2020年2月5日水曜日

風が強かったけど…

父の歯科通院の付き添いで運転手をしました。
治療が早く終わったのでリハビリ散歩に出かけました。
風が強かったのですが、歩いていると手袋を脱ぎたくなるほど…
午後からは、一気に気温が下がったように思えるほど寒くなった…
今シーズンいちばんの寒波到来!」(NHK関西 えりの気象日記 2月4日)
スズメたちが朝ごはんを食べているなぁと見ていると
カワラヒワも仲間に入っていました(^_^)
モズ♂に出会った時に、朝ごはんを食べていたのですが
丸呑みをした時に瞬膜(しゅんまく)を閉じているように見えました。
丸呑みをして眼を白黒させたのかな(^_-)
また、コゲラが新居を作っていました。
コゲラもそろそろお嫁さんを探す時期みたいです(*´▽`*)
今月の100分de名著はヴァーツラフ・ハヴェルの『力なき者たちの力』です。
チェコスロヴァキア(1993年、チェコとスロヴァキアに平和裡に分離・独立)については
1968年にソ連率いるワルシャワ条約機構軍が侵攻したときの映像がニュースで映しだされ
当時、中学生でしたが怒りがフツフツと沸き上がったことが思い出されます。
第1回の再放送は今日あったので見ることができませんが興味深い内容です。
Eテレ「知恵泉」で1月に取り上げられていた平清盛
清盛について永井路子さんが
女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』(絶版)
にとりあげています。
忘れられているもう一つの平清盛像
 ――貿易立国を考えた男

見落としていたもう一つの顔
 平清盛――。
 昔はすこぶる評判の悪い男だった。
 成りあがり者・平忠盛(ただもり)の息子。
 権力を独占し、ついには後白河法皇をも幽閉した不忠者。
さまざまの罪の報いで、原因不明の熱病にとりつかれて苦しみぬいた最期も、さまで同情されなかった。
 が、戦後は、彼の人間的な面が再評価されはじめた。
娘の徳子(とくこ)が、高倉天皇のきさきとなってもうけた皇子(後の安徳帝)が、徳子に抱かれて清盛邸を訪れたとき、この無心の嬰児が、障子に指を突っこんで穴をあけると、ありがたがって涙を流し、
「家の家宝だ、このままとっておけ」
と言ったとか……。
娘や孫には、まるきり甘い、いいおじいちゃんでもあったらしい。
 が、権力者はたいてい横暴だし、その横暴な男も、子供や孫の前では、いい家庭人であることが多い。
こうした面だけをとりあげても、歴史の中での清盛の位置を見きわめることにはならないだろう。
八百余年の間、私たちは、清盛の最も大事な顔を見落としてきたのではないか。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』永井路子 PHP研究所 1992年)
 その大事な顔とは?
 一大貿易商としての清盛の顔だ。
 貿易商などというのは生ぬるい。
日本国はじまって以来の、独占貿易商社のシンボル的存在としての清盛といったらいいだろう。
現在、日本の貿易黒字が問題になっているけれど、平家の儲けは、巨大商社といわれる某物産、某商事などの比ではない。
それらの総合商社を全部合併させたくらいの、まさに、
「大平家商事」
 ともいうべき存在だったのだ。
そしてこの貿易から得た経済力こそが、平家の権力の根底になっていたのである。
 じつをいうと平家政権に対する評価が今でも揺れている。
武士である平家が覇権を握った点を重視し、武士の時代はこのときから始まったとする見かたがある一方、天皇の外戚になったり、太政大臣清盛以下、一門が公卿の座を占めたところに注目し、
「いや、平家だって藤原氏とそう変っていない」
 と主張する人もいる。
 が、平家と、それ以後に登場する鎌倉幕府のありようはまったく違うし、かといって王朝貴族と平家は決して同じではない。
その差はどこにあるかというと、藤原氏にはとうていできなかった大胆な貿易振興策、ということになりそうだ。
 もちろん専門家はそれに早くから注目はしていたが、一般がそれに気づきだしたのは近頃のことだ。
ではなぜ気づいたか、といえば、それは現代の日本が、貿易ですさまじいまでの稼ぎかたをしているからだと私は思う。
 へんな言いかたをするようだが、じつはこんなふうに、現代は歴史を照射する。
ふつう、歴史をふりかえって、現代を生きかたを学ぼうとするが、これはとんでもない錯覚で、むしろ現代をよく見つめ肌身に感じてみると歴史が学べるのだ。
 と、いうわけで、現代をよく見てから清盛をふりかえってみると、
「なるほど、貿易のうまみを、日本で一番最初に知ったのは、清盛かもしれないな」
 ということになるのである。
 ただし、貿易といっても、彼の場合は輸出振興よりも輸入での大儲けである。
当時の輸出品のトップは金で、それに続くのが刀剣だったようだし、もちろんこれらも高価で売りつけたが、それとひきかえに輸入したものを、法外な値段で売りつけて巨利を得た。
 このことを一度でも海外旅行をした方は、実感として味わわれたはずだ。
日本では呆れるほど高価な洋酒でも香水でもバッグでも、向こうで買えばまず半価以下、ときには三分の一ということだってある。
だから海外旅行をする日本人はブランドに飛びつくのだ。
ブランド商品にむらがるリッチなOLをあざわらう前に、ここでその理由を考えていただきたい。
 では、海外商品は日本ではなぜ高いのか。
関税もさることながら、輸入元の総代理店とか特約店とかが一括輸入し、値段をつりあげているからだ。
「大平家商事」は、輸入商の御先祖格、と思っていただけばいい。
なにしろ当時の唯一の総輸入元のようなものだから、値段は言い放題、つけ放題、ということになる。
 もちろん、日本にそれまで輸入貿易がなかったわけではない。
平安時代の公式の輸入窓口は九州の太宰府で、ここに、これまた唯一の外国商人である宋の商人がやってきて取引きをする。
だからこの太宰府にいる役人は、公式の貿易をするほかに、私的にも外国商品を買いあさって大儲けをする。
この太宰府の長官は、いわば貿易公社総裁で、中央の高官が任命されることになっていたから、彼らはなんとかしてこのポストにありつこと大騒ぎをしたものだ。
 そして、清盛も念願叶って、この太宰府の長官に任命されている。
その地位を利用して、彼は飛躍的に貿易を規模を拡大させたのだが、じつは、これが「大平家商事」の出発点ではない。
今でも選挙の告示とか、新入社員募集の解禁日に、新聞は「この日いよいよ終盤戦に入った」と書きたてるが、清盛の太宰府長官任命(清盛は、正式には大弐(だいに)すなわち次官に任命されたのだが、実質上は長官)もまずそんなところだった。
「大平家商事」前史はかなり長いのである。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』永井路子 PHP研究所 1992年)
平清盛は商才があって貿易で利益をあげました。
一方、「爆買い」という言葉がありますが、
昔、「ブランド商品にむらがるリッチなOL」と言われた時代がありました(この本が書かれたのは1990年代)。
現在では、ネットオークションで
新型肺炎 マスクがない!15分で完売 定価の10倍以上で転売も」(NHK)
という状況になっている。
コゲラ 
 小さなキツツキ


