2020年2月3日月曜日

節分

今朝も風があまりなく暖かかったです(^^)v
今日は、節分。
明日は、立春。
今の私たちにとって鬼は、新型コロナウイルスになるのかな…
昔の人たちと違って正確な情報を得ることができる。
と同時に、誤った情報も氾濫している。
新型コロナウイルス 徹底したい「手洗い」のポイントは〟(NHK)
エナガが二羽いるなと思っていると…
木の幹の苔を集めていました。
もう巣作りをしているようです…
エナガの周辺環境を計算し尽くした快適巣まい」(ミサワホーム)
節分の行事は、宮中行事の「追儺(ついな)」を真似たものだそうです。
有識故実大辞典』より「ついな 追儺」を転記したいと思いますφ(..)
続いて、文中に出てくる『論語』の該当箇所も転記します。
なお、漢文の返り点などは「(一)」などと表記しています。
ついな 追儺
宮中年中行事の一つ。
(だ)は疫を駆逐する意で、中国では時節の変り目に行なわれた。
『論語』など諸書にみえ、古くからの行事である。
わが国の追儺は、儺遣(なや)らう・儺遣らい・鬼遣らいともいい、中国唐代に大儺の礼(『唐書』礼楽志)などが伝えられ、重要な宮廷年中行事となり、民間にも広まった。
文武天皇の慶雲3年(706年)12月に
「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作(二)土牛(一)大儺」
とみえるのが初見である。
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
宮中では大晦日の戌の刻、王卿以下着座、陰陽寮から桃弓・葦矢を王卿に配布、天皇紫宸殿に出御、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳をまとい、右手に桙、左手に楯を持った方相(ほうそう)氏の役(中務省の大舎人の中から身体の大きな者が選ばれた)が侲子(わらわ)20人(のちには8人)を率いて参入、王卿は侍従・大舎人などを率いて方相氏の後ろに列し、陰陽師は斎郎(さいのお)を率いて月華門より入り、祭を行ない呪文を読み終ると、方相氏は大声を発して桙で楯を打つこと三度、群臣これに呼応して桃弓・葦矢で東西南北に分かれて疫鬼を駆逐する。
平安時代末期には方相氏を鬼と誤解し、群臣が後から追い出すように演出されることになった。
このあと饗が設けられたが末期には行われなくなったという。
この折宮中の所々には燈火をたくさんともして明るくする。
『延喜式』陰陽寮に祝詞の「儺の祭の詞」がある。
追儺には大声を挙げ振り鼓を鳴らして鬼を追い払う。
年の瀬を彩どる年中行事として王朝文学を賑わせている。
後世になると節分と追儺と豆まきが結びつくようになった。
節分の豆撒きは『花営三代記』応永32年(1425)正月八日条に「天晴、節分大豆打役、昭心カチグリ打、アキノ方申ト酉ノアイ也、アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とあり、『臥雲日件録』文安4年(1447)12月22日条にも節分に「散(二)熬豆(一)因唱(二)鬼外福内(一)」、『年中恒例記』にも「節分御館にうたるる大豆勝栗(下略)」とあるので、室町時代にはすでに大豆・搗栗(かちぐり)をまいて邪気を払うことが行われ、「鬼は外、福は内」と唱えたことがわかる。
狂言「節分」にもみられる。
古代中国では穀物に強い生命力、解毒、魔よけの呪力があるとされ、大豆を呪術に使った漢民族の遺習を伝えたものとみられる。
ちなみに、この後に行われた小規模の官吏任官式(人事異動)を「追儺の徐目」「追儺召の徐目」という。
  (中村義雄)
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)

節分祭について」(吉田神社)
 郷党 第十 8 
郷人(きょうじん)の儺(だ)には、朝服(ちょうふく)して阼階(そかい)に立(た)つ。

<現代語訳>
 同郷の里人(さとびと)たちが〔疾(やまい)を起こす鬼を家から追い払うために〕「儺々(だだ)」という声を挙げて〔家々にやって来るが〕老先生の邸(やしき)に来たときには、老先生は正装をして〔孔家の祖先を驚かせないため、孔家の宗廟の〕東階に〔警護に〕お立ちになって迎えられた。
(『論語 増補版』加地伸行 講談社学術文庫 2009年)

(1)「儺」は、疫鬼を放逐する行事で、日本では追儺(鬼やらい)という。
要するに疫病神(やくびょうがみ)の厄払(やくばら)いで、3月、8月、12月に行われたという。
(2)「朝服」は、登庁のときに着る正装の礼服。
先祖など鬼神に対する一種の祭祀のためであるから衣服を整えた。
(3)「阼階」は、主人側が使う階段。
(『論語 増補版』加地伸行 講談社学術文庫 2009年)
 『新版江戸風物詩』にこんな話が載っていました(^_-)-☆
続いて正岡子規の『墨汁一滴』より郷里・伊予での思い出を転記しますφ(..)

節分とふんどし
 江戸っ子には実につまらぬ迷信があって、思わず吹き出してしまう。
この節分の夜にも人に知られぬように四辻に褌を落しておくと災厄をまぬかれることが出来るという考えがあって、いつの頃からのことかは不明だが、こうしたことが行われたらしい。
「四ツ辻に抜身で厄を切り抜ける」のが慣例であった。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
  年男ぶるぶると目出度がり
  ぶらさげて首尾よ仕舞う年男
  年男帯から下で精進し
  ふんどしをわざわざ落す節変り


 なんとまあ派手な節分の迷信だったことよ。
江戸時代の交通巡査でもあった与力同心がどんな顔をして黙認したのだろうか。
 しかしこれが、京都の風習を江戸に及ぼしたのだというから恐れ入る。
(『新版江戸風物詩』川崎房五郎 光風社出版 昭和59年)
(『墨汁一滴』より郷里・伊予でのこと)

 節分にはなおさまざまの事あり。
我昔の家に近かりし処に禅宗寺(ぜんしゅうでら)ありけるが星を祭るとて燭(しょく)あまたともし大般若(だいはんにゃ)の転読とかをなす。
本堂の楣(のき)の下には板を掲げて白星黒星半黒星などを画(えが)き各人来年の吉凶(きっきょう)を示す。
我も立ち寄りて珍(めず)らしげに見るを常とす。
一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は善過ぎてかえって悪(あし)きなり半黒こそよけれ、などという。
我もそれを聞きて半黒を善きもののように思いし事あり。
(『<ちくま日本文学全集> 正岡子規』筑摩書房 1992年)
またこの夜四辻(よつつじ)にきたなき犢鼻褌(ふんどし)、炮碌(ほうろく)、火吹竹(ひふきだけ)など捨つるもあり。
犢鼻褌の類(たぐい)を捨つるは厄年の男女その厄を脱(ぬ)ぎ落すの意とかや。
それも手に持ち袂(たもと)に入れなどして往きたるは効無し、腰につけたるままにて往き、懐(ふところ)より手を入れて解き落すものぞ、などいうも聞きぬ。
炮碌を捨つるは頭痛を直す咒(まじない)、火吹竹は瘧(おこり)の咒とかいえどたしかならず。

  四十二の古ふんどしや厄落し
              (二月六日)
(『<ちくま日本文学全集> 正岡子規』筑摩書房 1992年)
今朝の父の一枚です(^^)v
コサギが朝ごはんをゲットしたところを撮っていました。