2014年9月23日火曜日

適塾

今日は天気がよく青空が広がっています(^-^)
栴檀木橋の向こうには中央公会堂.
先日訪ねましたが,今日は反対方向に(^_-)
理容所
町屋風の建物が今日の目的地「適塾」です(^-^)
史跡 緒方洪庵旧住宅及び塾
   昭和16年12月13日 指定
重要文化財 旧緒方洪庵住宅
   昭和39年5月26日 指定
  所在地 大阪市中央区北浜三丁目三番八号
      (旧過書町丼池東入)

この建物は,幕末の医師・蘭学者であった緒方洪庵が弘化二年(1845)に買い受けて,天保九年(1838)に大坂瓦町に開いた私塾,適塾(適々斎塾)を移転した場所である.
洪庵は,文久二年(1862)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの約17年間にわたり,ここに居住した.
洪庵は,ここで諸国から集まった門人たちに蘭学を教え,幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた.
敷地は間口約12メートル,奥行約40メートルあり,主たる建物は,主に教室に使われた表屋(前方部)と,洪庵と家族の居室にあてられた主屋(後方部)からなり,南庭に土蔵と納屋がある.
表屋は寛政四年(1792)の北浜大火後まもなくの建物と考えられ,もとは町筋に面する商家の形であったが,洪庵入居の際に若干の改造が行なわれたみられる.
表屋は二階建ての一階を教室,二階を塾生部屋とし,主屋は一部二階建てで西側に通り庭を持ち,台所・書斎のほか四室がある.
台所の二階にはヅーフ部屋と女中部屋がある.
洪庵が出府してのち,再三の改造があり,大正四年(1915)には前面道路の拡幅によって約1.2メートルの軒切りが行なわれた.
昭和51年(1976)から55年にかけて行なわれた解体修復で,軒切り部分を除いて,概ね洪庵居住当時の姿に復原した.
平成25年(2013)から同26年には,文化財的価値に配慮した耐震改修工事を実施した.
この住宅は,蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか,近世における大坂北浜の町屋建築の姿を示す重要な遺例である.
この建物は昭和17年(1942),国に寄附されるととなり,洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期設立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする,大阪帝国大学(当時)へ移管された.
現在はこれを大阪大学が所有し,一般公開している.
建物内部は,適塾および洪庵の事蹟を伝える資料展示を行なっている.
  平成26年(2014)4月
       文化庁
       大阪大学   

(注:いつものことですが転記間違いがあると思いますし,
表記を勝手に変えています(o_ _)o…)
靴を脱いで
パンフレットにあった図面です(カラーを削減しています)
受付で伺うと展示物品や説明書を撮さなければいいとのことでしたので
中庭
前栽
二階に上がりました(当時の階段ですので,まるで梯子を登るような…)


