2022年2月11日金曜日

建国記念の日

 昨日と違って青空が広がっていました(^^)v
妹が再放送を録画してくれていた(契約していないのでBSを見られない(^^ゞ…)
一瞬の、永遠の、にっぽん「旅の果ての京」〟(2020年7月19日の再放送)

デヴィッド・ボウイが愛した正伝寺が紹介されていました(2019年12月23日の日記)

与謝蕪村の句も紹介されていた(「与謝蕪村宅跡」京都市歴史資料館)
臨終の句

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

与謝蕪村の墓は、「佛日山金福(ぶつにちさん こんぷく)寺」にあります(2016年5月9日の日記)
京都を歩ける日は、まだまだ先のような……

関西3府県 「まん延防止」延長要請など 週明けにも検討〟(関西NHK)
大阪府職労のTwitterに(2月10日)

今日の記者会見で、吉村知事が高齢者の重症化が多いことや
大規模医療・療養センターには介護・介助の必要な方が入れないことを強調し、
デルタ株のときとは状況が違うと言ってましたが、
第4波のときから保健師は
「介護・介助の必要な方や高齢者の方が入る施設がない」と
何度も声を上げ続けていました。
河津さくらの蕾が膨らんできていて花びらも見えてきました。
今年も見ることができそうです。
ただ大阪の感染爆発や医療崩壊で私もいつ感染するかわからない。
先のことを考えるよりも一日一日を生きることが難しい世の中です。

ハートネットTV「がんを克服して“生きる” 宮本亞門」(見逃し配信:2月15日まで
宮本亞門さんが前立腺がんの体験を話してくれていました。
私も前立腺がんになるかもと考えています。
癌を発症したら宮本亞門さんのようにお医者さんを信頼してまかせようと思っています。
私は、皮膚ガンを摘出したことがあるのでガン体質だと思っている。
でも、正直コワイなぁ…
入院中、病院の掲示板に女性の場合は、大腸がんで亡くなる方が一番多いと書かれていました。
気になっても診てもらうのを躊躇しますよね…
最新がん統計」(国立がん研究センター)

ハートネットTV「母がくれた死への予習時間 落合恵子」(見逃し配信:2月16日まで
では、落合恵子さんは、毎年、1月1日に書き初めをされているそうです。
今日は「建国記念の日」
父の時代は「紀元節」。
昭和15年(1940)10月13日に紀元2600年祝賀行事が開かれています。

新日本発足の雄叫び国民大会の盛況」(NHKアーカイブス 1940年)

1940年に紀元2600年ですから、始まりは紀元前660年になるのかな?
日本は縄文時代晩期になるなぁ…
大和朝廷は中国大陸や朝鮮半島から弥生時代の頃に渡来した人々だと考えると
まんざらデタラメとは言えないかも…
国内で蔓延している嫌中・嫌韓の人々は、ご自分の祖先へのヘイトをしているのかな?
自国の歴史を知らず、“迷子”になる日本人 日本の原点は「多民族共生国家」〟(山田順 東洋経済 2013年5月8日)
第十章 独ソの政略に振り回されるなか、南進論の大合唱

