)に権力をふるう軍部の邪魔になったからである。
1週間の後、美濃部は貴族院で弁明の演説に立った。
美濃部は2時間にわたって、じゅんじゅんと自分の学説を説明し、決して叛逆的な学説ではないとのべた。
しかし、政府は軍部や右翼の執拗な攻撃に屈し、天皇機関説反対の声明を出すとともに、美濃部の著書を発禁処分にした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
昨夜のEテレ100分de名著「力なき者たちの力 第3回 並行文化のの可能性」
まさに今の日本だなと思いながら見ていました。
抵抗運動の大きな波が始まる起点は、あるロックミュージシャンの逮捕だった。
ただ自分たちの好きな音楽を演奏し、真実の生を謳歌したいだけだった「プラスチック・ピープル」のメンバーが治安紊乱罪で逮捕。
表現の自由があるはずの日本で、表現の自由が無くなっている…
「中立」という言葉が、検閲と同じ意味を持って、立ちはだかっている。
(再放送は、リンク先の公式サイトを参照してください)
昨夜のEテレ「2355」でトビーが
「一年の中で
2月だけが短い。
なんでかな。
春が早く来るように、
なんてね。」
百貨店などに行くと、もう、ひな祭りの飾りが目を引きます(^_-)-☆
『医の民俗 日本の民俗学シリーズ7』より「春の行事」から
ひな祭りの行事を転記しますφ(..)
三月三日は群馬県でヒナゼックと呼んでいる。
長女を祝う節供とされ、次女以下は祝わないのが普通である。
多野郡上野村乙父では、この日の朝オヒナガユと称する女の子の行事がある。
朝まだ暗いうちに8歳から13歳ぐらいまでの女の子が五、六人が友達を誘い、雛人形・炬燵櫓・毛布・蓆・鍋・米・おかず・燃料などを用意して、神流川の川原に降りてゆく。
川原に着くと、それぞれのグループが自分たちの居場所をきめて、グループごとに石でコの字形の囲いを作る。
これをオシロ(城)と呼んでいる。
この中に蓆を敷き、炬燵櫓を置いて毛布を掛けて座席を設ける。
奥には雛壇を設け、雛人形を一、二体飾り桃の花を供える。
川の水で米をとぎ、鍋の中に入れて川の水を注ぐ。
石を積んで作ったかまどに鍋をかけて、火を燃やして粥を煮る。
粥が炊けるとまず雛人形に供え、各自持ちよったおかずでオヒナ粥を食べる。
炬燵に入って暖をとりながらオヒナ粥を食べ、楽しいおしゃべりをして、昼ころまで川原で遊ぶのである。
(『医の民俗 日本の民俗学シリーズ7』根岸謙之助 雄山閣出版 昭和63年)
「冬のくらし~冬に活躍した昔のもの~」(亀山市歴史博物館)
ヒナ祭りは元来川原に出て禊祓をし、人形(ひとがた)を作ってこれに穢を移して川に流す行事から発すると言われ、悪疫防除の呪術がその祖型と考えられる。
オヒナガユの行事は、現在のように家の中に雛人形を飾って楽しむ行事と化する以前、川原や野原に出て共同飲食をする古い祭りの姿をよく伝えているものということができる。
『万葉集』巻16「由縁(ゆえよし)有る雑歌」にオヒナガユの古俗をうたった次の歌がある。
むかし、老翁(おきな)あり、号(なづ)けて竹取の翁といふ。
この翁、季春の月に、丘に登りて遠く望む。
たちまち羹(あつもの)を煮る九人の女子に値(あ)ひぬ。
百嬌は儔(なら)びなく、花容は匹(たぐ)ひなし。
時に、娘子(をとめ)ら、老翁を呼び嗤(わら)ひて曰はく、「叔父来れ。この燭(ひ)火を吹け」といふ。
ここに翁、「唯(を)々」といひて、やくやくに趨(おもぶ)きおもふるにに行きて、座(くら)の上に着接(つ)きぬ。
やや久(ひさ)にして、娘子ら皆ともに咲(えみ)を含(ふふ)み、相推譲(あひせ)めて曰はく、「誰れかこの翁を呼びつる」といふ。
すなはち、竹取の翁謝(かしこ)まりて曰はく、「非慮(おもはざ)る外(ほか)に、たまさかに神仙に逢ひぬ。迷惑(まと)ふ心、あへて禁(さ)ふるところなし。近づき狎(な)れぬる罪は、こひねがはくは、贖(あか)ふに歌をもちてせむ」といふ。(16-3791)(歌は略す)
竹取の翁が「季春の月」すなわち3月「丘に登りて遠く望」んだところ、その丘で9人の若い女が集まって「羹」、すなわち野で摘んだ若菜を煮ているのに出会う話である。
「九人の女子」は仙女で、煮ている若菜は仙薬に擬せられている。
古代日本人は、若い女が煮た若菜を「老翁」が食べると、若返りの効能があると信じていたようである。
(『医の民俗 日本の民俗学シリーズ7』根岸謙之助 雄山閣出版 昭和63年)
文中で紹介されている『万葉集』の現代語訳を転記したいと思います。
なお、読み下し文は『医の民俗』とは、違います。
続いて省略されている長歌(16巻3791)と反歌(3792、3793)の歌意と解釈を転記しますφ(..)