「町の中には、キツツキの仲間もいます」と話すと、たいていの人は驚きます。
キツツキなんて山の中にいるものだと思っているからです。
私も、子供のころ家のすぐそばで、この小さなキツツキであるコゲラを見つけた時は感動したものです。
大きさや重さは、スズメとほぼ同じです。
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)
 キツツキが山の中にいるというイメージは間違いではありません。
なぜなら、キツツキが生活するのは、たくさんの木が必要だからです。
森の中で、木に穴を掘って巣をつくるのが本来のキツツキの生活です。
 では、コゲラがなぜ町の中にもいることができるかといえば、体が小さいので、それだけ小さな林でも生息できるからです。
とはいえ、同じサイズの鳥に比べれば、コゲラの縄張りの広さは、20ヘクタール(400×500メートルくらい)と、かなり広めです。
しかも、多少、広場など混ざっても構いませんが、基本的には林の面積です。
都心であれば、かなり大きな公園が必要です。
地方都市であれば、城跡のようなところに生息しています。
 なぜ、広い林を必要とするかといえば、たくさんある木のうち、実際に利用できる木は、そうたくさんはないからです。
たとえば、コゲラが巣をつくろうと思ったら、枯れた木とか、材のやわらかい木が必要です。
そういう木があるためには、たくさんの木があって、そのうちどれかが使えるという状態になければなりません。
 冬になると、小さな公園でもコゲラを見られるようになります。
これは第1章でも述べましたが、子育ての時期と、それ以外の時期では、制約が異なるからです。
子育てをする時期には、巣をつくれる場所、そして、その巣のある場所から近いところに餌を採れる場所が必要です。
それに対して子育てをしない冬の間は、餌は自分の分を賄えればよいわけですし、巣を中心に動く必要はないのです。
より広い範囲の中で餌が採れれば十分だからです。
個人宅の庭にやってくることもあります。
(『身近な鳥の生活図鑑』三上修 ちくま新書 2015年)
 「新型肺炎 カンボジア “特別な対策取らないことで中国を支援”」(NHK)
中国に経済的に依存しているからだと思いますが、
このままフン・セン首相の思惑通りに事態が進むのかな?
インドネシア・カンボジア「感染者、少なすぎる」 「制度的な欠陥」「隠している」ネットに相次ぐ〟(朝日新聞)