●〽紀元は二六〇〇年……


 その頃国民は、生活状態も押し詰まってきて自由がきかず、心の中にかなりの不満を抱いていました。
それをなんとか抑(おさ)えていられたのは、中国では勝てる戦争をやっている、そしてそれは正義の戦いであり、決して間違ったことをしていわけではない、という意識がマスコミなどによって叩(たた)き込まれていたからです。
ただ、泥沼(どろぬま)の戦争がえんえん続き、しかも報道によればアメリカとイギリスが次々に蒋介石に援助物資を送っている、おまけにアメリカは日本に強硬な経済的圧迫をますます強めてきている。
ABCD包囲陣(ほういじん<Aがアメリカ、Bはブリティッシュ、Cはチャイナ、Dはダッチつまりオランダ)という言葉が、新聞紙上に躍(おど)りだし、そして「米英討(う)つべし」の声も聞こえはじめている……というので、なんとなしにもう一つドカーンとやればすべてが解決すような、次の戦争を望むような、どちらかといえば好戦的(こうせんてき)な風潮が、国民の心のなかに生れていたといってもいいと思います。
日本の明日を脅(おびや)かす〝敵〟がすぐそこにいるんだ、それを叩かないことにはこの状態がいつまでもだらだらと続いてゆくというやりきれない思いが国民の心理を揺さぶっていたのではないでしょうか。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)
 その年がちょうど、前に話しました「紀元二六〇〇年」にあたっていました。
東京でオリンピックや万国博覧会(ばんこくはくらんかい)を開催する計画があり、そのために隅田川河口(すみだがわかこう)(かち)どき橋(ばし)がつくられました――この橋は真ん中から割れて万歳(ばんざい)をするような形になるので勝どき橋と名付けられたと、私も子供のころは思っていたのですが、そうじゃなくて、昔からあそこには勝どきの渡(わた)しがあって、単にそれをとって名付けられたらしいのですが。
 しかしヨーロッパでは大戦が行なわれ、アジアでは日中が戦争をしているといった世界情勢のため、オリンピックも万博も中止になりました。
けれども、国民のなかに鬱屈(うっくつ)した思いがありますから、紀元二六〇〇年のお祝いだけは盛大にして景気をつけようじゃないかということになり、11月10日、宮城前広場で大式典が催(もよお)されました。
 この時、「金鵄上がって十五銭、映えある光三十銭、鵬翼(ほうよく)高い五十銭、紀元は二六〇〇年、ああ一億は困ってる~」と歌いました。
要するに金鵄(ゴールデンバット)も光も鵬翼も煙草の名前で、その値上げをもじった歌が流行ったんですね。
 裏側ではそんなふうに「お目出度(めでた)くもないよ」と毒(どく)づきながらも、表では盛大にお祝いに天皇皇后がお出ましになり、宮城前広場に約5万人が集まって「君が代」を斉唱(せいしょう)し、総理大臣近衛文麿(このえふみまろ)が寿詞(よごと<お祝いの言葉>)を申し上げ、ラジオが中継で全国に放送しました。
また花電車やイルミネーションで飾られた電飾市電(でんしょくしでん)が走り、もちろん提灯(ちょうちん)行列も華々(はなばな)しいものでした。
新聞も大々的に報じました。
 「この日、聖典(せいてん)を祝福するがごとく、秋天(しゅうてん)(さわ)やかに澄(す)み渡り、宮極も太(ふと)しき寝殿造(しんでんづく)りの式殿は瑞祥(ずいしょう)の気燦(あきらかな)るごとく……」
 まあ、要するにめでたくて賑(にぎ)やかだったということを新聞記者は美文(びぶん)で精一杯に書いたんです。
およそほとんどの人が理解できない名文をですね。
 また高松宮宣仁親王殿下(たかまつのみやのぶひとしんのうでんか)がしずしずと前へ進んで、天皇に奉祝(ほうしゅく)の詞を奏上した時、「臣(しん)、宣仁」と言ったのがラジオで流れまして、「えっ、宮(みや)さまも天皇の家来(けらい)なんだ」と子供心にも思った記憶があります。
 いずれにしろ、これは太平洋戦争がはじまる前の昭和日本のもっとも輝ける日であったと思います。
そして式典が終わると、一斉(いっせい)に街頭にポスターが張られました。
「祝いは終わった、さあ働こう」
 まったくゲンキンなもので、政府はたちまち国民の尻をたたいているわけです。
 近衛首相にとっても一番栄光にみちみちた時だったでしょう。
ちなみに近衛さんはこのひと月前の10月12日、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)を発足(ほっそく)させています。
彼が総理大臣になった時から口に出していた「新体制運動」の実践であり、民政党や政友会など日本の過去の政党がこの時すべて解散して翼賛会に吸収されてしまいました。
その後の日本は、大政翼賛会を中心に政治が動いていくのですが、これも実際はたちまちに軍部と内政の中心たる内務省の支配下におかれ、どんどん戦争協力の御用(ごよう)機関となっていくのです。
 だいたい何か賑やかなことをやる時は、当時の日本ではすぐ軍部と内務省が出てきて仕切(しき)るのです。
大政翼賛会に入って、政治をもう少しなんとかしようとしていた心ある人もいたのでしょうが、内情を知るにつけ、次々に脱落(だつらく)していきました。
 式典の約半月後の11月24日、元老の西園寺公望が亡くなります。
戦前の21人の総理大臣は、この人が昭和天皇に推薦し進言することによってつくられたという、重要な役割を果たした人でした。
しかし前にも申しましたが、軍部があまりに強くなった頃、これではだめだとへっぴり腰になり、政治に口出しする気力を失って興津(おきつ)にこもったきりになってしまいました。
三国同盟が結ばれた時には、側近(そっきん)に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上で死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」としみじみ言ったそうです。
事実、西園寺さんの言うような日本になるわけですが。享年(きょうねん)91でした。
(『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』半藤一利 2009年)

元老西園寺公国葬」(NHKアーカイブス 1940年)
今朝の父の一枚です(^^)v
アオジの動きは素早いのによく写せたと思いますp(^^)q

晩ご飯の時に明日は「建国記念の日」で公園は来園者が多いだろうなぁと話していたら
紀元節の歌を覚えていて歌ってくれました。
歌詞が難しかったので聞きとれなかった(^^;)
父も提灯行列について行ったと話していました。
御世を寿ぐ大奉祝会」(NHKアーカイブス 1940年)