なお、解釈は途中で終わりますが、続きは後日、紹介します。
◆昔、老人がいた。人呼んで竹取の翁と言った。
この老人が季春三月に丘に登って遠くを眺めていた時、ふと汁を煮ている九人の娘たちを見かけた。
こぼれる愛嬌はたぐいなく、花のように美しい姿は並ぶものがない。
その時、娘たちは老人を呼んでからかって言った、「おじいさん、来てこの火を吹いてくださいな」。
そこで、この老人は「はいはい」と言い、そろそろと近づいて席に着いた。
しばらくして、娘たちはくすくす笑い、あなたこそと互いに押しつけあって、「誰がこんなおじいさんを呼んだのよ」などと言っている。
そんな次第なので、竹取の翁は、「思いがけなくもたまたま神仙の方々にお目にかかり、とまどう心を抑えかねます。馴れ馴れしく近づいた罪は歌を作ってお許しを願いとう存じます」と謝って、ただちに作った歌一首と短歌
(『万葉集(五)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2015年)
第16巻 3791、3792、3793
歌 意
緑児の幼かった頃には母に抱かれ、はうようになると木綿でつくった袖無しをすべての裏につけて着、うない髪の童子の頃には絞りぞめの袖をつけた衣を着た私であった。
美しいあなたたちと同年輩の頃には、黒い髪をよい櫛でこの辺までかきたれ、その髪をつけんて挙げてまいてみたり、解きみだして童髪にしたりし、着るものは羅(うすもの)のよく似あう色なつかしい紫の大綾の衣や、住吉の遠い里にある榛で色をつけた衣に狛錦の紐をぬいつけ、何枚も重ねてきた。
そうして麻をつむぐものや服を織るものが、打ってつやをつけた栲(たえ)を織糸につくってく織った布や、日にさらした麻で作った布を何枚も重ねて着、稲を扱う処女が言いよろうと私にくれた、遠方からきた二綾の下ぐつや、飛鳥壮士が長くふりつづく雨をさけて縫った黒くつをはいて、庭にたたずむと、いってはいけません、と止めるおとめが、私のことをほのかに聞いて、私にくれた藍の薄い色の絹の帯を引帯のように軽く身につけ、海宮の御殿の屋根にとびかけるすがる蜂のように腰を細く飾って、澄んだ鏡を並びかけて自分の顔をうつし眺めて身づくろいをととのえ、春になって野べをめぐると、私を興深く思ってか野の鳥も近づいてきて鳴きかける。
秋になって山辺を行くと私をなつかしいと思ってか天雲もなびいてくる。
帰り路をくると宮廷に仕える女も舎人壮士も慕わしく思ってふりかえり見ながら、どういう人だろうと思われていたものだった。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
このように過ごしてきた。
昔は輝くようであった私がまあ、今日は、あなたたちにどうかしらとしりごみされている。
このようになるので、それで古(いにしえ)の賢人も後世の手本になるようにと、いった老人をすでに送った車を持ちかえって来たのです。
反歌二首
死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子(しろかみこ)らに生(お)ひざらめやも (3792)
白髪(しろかみ)し子らも生(お)ひなばかくの如(ごと)若けむ子らに罵(の)らえかねめや (3793)
反歌二首 死ねば白髪も見ないであろうが、生きていたならば白髪が子らに生えないことがあるだろうか、いつかはきっと白髪の老人となる。 白髪が若い人たちに生えたならば、私が今若い人たちにあざけられたように若い人に罵られないであろうか、罵られるにちがいない。 |
「竹取翁歌」である。
この長歌ならびに反歌2首に対して、娘子9人が和(こた)えた歌が9首あるので、歌数よりみても12首になるうえに、長歌が量のうえでも長く、またきわめて難解であるから、この一連の歌だけを解釈した真淵の著書も存するくらいである。
