毎日、厳しいニュースが流れています。
昨夜は、かなり雨が降ったようです。
初めは曇り空でしたが、少し青空が顔をのぞかせてくれました。
新型コロナウイルス対策にも青空が見えますように!
今朝の朝刊に
▼このウイルスの猛威もいずれは終息するだろう。
その時、人間社会が修復不能な深い傷を負わぬように祈るばかりだ。
(朝日新聞 「天声人語」 2020年2月26日)
今朝の「折々のことば 鷲田清一」に紹介されていたのが
ジャーナリズムとは社会の自由度を計るための、なくてはならないバロメーターなのです。
マリオ・バルガス=リョサ
『プリンストン大学で文学/政治を語る』(立林良一<たてばやしりょういち>訳)から。
政府を批判すると反日だの嫌日だのと批判する新聞が
〝【主張】検事長の定年延長 「解釈変更」根拠の説明を〟(産経新聞 2月24日)
わざわざ不信を招く事態を政府自ら演じているようにみえる。
とまで「主張」しなければならない事態になっています。
2月26日
二・二六事件がおこった。 1936(昭和11)年
近衛(このえ)歩兵第三連隊などの、帝都を守る1400名の兵士が反乱をおこしたのは35年ぶりの大雪の朝であった。
夜明け前に兵営を出た反乱軍は、高橋是清(これきよ)蔵相など多数の政府要人をおそって殺傷したのち、永田町一帯を占拠した。
岡田啓介(けいすけ)首相は、反乱軍兵士が岡田の義理の弟を首相とまちがえて射殺したため、あやうく難をのがれることができた。
反乱軍は、国の方向を誤らせている政治家を除いて、天皇じきじきの政治を実現することを主張したが、4日後に鎮圧された。
しかしこの事件後、政府・議会にたいする軍の圧力は一段と強まった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』より「立派であった夫人達」を転記しますφ(..)
立派であった婦人達たち
……略……
岡田首相、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、牧野伸顕前内府が襲われ、うち内大臣斎藤実と大蔵大臣高橋是清、そして教育総監渡辺錠太郎の3人が殺されました。
重傷を受けたのは鈴木貫太郎侍従長、間違えられて助かったのが岡田啓介首相、牧野は無事脱出しました。
このように天皇側近の要人(ようじん)を次から次へと襲撃して殺害したのです。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
この時、非常に立派だったのが、狙われた人たちの奥さんでした。
斎藤内大臣の夫人春子さんは、火を吐く機銃にすがって「殺すなら私を殺してからにして」と身をもって夫をかばい、無理やり引きはなされて内大臣は40数発の弾丸を受け、即死しました。
高橋是清蔵相は、撃たれたうえに左腕を斬(き)られて死んだのですが、夫人の志(し)なさんは来訪した新聞記者に向って「青年将校は卑怯(ひきょう)に存じます」と言い放(はな)ちました。
また渡辺錠太郎夫人のすずさんも立派でした。
いきなり入ってきた青年将校たちに、「帝国軍人が土足で家に上がるのは無礼でしょう。それが日本の軍隊ですか」と銃剣の前に立ちはだかったという話もあります。
また鈴木貫太郎夫人のたかさんは、夫が4発撃たれて倒れたところへとどめを刺そうとする将校に、「武士の情けです。とどめだけは私に任(まか)せてください」と制した。
これを指揮していた安藤大尉は「閣下に対し敬礼」と号令をかけて捧げ銃(つつ)をしてそのまま引き揚げていきました。
このように、奥さん方が危急(ききゅう)の時にじつによく頑張ったという話が、この殺伐(さつばつ)たる二・二六事件にちょっとした明るさをもたらしてくれるのではないでしょうか。
問題は、いったい何を考えてこのような事件を起こしたのかです。
総理大臣岡田啓介、侍従長鈴木貫太郎、内大臣斎藤実、彼らは海軍出身で、昭和天皇に直接上奏(じょうそう)できるわずかな人間です。
この人たちを天皇から離してしまえば、直接天皇につながる人物で残るのは陸軍では陸軍大臣川島義之と参謀総長閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王ぐらいしかいません。
この二人とも、どちらかというと皇道派系、つまり都合のいい人物です。
そうして天皇を孤立させて皇道派がうまい具合にやろうじゃないかという魂胆(こんたん)がみえみえ、ともとれる。
そこで皇道派の大将たち、荒木貞夫や真崎甚三郎(まざきじんさぶろう)、本庄繁(ほんじょうしげる)らが嚙んだ大陰謀ではないかという説が出てくるのです。
ところが、そんな馬鹿な話があるもんか、という意見も出てきます。
実際、後に反乱軍将校が軍事裁判でこれを全否定しています。
われわれは貧困な人びとのために起(た)ったのだと。
しかしさてどうか、というところもいくらかはあるのです。
なお、参謀総長には昭和6年から15年まで、閑院宮が任じられています。
これに和するように軍令部総長に、すでに何度か登場しています伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)が、昭和7年から16年4月までついています。
皇族を統帥部のトップに戴(いただ)くというのは、重(おも)しとなっていいともみられますが、これを上にまつりあげて実はロボット視してしまうことが多く、下克上の風潮が大いに助長されることになりました。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
この時、殺された教育総監渡辺錠太郎は、渡辺和子シスターのお父さんです。
そしてシスターは、お父さんが撃たれる瞬間を目撃されています。
あの人に会いたい「渡辺和子」(NHK)
Eテレ「こころの時代」のテープ起こしをされている方がいます。
「〝ふがいない自分〟と生きる」(「こころの時代へようこそ」 平成24年9月9日)
そして柳家小さん師匠は反乱軍に陸軍二等兵として加わっています。
師匠は士気高揚のため一席やらされたが、みなクスリともしなかったそうである。
「春秋」(日本経済新聞 2016年2月26日)
今朝の父の一枚です(^^)v
曇り空なので朝のうちは花粉が少ないだろうと出かけました。
私は鳥の撮影を諦めているのですが、
父は、メジロやジョウビタキを写していましたp(^^)q