2019年3月22日金曜日

冷たい風が吹いていて

父の歯科通院の運転手をしたので午後からやってきました。
午後からでも歩けるのはいいのですが、風が冷たすぎる…(^^;
それでも公園に着くとハナノキが咲いていました。
中世日本の内と外』(村井章介著)より
平氏政権の登場と外交姿勢の転換」を転記しますφ(..)
清盛や後白河法皇が面白い人物だなと思いました。
平氏政権の登場と外交姿勢の転換
 以上のように、9世紀に成立した貴族的対外観が
中~近世の日本の対外観の骨格を作ったわけですが、
もちろんそれがいつまでも安泰(あんたい)だったわけではありません。
最初の大きな動揺は、「院政」という政治形態の出現によってもたらされました。
   院政の政治的意味については、
院は天皇位を退くことで聖的存在としてのさまざまな制約から自由になるいっぽう、
天皇の親権者、天皇家の家長として国家の頂点に立ち、
俗世界の人間として専制をふるうことができた、といわれています。
伝統的対外観の克服もおなじ根から発するものといっていいでしょう。
 現代人には理解しかねることですが、
9世紀以降、天皇や上皇が外国人と面会することは、
好ましくないとされていました。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 9~10世紀のかわりめに在位した宇多(うだ)・醍醐(だいご)両天皇は、
中世貴族社会のよき伝統の創始者と目され、
ふたりの治世は「寛平(かんぴょう)・延喜の聖代(せいだい)と称(たた)えられました。
  その宇多は
「やむをえず異国の諸客を引見する場合は、
 御簾(みす)を隔(ひだ)ててすべし」
と遺言していますし、
醍醐は異国の占い師を洛中(らくちゅう)に入れてしまったことを
「賢王(けんおう)の誤り、本朝の恥」と悔(く)やんだと伝えられます。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 また宇多は、画工と面会したことを悔やんで子息の醍醐を誡(いまし)めました。
12世紀後半にこの話を書き留めた中級貴族中山忠親(なかやまただちか)は、
「本朝の人でさえこうなのだから、異朝(いちょう)の人ならなおさらだ。
 遠方から風俗の異なる人がやってきたら、
 (天皇に会わせず)容貌を絵に描(かい)いて叡覧(えいらん)に備えるべきだ」
とコメントしています。
異朝からもたらされるケガレから天皇や上皇をなんとしても守らなければ、
という意識がうかがえます。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 ところが忠親と同時代の1170年、
後白河法皇は平清盛の福原山荘(ふくはらさんそう いまの神戸市兵庫区にあった)におもむいて、
大輪田泊(おおわだのとまり 神戸港の前身)に
来着した宋人(そうじん)に面会しています。
これを聞いた右大臣九条兼実(くじょうかねざね)は、
日記に
「わが朝延喜(えんぎ)以来未曾有(みぞう)の事なり、
 天魔(てんま)の所為(しょい)か」
と怒りをぶちまけました。
長年のタブーを、院みずからが平氏政権と手をたずさえて踏みにじったのです。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 平清盛の父忠盛(ただもり)は、鳥羽(とば)院政の時代(1129~56年)に、
西国で海賊(かいぞく)のとりしまりに功績をあげるなどして、
院に認められます。
1133年、忠盛は院司(いんじ 院庁の役人)として「備前守」の官途(かんと)をもち、
かつ院領荘園(しょうえん)の肥前(ひぜん)
神崎荘(かんざきのしょう)の預所(あずかりどころ)を勤めていましたが、
この神崎荘に周新という宋(そう)商人の船が来着します。
大宰府(だざいふ)の役人が令法の規定にしたがって手続きをとろうとしたところ、
忠盛は、院からのおおせと称して
「神崎荘は院の御領(ごりょう)だから大宰府の介入(かいにゅう)は受けない」
という命を現地に下しました。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 これを聞いた源師時(もろとき)という中級貴族は、
「とんでもないことだ。
 日本の弊亡(へいぼう)は論をまたず、
 外国の恥辱(ちじょく)となっても平気でいる。
 これはほかでもない、院の近臣の猿や犬のような行為だ」
とののしっています。
平氏の急速な台頭は、ごく初期の段階から、
院との政治的結びつきとともに、
律令系支配システムからの独立性をもつ荘園を利用して、
貿易の利益を獲得することを通じて、達成されていったのです。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 院政時代には、政治形態だけでなく、