塾生の大部屋から
ここで福澤諭吉などが熱い思いで蘭学の勉学に励んでいたのだと…
緒方洪庵の像

江戸時代の町屋風(まちやふう)の建物は,幕末のすぐれた医者であり,洋学研究の第一人者緒方洪庵(おがたこうあん)が,1838(天保9)年から,幕府の奥医師として江戸に迎えられる1862(文久2)年まで,24年間にわたって開いた学塾である.
洪庵は,備中(びっちゅう)国(現,岡山県)足守(あしもり)藩士の子として生まれ,15歳のとき大坂に出て中天游(なかてんゆう)に学んだ後,江戸に向かい坪井信道(つぼいしんどう)の教えを受けた.
長崎への遊学を経て,28歳のとき,大坂で開塾する.
医学に関する翻訳・編述書を多く残しているが,その代表作には,わが国最初の病理学に関する書籍『病学通論』(編著),内科書の『扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)』(フーフェランド著)があり,39歳のときには,同志とともに種痘事業を始め,「除痘館(じょとうかん)」を設立し,予防医学・公衆衛生の面に力を尽くした.
誠実で温厚な性格,周囲への温かい気配り,そして学問への情熱・熱心な研究と豊かな実践力は,多くの若者を魅了し,塾生は3000人におよんだ.
越前(えちぜん)福井が生んだ幕末の思想家橋本佐内(はしもとさない),『学問のすゝめ』『文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく)』『福翁自伝』などの著作で知られる明治の思想家福沢諭吉,長州藩(現,山口県)出身で,近代的な軍隊制度の創設に尽力した大山益次郎(おおやまますじろう),日本赤十字社の初代社長佐野常民(さのつねたみ)らが,門下生として名を連ねている.
適塾は,木造2階建てで,敷地面積470㎡(間口12m・奥行39m)の地所(じしょ)に,建築面積285㎡・延べ床面積420㎡の構造となっている.
1階は,入口の土間から玄関部屋に続いて,6畳の教室が2間あり,塾生の勉学と休憩などの日常生活に使われていた.
中庭をみて廊下を通り奥に進むと,書斎・応接間・客座敷・家族部屋・納戸・台所へと続く.
また,前栽(ぜんざい)や蔵が設けられており,中庭や土間に2つの井戸がある.
さらにヅーフ部屋・女中部屋などがある.
ヅーフ部屋には,『ヅーフ辞書』(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが,ハルマの蘭仏辞書によって作成した蘭和辞書)がおかれて,塾生たちが競いあって勉学に励んでいたという.
現在の建物は,両替商天王寺屋五兵衛(てんのうじやごへえ)の分家筋にあたる忠兵衛(ちゅうべえ)の持屋を,洪庵が1845(弘化(こうか)2)年に購入したもので,築200年を経て現在に至っている.
1940(昭和15)年に大阪府の史跡に指定され,翌年国の史跡となり,1942年には大阪大学に寄贈された.
国の重要文化財に指定されたのは1946年のことで,1976年から5年間の5年間の解体・修復工事が行われた後,1980年5月に一般公開された.
適塾の東側と西側に隣接した公演が完成したのは1986年で,今日では,適塾記念会が組織され,大阪大学適塾管理委員会に発展して,史跡保存に努めている.
この適塾の西側には,大阪でもっとも古い歴史を有する愛珠(あいしゅ)幼稚園,南側には,除痘館跡・銅座跡・懐徳堂(かいとくどう)跡の碑がある.
(『大阪府の歴史散歩 上 』大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年)

次の目的地は適塾の近くなのですが工事中

右側に「銅座の跡」石碑
 愛珠(あいしゅ)幼稚園は,地元先覚者の幼児教育への熱い思いと協力で明治13年(1880年)に創設されました.
現園舎は三代目として明治34年(1901年)に竣工しました.
遊戯室は,高所に窓を設け,床は二重にし、最新の西洋技術を使って広い空間を作っています.
園庭には盛り土をして保育室や廊下と同じ高さにし,安全性と広さを確保しています.
園舎周りには高塀を巡らせ,南正面には「塀重門」という格式の高い形式の門を置いています.
その他にも通常の学校建築には見られない質の高い建築様式が使われています.
昭和6年(1931年)設置の廻旋滑り台は,子どもたちの大好きな遊具です.
愛珠幼稚園は,木造最古の幼稚園舎でありながらも,子どもたちが通う現役の園舎です.
このようなことが総合的に判断,評価されて,平成19年(2007年)6月,国の重要文化財に指定されました.
これを記念し,大阪市立愛珠幼稚園創立130周年記念事業として後世に伝えます.
  平成22年6月吉日
     愛珠会 

昭和20年の大阪空襲にも奇跡的に残った幼稚園
現在,耐震工事中でした.
屋根瓦を見ると「愛」の文字(*^-^*)
御堂筋に出ました.このまま進んで本町方面に出ると「北御堂(津村別院)」と「南御堂(難波別院)」があります.
御堂筋という名前は,この両御堂にちなんでいます.
住友生命南側壁面にあるのが

懐徳堂旧址の碑について
この地は徳川時代の学校として名高い懐徳堂の跡である
享保11年の開学から明治2年の閉鎖まで140年の間大阪文教の中心であった
大正の初年に先儒の偉業を顕彰して記念会が設立されたので当社も協賛してこの碑を建てた
撰文は記念会の創設者西村天囚先生
揮毫は懐徳堂第二代の学主たる中井甃菴先生の玄孫たる中井天生先生である

淀屋橋に戻って珈琲タイム(*^-^*)
適塾で購入した『緒方洪庵と適塾』を読んでいると
洪庵を支えた妻の八重さんの素晴らしさを知りました(*^_^*)
このように大坂の適塾や愛珠幼稚園,懐徳堂を訪ねて思うのは
大阪の町民が教育を大切にしてきたということ.
今の市長は,幼児教育の大切さを分かっていないと思ってしまう.

第99話 緒方八重(おがたやえ) (1822 〜 1886年)」(なにわ大坂をつくった100人)