2022年2月28日月曜日

2月も終わり…

穏やかな朝
今日で、2月も終わる
早く終わってほしいのが…
 かわむさんのTwitterに

わたしは見ている
わたし達たちは見ている


かわむさんのイラスト

#NoWar  #нетвойне
1591(天正19)年2月28日に千利休は京都葭屋町(よしやちょう)の屋敷で切腹しました(千利休居士聚楽屋敷趾)。

今朝の朝日新聞の天声人語に利休忌について書かれていました。
…前略…
(利休切腹の)
▼表向きの理由は、寺院の山門に利休が自分の木像を置いたのが無礼だというものだ。
しかしそれだけではないはずだと、後世いくつもの説が取りざたされた。
娘を秀吉の側室に出すのを拒んだ。
秀吉のもくろむ朝鮮出兵に反対した……。
おそらく永遠のなぞだろう。
▼重要なのは、その死が天下統一の実現した時期に起きたことだと歴史学者の池上裕子
(ひろこ)さんが指摘している(『織豊政権と江戸幕府』)。
「内々の儀は宗易(
そうえき<利休>)が存じている」との言葉が残るように、秀吉に密(ひそ)かに話を取り次ぐ役割も利休は果たしていた。
そんな政治のやり方を脱し、石田三成ら若手官僚が前面に出たのが統一後の政権だった。
▼強固な統一体制のもと秀吉は明
(みん)の征服をめざし、その前段階として朝鮮に出兵した。
当時の国際関係の現実を無視した行動だったが止める者はいなかった。
自軍に、そして何より朝鮮の人々におびただしい死をもたらした。
▼専制君主の暴走が止まらなくなる。
戦乱期の日本に限らないことが最近のニュースから痛いほど伝わってくる。
2018年11月2日に大徳寺などを訪ねた記事

2020年2月28日の記事で、利休の切腹について転記していますので

日本文学史序説(上)』より「禅宗の世俗化」の一部を転記します( ..)φ
第五章 能と狂言の時代
 禅宗の世俗化


(前略)

 最後に禅宗寺院(殊に大徳寺)で発達し、16世紀後半に千宗易(利休、1552~91)によって完成されたのは、「茶道」である。
喫茶の習慣は中国から輸入され(禅宗と共に栄西がもたらしたという伝説があり、栄西には『喫茶養生記』一巻がある、12世紀末)、15世紀から16世紀にかけて、独特の建築(茶室)・書画(掛物)・生花・陶芸(茶器殊に茶わん)・社交的会話の全体を含む一種の総合芸術に発達した。
15世紀にはすでに専門の茶人があらわれ(珠光、1422?~1502?)、16世紀前半には紹鷗(じょうおう 1502~55)、後半には利休という宗匠が、広く同時代に知られていたらしい。
彼らは大徳寺と交渉をもっていたといわれる。
すなわち禅宗と総合芸術としての「茶道」との関係を想像させる。
しかもそれだけではない。
(『日本文学史序説(上)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
  室町時代の「茶道」は、固有の美学を創りだした。
茶室は、故意に小さく、脆く作り、掛物は、水墨・淡彩を貴び、花は、一輪を投げ入れ、陶器は、殊さらに形がいぶつなものを択び、表面の色を抑えて、釉薬の偶然につくり出した不規則な紋様のほとんどが汚れにちかいものをよろこぶに到る。
珠光はこれを「ひえかる」(冷え枯る)または「かる」(枯る)とよび(「古市播磨法師宛一紙」『茶道古典全集第三巻』淡交社 1960、所収)、紹鷗は「しほらしく」、「侘て」(「又十体之事」、同上書所収)という「侘び茶」(『南坊録』、茶道全集巻の九、創元社、1935,所収)とよび、利休は「小座敷の茶」、「露地草庵」の茶(同上)といった。
中国大陸の文化には、またおそらく今日知られている他のいかなる文化にも、意図して小さく脆くつくった建築を貴び、殊さらにいびつな陶器をよろこぶこのような美的価値は存在しなかった。
「茶道」に典型的な逆説的美的価値は、15・6世紀の日本においてのみ成立した全く独特のものである。
なぜそういうことが起ったのか。
紹鷗は「仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ」ること(「紹鷗門弟への法度」、前掲『茶道古典全集第三巻』)を重んじていたらしいし、利休の弟子がその師の言葉を記録した『南坊録』(16世紀末)には、「小座敷の茶の湯ハ第一仏法を以て修行得道する事なり」という。
また「紹鷗のわび茶の湯の心」を説明して、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕ぐれ」を引き、「花・紅葉」は金殿玉楼であり、それを見ていると、「浦のとま屋」になり、「浦のとま屋」もよく見ていると、そこに「花・紅葉」が見えてくるのだ、という。
利休が「小座敷の茶」と仏道とをくらべたのは、家は雨を防ぐに足り、食は飢をしのぐに足りればよいとする点で、両者が相通うからであった。
「花・紅葉」の美の代りに、「浦のとま屋」の美をもとめたのは、前者の受身に対し、後者の美が、金殿玉楼も貧家も同じ「空」に還元した後に、想像力が積極的に作りだす美であったからだろう。
その意味で、紹鷗・利休の「茶道」と「仏道」との間には、たしかに内面的な関係があった。
もちろん仏道は必ずしも禅宗ではない。
しかし彼らは禅宗を通じて仏道に接したのである。
 かくして鎌倉時代以後の禅宗は、一方でその寺院が、政治権力と癒着し、他方ではその思想が、文学となり、絵画となり、遂に一種の美的生活様式となり、独特の美的価値に化した。
室町時代の文化に禅宗が影響したのではなく、禅宗が室町時代の文化になったのである。
すなわち宗教的な禅の、政治化と美学化を内容とする世俗化。
何がこの世俗化を推進したか。
おそらくは日本人の意識の深層に持続していた――鎌倉仏教にも拘らず――此岸的・世俗的・土着世界観以外のものではなかったろう。
(『日本文学史序説(上)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v

この子たちが、帰る頃には平和な世の中になっていますように!
サイエンスZERO「“知られざる国民病”天気痛の正体に迫る!」(見逃し配信:3月6日まで
わたしも天気痛もちなのですが、
卑弥呼はその天気痛もちのおかげで雨乞いができたそうですよ(^_-)
そして渡り鳥は、自分がどれくらいの高度を飛んでいるか
飛び立つ時に天気が崩れるかどうかが分っている。
それは、鳥は耳の中に中耳といわれるところに気圧のセンサーがあるおかげだそうです。

シロハラ〔白腹〕
 スズメ目ヒタキ科。
全長24.5センチ、体重78グラム位。
ユーラシア大陸東北部のウスリー、アムール地方や中国東北部などの森林で繁殖しており、冬には日本、中国などに渡る。
日本では冬鳥として渡来し、ほぼ全国で記録はあるが、西日本に多い。
主に平地、低山地の常緑樹のやや暗い林にすみ、林下の落葉をひっくり返してミミズや虫類を食べている。
木の果実もよく食べる。
ツグミの仲間では一番腹が白いのでこの名がある。
越冬期には単独で見られるのが普通である。
(『野鳥の歳時記6 真冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)