経済的な基礎構造も大きく変貌しました。
寄進型荘園がおびただしく成立して、
荘園公領制とよばれる中世の土地制度が本格的に確立し、
また中国から銭貨(せんか)が大量に流入しはじめて、
貨幣経済の到来が実感されるようになります。
  平氏政権は、とくにこうした経済的変化に敏感でした。
平氏一門が大陸との関係深い九州・西国方面に
厖大(ぼうだい)な領地をもっていたことは、
1183年に平氏が都落ちしたとき
後白河法皇によって没収された一門の旧領
――これを「平家没官領(へいけもっかんりょう)」といいます――が、
西日本を中心に500カ所以上もあったことからわかります。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 1158年、清盛は望んで太宰大弐(だざいのだいに)の地位につきました。
この当時、国の守(かみ)などトップクラスの地方官は、
京都の貴族が就任し、現地に行かずに代官に支配をまかせ、
収入だけを受けとるのがふつうでした。
これを「遥任(ようにん)」といいます。
清盛の太宰大弐も遥任でしたが、九州を重要視し、
大宰府のもつ外交権に注目した結果にちがいありません。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 その証拠に、1166年、清盛の子頼盛(よりもり)は大弐となって現地におもむきました。
これは当時の貴族たちの常識からははずれた行動でした。
10世紀初頭に大宰府に左遷された菅原道真が、
すさまじい怨念(おんねん)で京都の朝廷を脅(おびや)かしたことを思うと、
時代の変化を感じざるえません。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 1170年代、清盛は大輪田泊(おおわだのとまり)を整備して、
宋の貿易船を入港させました。
従来大宰府で応接するのがきまりだった中国船を、
京都に間近い港まで招き入れたのです。
清盛に点のからい『平家物語』も、この事業には
「何事よりも、この経(きょう)の嶋(しま)つゐ(築)て、
 今の世にいたるまで、
 上下往来の船のわづらひなきこそ目出(めでた)けれ」
と賛辞を惜(お)しんでいません。
その開明的な姿勢は、人柱を立てるかわりに築石(つきいし)の面(おもて)に経文を書いた、
という「経の嶋」の名の由来にも、よくあらわれています。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 1180年に清盛のはからいで高倉上皇が厳島社に参詣した折には、
大輪田泊から「唐(とう)の舟(ふね)」がくわわって「唐人」が随行しました。
 1172年に宋の明州沿海制置使(めいしゅうえんかいせいちし) 
(日本・高麗への窓口にとなる
 浙江(せっこう)省寧波(ニンポー)市に置かれた地方官)が、
後白河法皇と清盛に書面と贈り物を送ってくると、
翌年、清盛は返事の書面を出しました。
法皇は返事こそ出しませんでしたが、
清盛とともに使者に贈り物をしています。
もちろん正式な国交を結んだわけではありませんが、
9世紀以来の伝統だった自閉的対外姿勢は影をひそめています。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 1183年、平氏政権が源氏軍の圧迫を避けて京都を捨て、
福原に遷都(せんと)した行動も、たんなる逃避ではなく、海に密着し、
対外関係を貿易を国家権力の基盤としようとする
「海洋国家」構想にもとづくものと考えられます。
 しかし、平氏政権が先導した対外姿勢の転換も、
貴族層の対外観をぬりかえてしったとまではいえません。
さきにみた中山忠親(ただちか)や九条兼実(かねざね)のような態度は、
中世後期になってもきわめて強固な伝統としてくりかえされており、
その正当性はいささかも揺らいでいません。
むしろ荘園制は、外国との正式の関係を開かないというたてまえを温存しつつ、
「唐物(からもの)」を入手しうる裏道を、貴族たちに提供しました。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)
 たとえば、10~11世紀の朝廷で故実家(こじつか)として知られた小野宮実資(おののみやさねすけ)は、
家領(けりょう)の筑前国高田牧(たかだのまき)から、
献上物として唐物を入手していますし、
九条家とならぶ最上級貴族近衛家も、12世紀末、
家領である九州の巨大荘園島津荘(しまづのしょう)
着岸した「唐船」から物資を得ています。
(『中世日本の内と外』村井章介 筑摩書房 1999年)