解釈にも問題は多く存するのであるが、すぐれた歌であるので、ここに取りあげることにする。
その前にこの歌を説話的に解説しておきたい。
「竹取翁歌」をあげるとき、竹取翁という点からただちに思いうかぶのは『竹取物語』との関連である。
一見関連はないようであるが、まったくないとは言いきれない。
この歌は、竹取翁と羹(あつもの)を煮る9人の処女(をとめ)とが、季春に岡の上でうたいあうという、きわめて明るい長閑(のどか)な感がある。
そして、9人の処女は老翁をよび迎えたが、あまりに老いた姿のために嘲笑するのを、老翁が歌をもってさとしたのである。
今は老いたが、昔若かりし頃は多くの女性に喜んで迎えらえたことを言い、御身らも今は若いが、やがて老いて人に嫌われる、といったので、処女らも恥じてこの老翁に心を寄せたのである。
老翁の、
死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪(しろかみ)子らに生(お)ひざらめやも (3792)
というのに対して、
はしきやし翁(おきな)の歌におほほしき九の子らやかまけてをらむ (3794)
はぢを忍びはぢをもだして事もなく物言はぬさきにわれは依りなむ (3795)
その他それぞれを歌うのである。
これを思想的にみると、若者もやがて老いるという点を中心としているが、仏教的な無常観というよりは現世的な傾向が見られる。
歌においても感覚的な表現が多いのである。
そして説話の形式からいうと、老翁と9人の処女の贈答という性質を有する。
9人の処女は現実的な人間であるが、どこか仙女的な感もある。
その点では松浦川の仙女らと旅人との関係にも類似するものがある。
ただそれは河畔における処女などであり、「竹取翁歌」は春の岡に羹煮る処女らである点に相違がある。
そして春の野における処女と老翁という形式は『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある、
春の焼け野に菜をつめば岩屋に聖(ひじり)こそおはすれ、ただ一人野辺にてたびたび逢ふよりは、な、いざたまへ聖(ひじり)こそ、あやしの様(やう)なりともわらはが柴のいほりへ
に類似てしている。
このばあいは処女らの数は明らかではないが、「わらはが柴のいほりへ」とあるから数人であったことは明らかである。
また、処女の数が限定されているという点からすると『古事記』の神武天皇の条に、高佐志野で大久米命(おおくめみこと)と伊須気余理比売(いすきよりひめ)その他の7人の処女との贈答のばあいに類似している。
倭の高佐志野を七ゆく処女ども誰をしまかむ
の歌は妻まぎの歌であるが類似するものがある。
ただこれは7人であって9人という数と相違がある。
そうして処女もしくは仙女の数という点から見ると羽衣説話のそれにも類似するものがある。
このばあいは8人の仙女となっている。
日本においては七もしくは八が多いのであって、九という数は中国の文献に多いようであるから、そういう影響があるのかもしれない。
もとより近江伊香小江の説話では漁夫伊香刀美と天女8人となっており、神婚説話であるが、丹後の比治真奈井の説話によると、和奈佐翁が8人の天女のうち、一人の羽衣をうばうことによって天女が翁夫妻の娘になることになっている。
それは老翁と8人の天女という形式になるのである。
ただ羽衣伝説型の説話と『万葉集』の「竹取翁歌」の説話とは、こういう老翁と8人の天女という点で形式に類似はあるが、それ以上に関係はないかにも見える。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)