2022年2月10日木曜日

今にも降り出しそうな

今朝は、どんよりと暗い空。
予報では、お昼頃まで曇りでしたが、
今にも降り出しそうなので早めに帰りました。

“南岸低気圧”で都心に雪が降る?」(NHK 2月9日)
 ぼく、シマエナガ。さんのTwitterに

こっちを見たままジャンプするシマエナガが撮れました

画像1 、 画像2 、 画像3
以前、読みたいなとネットで検索した時は「品切れ」になっていましたが
2022年1月30日 第14刷発行」されたのでさっそく注文しました(^^)v

立ち読み」で「扶余の雀」が読めます。
その続きと「あとがき」を転記したいと思います( ..)φ
 扶余の雀
……

「扶余(プヨ)では、雀まで違うのねぇ……」
 私は感に堪えてつぶやき、同行の友人は、
「それは思い入れがすぎるというもの」
 と笑った。
 なぜか私は扶余(プヨ)にぞっこんなのである。
 精気に溢れた雀たち。
 もともと雀とはこういうものだった。
 東京は北多摩郡、保谷の里の、我が軒ばにあらわれる雀たちのおどおどぶりが哀れになった。
(『ハングルへの旅』茨木のり子 朝日文庫 1989年)
 雀は참새(チャムセ)だが、意味は「ほんとうの鳥」である。
「まことの鳥」とはおもしろい。
これではほかの鳥はまがいもののごとくである。
 雀は人間の住むところ、その近くでないと生きられないというが、農耕文化が始まって以来、もっとも身近な鳥として、どこの国でもありふれた空気のような鳥だったのだろう。
 夕ごはん前のひとしきり、子供たちが遊びに惚(ほう)けて無我夢中、昻奮のあまり叫びかわしているような雀たちと別れてその場を離れた。
 帽子をかぶった石仏のほほえみに見守られながら、彼らはあの木で安らかに眠るのだろうか。
 たそがれどき、
 今でもよく扶余(プヨ)の雀を思い出す。
 私もまた一羽の雀のように、定林寺跡の大木に帰ってゆきたいような。
  あとがき

 ハングルを学んで十年を経た。
 十年やったぐらいで、こういう本を書くのはなんともおこがましい気がしたけれど、朝日新聞社図書編集室の広田一さんにすすめられるままに、我が寿命のこともあるし……で、書いておこうと思った。
 隣国語の魅力、おもしろさに、いろんな角度から光りをあてて、日本人、特に若い人たちに「私もやってみようかな」と、ふと心の動くような、いわば誘惑の書を書きたかったのである。
 本文のなかで何度も触れたが、語学全体のなかでみると、隣国語をやる人があまりにも少なく、それで交流などと言ってもはじまらない気がする。
 この本を書きあげる頃には、まずまっさきに編集室の広田一さんを誘惑できなければならないと、ひそかに目標を定めていたのだけれど、彼は私にどさりと原稿用紙を送って下さった直後ぐらいから、自発的に学びはじめ、いつのまにか同学の士になっていたのである。
その熱意に、どれだけ刺激を受け励まされたかわからない。
 私自身たのしみながらと始めたのだが、実際は苦渋に満ちた仕事になった。
過去の歴史――日本側の一方的な非が重たくのしかかってきて、言葉だけに限ろうとしても、そうはいかないものがあった。
 からだのほうがすっかり参ってしまい、生まれて初めて入院という羽目になり、あれやこれやで最初の約束の時から四年近くの歳月が流れてしまった。
 同学にして同行の志だった広田一さんは、私がなんとか書き終えた頃、事典編集室に移られてしまった。
そのあとを引きついで下さったのが上野武さんである。
 日本文とハングルの混合を印刷するのは、かなりややこしく、特にカタカナでルビをふるのはむずかしかった。
カタカナでは完全に表記できないことを痛感しながら、能うかぎり近い音でと頭を悩ませた。
日本ではまだハングルにふるカタカナのルビが統一されていない段階である。
 上野武さんには、このしんどい仕事につきあって頂き、編集万般のお世話になった。
印刷所や校正の方々をも大いに悩ませてしまったようである。
 菊池信義さんからは、韓国の指貫(ゆびぬき)を使ったすてきな装幀を頂いた。
 このお三人をはじめとし、この本をまとめるにあたって、実に多くの方々から言いしれぬ恩恵をこうむっている。
 私に何かを与え、何かを考えさせてくれた韓(から)の国の、名前も知らない、行きずりのひとびとを含めて。
 それに見合うだけのものを書けたかどうか、こころもとないかぎりだが、深い感謝を抱きつつ、また次なる峠へと歩いて行かなければ。
  1986年4月
         茨木 のり子
(『ハングルへの旅』茨木のり子 朝日文庫 1989年)

わたしの転記も正確ではないと思いますので、本書を手に取って下さい(^^)/